ナチスの台頭
ヴァイマル共和政下のドイツ国で、第一次世界大戦敗戦に伴う巨額賠償金の支払い、支払い遅延を口実とする外国軍の侵攻、領土割譲等の理不尽さに苦しめられたドイツ国民の憤懣に点火するようなクーデター未遂事件を起こしたナチスに対する支持は潜在しながらも、1928年5月の国政選挙で、ナチスは12議席を得た。
その頃、満州では、親日的な張作霖を爆殺し、犯行の濡れ衣を日本軍に着せた中国共産党と中国国民党の間で戦いが繰り広げられていた。
経緯は、次の通り。
1927年04月06日_北京政府大総統 張作霖 が共産党員の李大釗らを内乱罪容疑で逮捕した。3週間後に李大釗らが処刑され、共産党は張作霖を恨んだ
第1次世界大戦の影響でヨーロッパの映画産業が衰退した後の1920年代、アメリカ映画業界は隆盛を享受したが、ハリウッドは、キリスト教的道徳に縛られない 背徳の都となって醜聞を賑わしていた。
1927年5月11日、映画業界は、批判をかわすとともに、労働争議の未然解決を図る目的で、 AMPAS (Academy of Motion Picture Arts and Sciences 映画芸術科学アカデミー)を設立した。
会社側は、「映画における芸術と科学の発展」を目的に掲げるアカデミー賞を設けて、キリスト教的道徳観に沿う作品等を推奨しようと試みたが、スタッフや俳優らは、会社側の作品等選定に批判を浴びせるとともにボイコット等の手段を弄して主導権を奪いとった。
各社はアカデミーへの支援を行わなくなり、これを機にアカデミーはアカデミー賞セレモニーの放送権をテレビ局に売ることで自立するようになった。
1927年07月_国民党と仲が悪くなった共産党が各地で反乱を起こしたが、国民党軍によって静められた
1928年2月_日本国内で初めての普通選挙が行われた。田中義一内閣は、治安維持法違反者を一斉に取り締まった。日本共産党、労働農民党等の関係者約1600人余が取り調べられ、484人が起訴された(3.15事件)。東京帝国大学等のエリート学生148名も共産主義者として取り調べられた
1928年05月_北京政府を倒そうとして山東省済南まで攻め上った国民党軍は、居留民を保護しようとする日本軍と衝突した。国民党軍は、日本軍との対決を避けて迂回し、北京に向かった
1928年06月03日_日本と良い関係を作っていた張作霖は、北京で国民党軍を迎え撃とうとしたが、負けて北京を脱出した。翌日、瀋陽駅途中の鉄橋で突然乗っていた鉄道が爆発して張作霖は死んだ。張作霖の長男 張学良 は、張作霖爆殺事件の犯人が関東軍だと思い込まされて、日本に激怒した
1928年06月08日_国民党軍は、北京に入城し、15日に全国統一を宣言した
1929年10月の米国市場暴落を契機に世界恐慌が起こってナチスに対する支持は顕在化し、翌年の国政選挙でナチス議席は、12から107へと9倍増した。1932年7月には、230議席(全議席の4割弱)を得て国政第1党となり、4カ月後の解散総選挙でも国政第1党を維持した。1933年1月末に、支持基盤の無いパーペン首相の政権運営が行き詰まり、ヒンデンブルク大統領はナチス党首ヒトラーを首相に任命した。2日後、ヒトラーは、大統領に国会解散を要請した。選挙運動期間中、投票日一週間前に国会議事堂放火事件が起こり、逮捕された国際共産主義グループ員が「国会議事堂に火を付ければ革命勢力が立ち上がると考えて放火を行った」旨、供述したことから、ドイツ国民の共産主義者に対する恐怖心が拡がった。ナチスは、288議席(全647議席中)を得て、政権を獲得した。
政権を獲得したナチスは、ドイツ国民の共産党恐怖症に付け込んで「共産党」を非合法化し共産党81議席を抹消したので、288議席は「単独過半数」となった。
歴史を振り返ってナチス台頭要因を分析すると、次のような項目が浮かんでくる。
① ヴァイマル共和政下のドイツ国で、[第一次世界大戦敗戦に伴う巨額賠償金の支払い]、[支払い遅延を口実とする外国軍の侵攻]、[領土割譲]等の理不尽さに苦しめられたドイツ国民の[憤懣]と[奪われた領土奪還正当感情]
② 世界恐慌を引き起こす自由資本主義への懐疑の高まり
③ ヒトラーを支えるスタッフらの世論操縦術の巧みさ