敗戦革命テーゼ
1928年07月_コミンテルン第6回大会で、スターリン(ソ連共産党の最高指導者)が話したのは、共産主義者が革命を成功させなければならないということだった。そのために必要なのは次のこと
(1)進んで軍隊に入り、祖国を裏切って戦争で負けさせる
(2)金持ちに都合良く作られている法律は守らず、秘密組織を沢山作って、ウソと騙しで祖国の偉い人たちを混乱させる
1928年12月29日_張学良は、満州で一斉に青天白日旗を掲げさせて、中華民国政府の味方になる気持ちを表わした
1929年4月16日_日本で、共産主義者339名が取り調べを受けた
1929年10月24日から始まる米国での株の大暴落による世界恐慌で、翌1930年から、日本では、神話『ソ連型の計画経済のみが日本経済を救済する』が絶対的に信仰された。ソ連型計画経済を解説した本がたくさん売れ、学界だけでなく、多くの官僚や軍人が読むようになった
1931年09月18日_南満州鉄道の線路が爆破された(柳条湖事件)。治安回復のため、関東軍は満州全土の制圧に乗り出した
1932年03月01日_張学良に味方しない有力者らが長春に集まって満洲国の建国を宣言し、愛新覚羅溥儀が満洲国執政に、鄭孝胥が国務院総理に就任した
1932年05月15日_大川周明の国家社会主義思想を信奉する青年将校らが[敗戦革命テーゼ]を実行しようとして、首相殺害等テロ実行
犯行後、犯人らは自首し、裁判が行われた
犯行は政治を良くするためにしたという弁護士の主張が新聞で報道された
「財閥の飽くなき私欲古賀中尉政党を罵倒」「国家革新運動の精神を力強く語る」「三上中尉、特権社会を痛撃し政党腐敗を憤る」「革命歌に感動、悩める西川熱弁」、「飢える農民のため、橘法廷で泣く」などという新聞記事を読んだ人々が犯人らに同情した
同情の高まりに手ごたえを感じた新聞社は、「時局に憤慨し首相官邸で切腹」、「被告の減刑願いに鮮血の小指9本」、「殺到の減刑嘆願6万を突破」、「7万の嘆願書中に尋常1年生5名」、「血書の減刑嘆願陸続6万通を越ゆ」などと報道した
世論に押される形で判決が変更された。故人を首謀者とし、他の者は禁固15年に罪を軽くされた
1933年03月27日_国際連盟総会で満州国の独立が否定され、中国の統治権が承認された。これに反対する日本は、国際連盟に対して脱退を通告した
1934年07月_国民党軍との戦いに負けた共産党軍は、西へ北へと逃げまわった。このとき、共産党軍を指導していたのは、ソ連留学者 秦邦憲,軍事顧問オットー・ブラウン,周恩来の3人だった
1935年01月_貴州省に辿り着いた一行は、方針を決める会議(遵義会議)を行った。周恩来、鄧小平らが、「秦邦憲とオットー・ブラウンのせいで国民党軍に負けたのだから、コミンテルンから離れた独自路線を採るべき」旨、主張した。周恩来は、軍事の最高指導者になった。その後、周恩来は、軍事的実力者 朱徳が支持する毛沢東に最高軍事指導者の地位を明け渡した。
1935年06月01日_NHK海外放送〔東京ローズ 情報宣伝〕が開始された