第一次近衛内閣
1937年6月4日_第1次近衛内閣発足(朝日新聞記者風見章が内閣書記官長に就任。国内融和を図るためという口実で、治安維持法違反者、共産党員、二二六事件関係者等に係る大赦を主張)。1箇月後に盧溝橋事件勃発→北支居留民保護名目派兵→第二次上海事変交渉決裂→日中戦争(支那事変)拡大→「爾後国民政府を対手とせず」と発表、対中講和の道を閉ざした
1937年07月07日_深夜、北京近くの盧溝橋で、実弾を発砲する銃声が聞こえた。日本軍は演習で一切実弾を使わず、演習の実施をあらかじめ国民党軍に伝えていたので、その銃声は中国軍からの攻撃だと判断され、銃撃戦が始まったが、直ぐに、国民党と関東軍の間で停戦協定が結ばれ、銃撃戦は収まった(盧溝橋事件)
盧溝橋周辺は、国民党や共産党、匪賊、馬賊などが入り乱れて混乱状態になっていた。停戦協定は守られず、各地で武力衝突が起こった。そして、国民党は、共産党と手を組んで、関東軍と戦うことになった
結果として、盧溝橋事件で得をしたのは、中国共産党だった
1937年07月12日_パリ万博でピカソの『ゲルニカ』が公開された。ゲルニカ市民を爆死させたドイツ空軍の攻撃を非難する世論を喚起する為だった。芸術作品に高値が付く背景にある政治的意図は、隠されることが多い。
1937年07月29日_冀東防共中国自治政府配下の中国人保安部隊が自治政府主席をつかまえて謀反を起こし、日本軍部隊・特務機関を襲撃、日本人居留民223名を強姦等のうえ虐殺した(通州事件)
そして、国民党と関東軍の対立は深まり、国民党と共産党の結束は強くなった
結果として、通州事件で得をしたのは、中国共産党だった
1937年11月20日_大本営政府連絡会議 設置
会議員は外務大臣,大蔵大臣,陸軍大臣,海軍大臣,企画院総裁,参謀総長,軍令部総長。議長は内閣総理大臣 近衛文麿
1937年12月_中華民国政府が四川省重慶へ遷都。中華民国は、宣伝工作を豪人記者ハロルド・ティンパリーに依頼した(月額千ドル)。ティンパリーは1938年6月、‘WHAT WAR MEANS’を英国で出版した。「南京大虐殺の目撃記録」という体裁で、旧日本兵による放火、強姦、殺人といった数々の暴虐行為を描く創作物語だった
1937年12月18日_南京入場式
中国人の匪賊に住民が殺されたり、子供がさらわれたり、兵隊は悪いことをするものだという考えがあったが、日本兵の規律正しさに安心した住民が行軍を出迎えてくれるようになった
1938年3月_ユダヤ人18人がソ連と満州の国境まで逃げてきたが、満州国は入国を許可しなかった。
ユダヤ人たちの窮状を知った樋口季一郎少将は、食べ物、衣服、燃料などを与えたうえで、満州鉄道の特別列車で上海に脱出させた。後に「ヒグチ・ルート」と呼ばれるこの脱出路を通じて数千人(一説によれば数万人)の難民が救われた。
ドイツから何度も抗議があったが、関東軍総参謀長東条英機中将は、とりあわなかった。樋口の武士道精神を支持したのだった。
1938年4月_近衛内閣は、国家総動員法を制定して戦時体制を整え、同年11月には戦争目的に「東亜新秩序建設」を掲げる声明を発表した
共産主義者は取り調べを受けたが、ただ単にソ連に憧れるだけの人々が咎められることはなかった
1938年12月_女優岡田嘉子がソ連に憧れて演出家の杉本良吉とともに樺太からソ連に亡命したが、ソ連にたどり着くと2人は捕えられて厳しい取調べを受け、杉本はスパイ容疑で銃殺刑にされた
戦後のマスコミが地上の楽園と報道して多くの日本人たちを北朝鮮に送り込んだのと同様、当時のマスコミはソ連を地上のパラダイスであるかのように宣伝していたのだ