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13月  作者:
3/7

8の月―上―



サツキさんと過ごす季節はいつも冬だ。そして、会える時間はいつも夜だった。

サツキさんと言えば冬と夜。そして月。年によって違うけれど、サツキさんが現れるのは大抵晴れて月がよく見える夜だと、幾年か一緒に過ごすようになってやっと分かってきた。

私の暮らす街は田舎だけれど温暖な地域で、雪が降ることはめったにない。だから、雨が振らない限りその月が曇って見えなくなることも、ほぼないのだ。

「月が私達を会わせてくれるのかな」と、その時まだ小学生だった私が少女漫画のようなセリフを呟けば、サツキさんは可笑しそうに笑った。

「じゃあ、月が落ちてこない限り、僕たちはずっと会い続けることができるのか」と。


それを言われた時、私は不意に怖くなった。

永遠にこの時間は続くのだろうか。まさか、そんなことはあり得ないと、この時から口には出さずとも私達は二人とも恐れていたような気がする。その気持ちを押し隠して、よく私はサツキさんに抱きついていた。サツキさんが消えていかないように、この場に留まってくれるように抱きしめた。

それでも、朝が来ればサツキさんは、そこにいたことが嘘であるかのように、自分のいるべき場所へと帰ってしまうのだ。



***



「お正月、温泉旅行にでも行こうか」


中学生に上がった年の年末、お母さんがそう言うのを、何かしら理由を付けて必死に止めさせた。

「寒いから外に出たくない」とか、可愛くないことを言って。なんなら夫婦水入らずで二人で行ってきなよ、とまで言ってしまった。もちろん、中学生の娘一人をこの家に残すことは考えられず、2月の祝日三連休に行こうか、とこの時はそういう風に落ち着いた。

それをサツキさんに言うと、困ったような嬉しいような、微妙な笑顔を浮かべた。

「お母さんには申し訳ないけど、素直に嬉しいな」と言って。


「僕はさ、紫織に会えるこの時間が、好きなんだよ」


そんなことをサツキさんが言うから、そんなサツキさんを見てしまったから、私は止めなければいけない想いに益々拍車を駆けてしまうのだ。

サツキさんに恋してしまう。そんな気持ちを。


大きくなるにつれて、13月の過ごし方は、当然だけど変わっていく。幼い頃は私が一方的に喋って、サツキさんはそれに相槌を打ち、その内に私が眠気に負けてうとうとしだすと、サツキさんに寝かしつけられる、という正に兄と妹のような関係だった。

けれど、私が10歳を超える頃から、少しだけ沈黙が増えた。私は妙にサツキさんを意識しだしてしまって、上手く喋れなくなってしまった。だから、そんな空気を誤魔化すように、二人して本を読んだ。私の本棚には、お父さんやお母さんから譲り受けた本、図鑑、自分で買った小説が山のように収められている。それらを一つずつ紹介して、サツキさんが興味を引かれたものを、一緒に読むのだ。

本を読む時だけは、私は多弁になれた。主人公の言葉やモノローグから考察を言い合う時間は、とても楽しかった。サツキさんはあまり自分のことを話さない人だけれど、兄弟が多いことや、自分のお兄さんが小説家だということは昔に聞いたことがあったから、本の話なら彼も好きだろうと思っていた。それは当たりだ。


サツキさんは「綺麗な本だね」と図鑑や文芸の製本を見ながらポツリと呟いていた。

この時から、私は、サツキさんが過去の時代を生きる人なのではないかと、そう思うようになっていた。



***



中学校生活は案外面倒くさい。小学校の時みたいに友達と校庭で遊ぶ時間なんてないし、テストはあるし、先生は服装や髪形に口うるさい。思春期を迎えた女の子たちは誰が好きだとか、あの子は男子に媚を売ってるだとか、シカトしようだとか、そんな下らないことを言っている。

長年、年上のサツキさんと過ごしてきたせいか、私は同い年の子たちとあまりうまく馴染めずに、友達も多くはなかった。

小学校から知ってる子たちが何かと目を掛けてくれるけど、中学校から一緒になったクラスの女子からは、ツンとして生意気だとか、孤独を好むのだとか、好き勝手言われていた。

けれど、落ち込んでしまうほど孤立しているわけでもない。微妙な立ち位置だ。


そういう時は、穏やかなサツキさんの顔を思い浮かべる。そうすると、すっと心が落ち着いて、女子たちの陰口など、どうとでもなるような気がした。会えないと分かっていても、サツキさんに早く会いたいと夏中そんなことを考えて過ごした。

無駄だと思うのに、ついつい考えてしまうのだ。

一年中、13月だったらいいのに。ずっと、冬で夜だったらいいのに、と。


春から秋にかけて、そんなことばかり思って過ごした一年が終わる。待ちに待った年の瀬の大晦日の日。


「そういえば紫織。期末テストの成績表、見たわよ」


紅白歌合戦を見ながら家族3人で年越しそばを突いていると、お母さんが唐突にそう言った。それはつい1週間ほど前の終業式にもらってきた薄い紙きれだ。部屋のゴミ箱に捨てたはずのそれを、お母さんはわざわざ発掘してきたらしい。

向かいで、お父さんが聞きたそうな顔をしている。それを視界の端に捉えて、思わず眉を顰めた。私はいつのころからか、親に成績表を素直に渡せなくなっていた。


「すごいじゃない、学年3位だなんて」

「本当か?なんでもっと早く言わないんだ」


2人揃って嬉しそうに顔を綻ばせている。私は曖昧に笑って箸を置いた。


「そう?なんか、微妙だけど。3位って」


成績表を捨てた日、学校の帰り際に教室で聞いてしまった女の子の声が耳の奥で蘇る。


『なんかさ、南さんってチョーシ乗ってない?美人で頭いいからって』

『男子に話しかけられても、いっつも無視してるよね。冷たいっていうか』

『美人で秀才のお眼鏡に適う男子がいないんじゃない?』


けらけらと可笑しそうに、意地の悪さをしょうもない笑いで隠すような陰口を、廊下でじっと佇んで聞いていた。動けなかったのだ。

あからさまに虐められる訳でもない、ただの女子の陰口に、凍りついたように動くことができなかった。


(…調子、乗ったことなんて小学生以来ないんだけどな)


あの頃は頑張って100点取れていた。それを友達に「すごいね!」と言われて素直に嬉しかった。嬉しくない人などいないと思う。それを親にも胸を張って自慢していた。

今はそんなにうまくはいかない。どんなに頑張っても、もう100点満点は取れないのだ。あの頃胸を張ってサツキさんに見せていた100点のテストが懐かしい。だから、私にとって3位って微妙だ。

陰口に対しても、かっこいい女優みたいに、はっきりとクラスの女の子たちに言い返せるわけでもないし。

本当、私って微妙だ。


「来年もその調子でね」というお母さんに、曖昧に笑って「ごちそうさま」とだけ言って、私は急いで階段を上がった。5歳の頃与えられた自分だけの部屋を開けると、ほぅと安堵の息をつく。

部屋は変わらないけど、ベットやら家具やらは様変わりした。ピンクの女の子っぽい部屋は、シックで少し大人っぽいものに。ベッドで寝るお供にしていたぬいぐるみたちは、チェストの上に。勉強机に教科書や辞書が並び、クローゼットの中には、アクセサリーも増えた。


バタンと部屋を閉めて、私は白いシーツが掛けられたベットにダイブした。ちらりと時計を見ると、まだ午後8時半。まだあと3時間ちょっともある。一人で悶々とするのも嫌だったから、お風呂に入ろうと決めて身を起こした。机の上を見ると、くしゃくしゃに丸めて捨てたはずの成績表がきちんと皺を伸ばされて置かれていた。

私のくしゃくしゃになった心は、サツキさんに会えば綺麗になるのだろうか。

そんな想いを振り切って私はお風呂場に向かった。



***



「紫織、背が伸びた?」

「…サツキさん。それ、私が言いたいくらいなんだけど。そんなニョキニョキ背が伸びちゃったら、いつか天井突き破っちゃうよ?」


呆れてサツキさんを見上げると、当の本人は天井と自分の頭のてっぺん見比べている。そして、「こんな高い天井に頭が着くわけないだろう」と真面目に返してきた。


去年あたりから、私は今まで「さっちゃん」と呼んでいたのを改めて「サツキさん」と呼ぶようになった。サツキさんが「もう僕もさっちゃんって年じゃないし」と言ったのが原因だけど。

そんなサツキさんは今日は浴衣じゃなくて、真白いシャツにこげ茶のズボンを身に纏っていた。靴下は履かずに裸足。そのシャツから顔を出している手首や手は僅かに節ばっていて、掌も大きい。


出会ってもう8年も経ってしまった。私とサツキさんの年齢差は当り前だけど縮まらない。でも、背丈はどんどん離れていく。どんどんサツキさんが遠い人になっていくようで、何だか無性に怖かった。そういう姿の見えない恐怖は、サツキさんと会う度に大きくなっていくから、無意識に私はサツキさんのシャツを掴む。もうこれ以上遠くに行かないでほしいと、口に出して言うことは出来ないから、私は手で訴えてしまう。


サツキさんは、13歳になったばかりの私には、どんなに頑張っても追いつけない所に居るのだ。その距離感は場所や時間だけではない気がした。


「紫織?」


訝しげにサツキさんは私を覗き込んでくる。少しだけ色素が薄いその前髪に、触れたいと思う。そして私は一人で勝手に切なくなってしまうのだ。

私を呼ぶその声が好き。名前を呼びながら、私の手を取ってくれるぬくもりが好き。


「サツキさん…」


多分もう、ずっと好きだった。出会ったころからずっとサツキさんは特別だった。どうしようもないサツキさんとの隔たりを自覚して初めて、私の気持ちもはっきりするなんて皮肉なことだ。

この人を好きになって、どうするのだろう。だって、私とサツキさんは年に1回――12月の次の13月にしか会えない。サツキさんがどんな時代に居てどんな風に生活しているのかも、私は知らないのだ――知ったところで空しくなるのは分かりきっている。


もし、サツキさんに恋人とかお嫁さんがいるとしたら、私は後悔するだろうから。そんな色んな想いがぐちゃぐちゃに絡み合って俯いていると、そっと肩にぬくもりが触れた。まだシャツを掴んでいる手にも。


「どうした?」


その声で囁かれてしまうと、私は顔を上げざるを得ない。その声は、いとも簡単に私を従わせてしまう。

何も言えないでいると、ふっと、私の前にサツキさんのシャツが迫り、突然長い腕に抱きあげられた。吃驚して顔を上げると、意外にも哀しそうな顔をした私を見下ろしている。そのままベットに腰を下ろすと、サツキさんは私を横抱きにして膝の上に乗せた。

こんな風にサツキさんが振舞うのは初めてで、そんな表情を見せることも初めてだった。初めてづくしの私には、ただ呆然とサツキさんを見上げることしかできなかった。


「サ、ツキさん…?」


呼べば、髪からふわりと柔らかい石鹸の香りがした。


「紫織は、僕と会うのは嫌か」


妙にたどたどしくサツキさんは言う。その問は唐突で、私が虚をつかれて鋭く息を吸い込んだ。驚くほど真っすぐな瞳に私は目が逸らせず、けれど口から言葉は出てこない。代わりに、その瞳を見ながらゆるゆると首を振った。これまで以上にサツキさんに密着して、なのに感じるのは身を切られるような切なさだけだ。口を開けば、泣きそうなほどの熱い吐息が唇の端からこぼれ落ちていく。


「…どうして…そんなこと言うの…?私がサツキさんに会えるの、この時だけなんだよ?ずっとずっと1年中楽しみにしてるのに。私はサツキさんが――」


好き、と言ってしまいそうになる。言ったら、この距離感に益々耐えられなくなることは分かりきっているのに。苦しくなるだけだ、止めておいたほうがいいと、誰に聞かずとも私が一番理解している。言ったら苦しくなる。それは嫌だった。

年に1回しか会えないサツキさんとのこの時間を、苦しいモノにはしたくなかった。

サツキさんの哀しそうな顔なんて見たくない。サツキさんの柔らかい笑顔を見たいのに。それを言ってしまえば、サツキさんも私も笑えなくなる。会えない恐怖に身を貫かれるだけになる。


サツキさんは震える私を抱きしめて、私の頭の上に顎を乗せた。緩い呼吸に胸が上下しているのを感じて私は目を閉じた。


「…どこか遠くへ飛んで行ってしまいたいと、願ったのが最初だった」


何分経っただろうか、不意にくぐもった声がすぐ近くから聞こえてきた。


「え…?」

「除夜の鐘を聴きながら、そう願って目を閉じたんだ…そして、次に目を開けた時にはもうそこに紫織がいた。5歳の可愛い紫織が」

「……」

「見たこともない光景だったから、一瞬夢かとも思ったんだ。実際、眠る紫織に誘われて目をつむるともう元の世界に居たから」


そう言いながら私の髪の毛を撫で続ける。いつも私のおしゃべりの聞き役や遊び相手に回っていたサツキさんが、自分のことを詳しく話すのは初めてな気がした。


「そのひと月の間だけ、僕は紫織に会いに行くことが出来る…紫織に会わなきゃ新しい年なんて始められなかった。だから、僕の中で紫織と逢えるのは13月なんだ」


13月が終わって初めて、新しい年を迎えることが出来る。サツキさんのその考えはごく自然に私に馴染んだ。そうして、安堵する。サツキさんにとっても13月は特別だったと。

長い前髪の間から、哀しげな瞳がのぞく。サツキさんは多分、私が苦しそうに、悲しんでいることを心底心配してくれている。私が悲しめば、サツキさんも悲しくなる。

唐突に私は彼に触れたくなって、そっと前髪をかき分けた。サツキさんは私に顔を近づけて、コツリと額同士を合わせた。


「…紫織は大きくなったな」

「だから、大きくなったのはサツキさんの方だって…」

「違う」

「え?」

「『綺麗になったな』と、そういう意味で言ったんだ」


ひゅっと無意識に息を吸い込んだ。一気に顔まで血が上る。真っ赤な林檎みたいになってしまった、そんな私を見てサツキさんはくすくすと笑った。熱い頬に指を這わせて、髪の毛を耳に掛けてくれた。


「…私、まだ13歳になったばっかりなんだけど」

「だが、出会ったころは5歳の小さな紫織だったから。仕方ないだろう?」


よく考えれば、それはすごく名誉なことだ。そう言ってもらえる女の子は、この世界でどれくらいいるんだろう。私はサツキさんを見上げて、ようやく、はにかむように笑った。ごくごく自然に笑うことが出来た。



「…さっちゃんも、カッコよくなったね」

「ま、19歳の年頃の男の子ですから」


かわし方は、やっぱりサツキさんの方が上だ。さらりと返されて私は実をすくめた後、聞いた。

「サツキさんのこと、色々知りたいの。教えて」と。

8年以上も、聞きたくて聞けなかった彼のことを教えてほしいと、初めて私から望んだ瞬間だった。



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