10の月―上―
10回この季節を繰り返せば、いつの日にかこの日々にも慣れるのかと思っていた。毎年訪れる13月、その月にしか会うことができないサツキさん。そんな彼に恋をして、けれど、私はこの日々に慣れることは終ぞなかった。会えないことが基本なのだ。13月の中でも会えないことも多いのだ。
それを理解していても、私はいつでも何度でもサツキさんに会いたくて仕方なくなる。いつまでこの日々が続くか分からない、もしかしたらある日突然失くなってしまうかもしれない。
それが恐ろしいけれど、私は焦がれる気持ちを抑えることが、ずっとずっと出来ないでいる。
彼と出会って10年がたった。
***
「…受験…紫織は高等学校へ進学するの?」
月明かりに開きっぱなしになっている参考書を照らしながら、サツキさんは首を傾げる。
「だいたい皆がそうだよ」
ベッドに寝転び、ベッドサイドのライトをつけながら英単語帳を開き、私は答えた。私は真面目に机に向かうよりも、こうして好きな格好で勉強している方が頭に入る。お母さんは「真面目にやってよ」と言うけれど、これでも私は大真面目に勉強しているのである。
中学校生活も残りあとわずか。大晦日だお正月だといっても、受験生にそんな暇はない。だから年が明けた今でも、私はこうして勉強していた。階下ではまだテレビをつけて、年越しライブを見ている音がしている。
「紫織はどんな学校へ行くの?」
サツキさんがゆっくりとベッドに腰掛けながら私を覗きこむ。
「どこって…普通の学校だよ?」
大学への進学率がそこそこ高い公立学校。今の成績のままだと合格圏内だけど、そこで気を抜いてはいられない。
サツキさんは私の答えに「ふぅん」と呟きながら、私が見ていた英単語帳を見て、ぎこちなく「ほーぷふる」と言っている。サツキさんの本来いる所では、それ程高校進学する人はいないらしい。中学校を卒業したら働く人や家業を手伝う人がほとんだと、教えてくれた。やっぱり、サツキさんの居る時代は私より確実に過去なんだろう。
こんな所を見て、また私はサツキさんとの隔たりを感じてしまう。やりきれなくて、私は無理矢理サツキさんから目を逸らした。サツキさんがここにいるなら集中できるはずもなく、勉強を諦めてふかふかの枕に顔を埋める。
そうすると、わずかに髪の毛を梳く感触。細い指先が地肌を滑っていく。心地よい、サツキさんの指だ。
私の髪は、この時肩より少し長いくらい。それを丁寧に梳るようにサツキさんは触れてくる。
「サツキさんは、よく髪の毛触るよね」
枕に顔を埋めたまま、ぼそりとそう呟くと髪を梳く手が急に止まった。
「…?」
見上げると、ふと考え込むような顔。不思議そうに私と自分の手を交互に見やっている。
「どうしたの?」
軽く開いたサツキさんの手に自分の手を這わせた。私からサツキさんに触れることはそう珍しくもない。なのに怯えるようにぴくっとその手は震えた。サツキさんの振動は私にも伝わった。
「いや…自分でも、どうしてだろうと思って」
余程紫織の髪の感触が柔らかいからかな、手触りがいいからかな、と自嘲気味にサツキさんは言った。私のベッドの端に腰掛けて笑うサツキさんに、私は見とれてしまう。
好きな人にこんなことを言われて、嬉しくない女の子が、この世の中にいるだろうか。
「…私も、触りたい」
単語帳を脇に放り出し、上半身だけを起こしてサツキさんに近寄った。懸命に背の高いサツキさんへ右手を伸ばすけれど、サツキさんはそれを許してはくれない。
「駄目」
「どうして」
「僕の我慢が効かないから」
「?何の?」
「…それを聞くかな」
その時、15歳の私には男女の駆け引きなど微塵も分からなかった。ただ単純に、サツキさんに触りたいと思っただけなのに。なのにどうして、サツキさんは許してくれないのだろう。
不服そうな表情がしっかり出ていたのか、サツキさんは私の手を押しやって、代わりにサツキさんが私を撫でた。
自分はいいのに私には駄目だという。理不尽だ、そんなの。
「…サツキさんの意地悪」
「ここで僕が止まれなくなったら、きっと紫織は後悔するよ」
21歳のサツキさんは、大人っぽく子どもの私にそう窘めた。まるで5歳の子供を優しく叱るみたいに。
けれど、そんなものじゃ騙されてあげないと私は逆に奮起する。
なにかサツキさんは勘違いしてるみたいだけど、私は立派な大人になった…つもりでいた。
好きな人には触れられたいし、好きな人には触れたい。当り前のことを、何の躊躇いもなしにやろうとしていた。触れることで得られる気持ちは麻薬のようだ。
触れられない時になってから後々苦しむことになろうとも、この時の私はそれでもいいと思っていた。
今触れられないことの方が、よっぽど苦しい。
私は抵抗するように身を乗り出した。サツキさんのサラサラの髪の毛が眼前に迫って、けれど、またしてもその手は拒まれた。
「こら、紫織」
「どうして?」
「今ここで、僕が不貞を働いても?」
「サツキさんが私にすることは、不貞なんかじゃない」
きっぱりと言い切った私に、サツキさんは困ったように眉をひそめた。きっと、サツキさんは私の気持ちに気づいている。気づいていて、気づかないフリをしている。そして、彼も私を想う気持ちは少々育っているのではないかと、そう思うのだ。年々、サツキさんは苦しげな瞳で私を見るようになったから。
出会った頃の小さい紫織ではなく、女になりつつある紫織にようやく気づいたのではないかと。
けれど、自制心の塊であるサツキさんは、容易にその気持には流されてくれない。私の手を取ろうか迷って、やっぱり止めたと言うように力なく手を降ろすしてしまう。それを見て歯噛みする私の気持ちなど、知りもしないのだ。
思わずぎゅっと拳を握りしめて、私はサツキさんの胸をどんと叩いた。
「――ずるいわ」
「狡い?」
「サツキさんだけ触れることができて、私だけダメなんてそんなのずるい」
こんな言い方をするから、子どもっぽいと思われてしまうのだろうか。
けれど、10年来のサツキさんへの甘え癖で、私はサツキさんを頷かせる術を知ってしまった。
覗きこむようにして、サツキさんを見上げる。わざとらしい、上目遣い。
「サツキさん」
お願いするように、声も甘くなる。
けれど、サツキさんもしぶとかった。
「駄目」
「……もう!!」
押し問答にも、サツキさんは頑として首を縦に振らない。
後から思えば、なんて馬鹿げた言いあいだろう。
けれど、いい加減イライラしていた私は、力任せな行動に出てしまった。
「ちょっ…紫織!」
サツキさんが止める暇もなく、勢いでサツキさんの両肩を押して、ベッドに押し付けた。そう、大人の男の人を自分のベッドに押し倒したのである。
15歳の女の子が21歳の男の人にすることじゃない。でも、求める人が目の前にいて、本能が私にそうさせた。
サツキさんに触れたくて、触れたくて、そういう想いが溢れ出す。
1年ぶりに会ったのに、満足に触れさせてもくれないなんて、サツキさんはズルい大人だ。
あの時は――つい2年ほど前は綺麗になったと言って、私を抱きしめてくれたのに。
私はだから、躊躇うことなくサツキさんに触れることを覚えたのに、なのに、今になってサツキさんは私が触れることを拒むというのか。最初から触れられないことよりも、よっぽど酷い。
拒まれるのは、嫌だ。それはサツキさんが好きだからに他ならない。
好きな人に触りとたいと思うのは、当り前だから。
溢れ出して、止まらなくて、私はサツキさんをベッドに押し付けながら叫んでいた。
「…いい人になんかならなくていい!!」
「し、紫織…?」
「サツキさんは、もう大人だけど、なんか悟りを開いたみたいに、急に物分かりよくなっちゃって…!い、今更“いい人”になんかならなくていい!サツキさんが私に触れることを、私がサツキさんに触れることを、不貞だなんて言わないで!」
言いながら、泣きそうになった。
サツキさんが遠い人になっていくみたいで、哀しかった。
何よりも誰よりも近い位置に居た、大好きなサツキさんが遠くなる。それがたまらなく嫌だった。
「紫織…」
「じゅ、15歳でも女なんだから!!ナメないで!!」
もう、声は詰まり詰まりだった。嗚咽を堪えるのに必死で、無様だった。
自分が何を喋っているのかも、定かじゃない。頭の中がごちゃごちゃして、急に私と距離を取り出したサツキさんが哀しくて、ただ、溢れるばかりの言葉をサツキさんにぶつけるだけしかできない。
ついにぼろぼろと涙が零れ落ちて、サツキさんの頬に水滴を落として行く。
相変わらず、私はサツキさんを押し倒したまま、堰が切れたように、泣き続けた。
ただ泣き続ける私を、サツキさんは黙って見ていた。時間が立つにつれて、泣きながらも、私の頭の中はどんどん冷静になっていった。
(…何してるんだろ、私)
こんな、男の人を押し倒してみっともないこと。
一度そう思い始めると、どんどん後悔してしまう。
泣きわめいてサツキさんの心を手に入れられるなら、とっくにそうしていた。
恐れも何もなかった昔なら。でも、今は怖い。サツキさんが遠い人になりそうで怖くなった。もともと遠い人ではあったけれど、でも、もっともっとその距離は空いてしまって、手を伸ばしてももう掴んでもらえないんじゃないかって。
恐怖だけが私の中で膨らんでいくと、もうそのままではいられなかった。
押し倒していたサツキさんの上から、私は身を引いた。
頬をぼろぼろ流れる涙だけは止まらない。情けなくて、みっともなくて、消えてしまいたかった。
サツキさんの本心を聞けたあの頃でさえ、こんなに怖くはならなかった。
年月を経るごとに気まずさは募っていった。でも、気まずいのはサツキさんに対する想いが特別すぎるからだ。
サツキさんに対する執着は、多分恋心と言う名の、厄介な感情だった。
ヒクッと肩を震わせていると、押し倒されたままの格好のサツキさんは緩く息をついた。そのまま腕を上げて、私がサツキさんの頬に零してしまった涙を拭う。結局、サツキさんは私に触れるのだ。心底、ずるい大人だと、そう思う。
そんなサツキさんを見て私は叶わない願いを持ってしまうのだ。
(…私をおいて、一人で大人にならないで…)
どうしてもやるせなくなって、私はついぽつりと零してしまった。それは、どうしたって叶えられない。
「…おいてかないで…」
ただでさえ、サツキさんは過去に生きる人なのに。
私たちの年は6つも離れていると言うのに。
私たちは交わることのない人生を歩む予定だったのに。
サツキさんは一人、先へ行ってしまう。
「…僕も、怖いんだよ」
私の呟きに、サツキさんは囁くように返した。ずっと鼻を啜って、サツキさんを見た。右腕で、私に覗かせないように目を隠してしまっている。
どうしようもないと言うようにサツキさんは声を零す。
「僕が紫織に本当の気持ちを言ってしまえば…君を壊しそうで怖い」
狭いベッドの上、仰向きに横たわるサツキさんと、へたり込んでいる私。
濃密な空気が、ゆっくりと2人の間を流れていく。寒いはずなのに、私の頬は火照っていた。
紡ぎ出す息が速い。それと同時に心臓の鼓動が、スピードを上げる。
のそりと動いて、サツキさんの顔を上から覗き込んだ。もう腕はどけられていて、私の瞳とかち合う。
夜色のサツキさんの瞳が私を見つめている。きっと、誰よりも美しいそれに魅せられたように、すっと顔を近づけた。
好きで。サツキさんが好きで、大好きで。だから、躊躇いなく言える。
「いいよ…サツキさんになら、壊されてもいい…」
15歳の私の、飾らない本音に目の前のサツキさんは目を見開く。この頃の私は盲目だった。恋がそうさせていた。
ありきたりな愛の言葉でも、今の私に囁ける精いっぱいを、この人に伝えたいと思った。
「…すき…」
その想いはこの言葉に全て込められた。これ以上、何が言えるだろう。
「だいすきなの…」
ふっと、サツキさんが眉をひそめた。
それを言ったら、もう元には戻れないとでも言うように。
分かってる。十分すぎるほどに。
「…時々、思う。自分はおかしいんではないかと」
眉をしかめ、どこか遠くを見つめながらサツキさんは言った。
その瞬間、彼の瞳は私を捉えた。どこかあきらめたと、そんな風に目を細めるサツキさんの表情を、きっと私は忘れられない。
「紫織をどこかに連れ去って、もう誰の目にも触れさせたくなくなる…」
狂ってる、と、自嘲気味にサツキさんは言う。
どこか苛立ったように、低く呻き声を上げた。戸惑うように、そっと左手を私のほうへと差し伸べた。
冷たい指先が私の項に触れる。それでも、サツキさんの手の平は汗でほんのりと湿っていた。
「連れ去ってよ」
叶えることはできない、私の望み。けれど、ずっとずっとそうして欲しいと思っていた。
サツキさんの隣で四六時中一緒に居れたなら、私は今死んだっていい。そうしたら、サツキさんの時代に、世界に連れて行ってもらえるのに。
不毛だ。
そんな不毛な思いを抱えながらも、私はサツキさんが、欲しいとそう思ってしまう。その思いはもう、止められないところまで来てしまっている。
「紫織」
彼の、私を呼ぶ声が好きだ。私を引き寄せる手も、抱きしめる腕も、匂いも、すべて。
私は引き寄せてくる力に抗わなかった。抗う理由がなかった。
でもその力は、やっぱり一定の距離のところで弱まってしまう。サツキさんは優しいから、きっと、自分からはもうこれ以上求めないだろうと、そう思った。
それなら、私からいく。
躊躇も、恐怖もなく、私はサツキさんの首に手を回して、顔を近づけた。
今越えようとしている壁を、禁忌を、力づくで越えてしまうことを私は後悔しない。
決して。
重ねた唇は、甘く、溶けてしまうのではないかと思うほどに心地よかった。先にそこに触れさせたのは私の方だったけれど、重なった途端にサツキさんは私の後頭部に手を回した。
きつく唇を押し付けて、貪りあうように求め合った。角度を変え、サツキさんが少し戸惑っているのが分かると、私は自分から口を開く。そして、サツキさんは私の行動をもう、止めようとはしなかった。導かれるように、柔らかな舌が私を蹂躙する。
(このままひとつに溶け合ってしまえばいいのに)
口腔を弄られながら、私はひとつ涙を零した。
「紫織の将来も何も考えずにいれたら、きっと僕は幸せだろう」
けれど、それはどうしてもできないと言う。
同時に、もう私を手放すことも、できないのだと。
矛盾した想いを、サツキさんはずっとずっと抱え続けて苦しそうに目を眇めるのだ。
キスを終えて私はきゅっとサツキさんの首に抱きついた。
ようやく触れることが叶って、そして、知る。
私もサツキさんを、どうしても手放したくないんだと。
サツキさんとのキスは、蕩けてしまうくらいに甘くて、幸せになれるのだと。
きっともう、引き返せない。私はサツキさんを愛していて、そしてきっと、サツキさんも私を愛している。
傲慢な想いかもしれない。もしかしたら、私の都合のいい妄想かもしれない。
けれど、この人に触れることが出来る至上の幸せを噛みしめていたい。あなたと出逢って、10年目の13月。
ようやく、あなたは私に触れることを許した。それは同時に、焦がれるほど苦しい両想いの始まりだった。