砕氷船テーゼ
1935年7月25日からロシアのモスクワで開かれた第七回コミンテルン大会で、スターリンが演説した
「ドイツと日本を暴走させよ!しかし、その矛先を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。日、独の敗北は必至である。そこで、ドイツと日本が荒らしまわって荒廃した地域、つまり、日独砕氷船が割って歩いた後と、疲弊した日・独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ。」
1935年8月12日_陸軍省軍務局長室に侵入した陸軍中佐相沢三郎が、執務中の永田鉄山局長を軍刀で切った。3年前に犬飼首相を殺害した五一五事件同様、国家社会主義思想に基づく犯行だった。永田鉄山局長が生きていたならば、近衛文麿が日本放送協会総裁に就任して国家社会主義的な考え方でウソを流す放送を始めたり、大東亜戦争や太平洋戦争に日本をのめり込ませることはできなかっただろうと、後世に評価される逸材が喪われたのだ。
1936年2月26日_資本家を殺すという「尊皇討奸」を掲げた陸軍青年将校らが千五百名弱の下士官兵を率いてクーデターを試み、高橋是清蔵相、斎藤実内務相、渡辺錠太郎陸軍大将、松尾伝蔵大佐らを殺し、鈴木貫太郎侍従長らに大けがをさせた
蹶起趣意書
謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。
然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す。所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして、その滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむる、火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。
恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。
臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。
皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。
昭和十一年二月二十六日
陸軍歩兵大尉 野中四郎
外 同志一同
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1936年9月_十年間空席だった日本放送協会総裁に近衛文麿が就任し、国家社会主義的な考え方でウソを流す放送を始めた
1936年10月_中国共産党軍は、中国西北部の陝西省に辿り着いた
陝西省の共産党幹部はソ連派だった。前年の遵義会議でソ連派から実権を奪った毛沢東派は、実権を奪い返されることを怖れ、地元の英雄でソ連派の劉志丹を暗殺した、国民党軍の仕業に見せかけて…
英雄が居なくなった地元の共産党幹部(習仲勲、高崗ら)は、毛沢東派に従うこととなった。地元民には文盲が多かったので民謡を利用してプロパガンダを仕掛けた
1936年11月_「昭和研究会」正式発足
昭和研究会は、新聞記者や共産主義者の巣窟で、主宰者は近衛のブレーン後藤隆之助だった。
1936年12月12日_共産党軍とにらみ合いを続ける国民党軍を励ますため、西安市に来た蔣介石を張学良が監禁して8項目(内戦停止、南京政府改組、政治犯釈放、民衆愛国運動解禁など)を要求した。蔣介石は、周恩来(元部下)、宋美齢(妻)らの説得を受け、8項目に合意して釈放された。追いつめられていた共産党は、張学良のおかげで生きながらえることができたのだった
張学良は、軍法会議にかけられることを望み、蔣介石に同行、国民党の監視下に置かれた
結果として、張作霖爆殺事件で得をしたのは、中国共産党だった