日ソ国交回復
1921年07月_上海に各地の活動家たちが集まり、中国共産党を作った
1922年_レーニンの健康が悪化
1922年04月03日_レーニンが、トロツキーに対抗するため、ソ連共産党政治局に中央委員会書記長の職を新設し、初代書記長にスターリンを任命した
1922年10月25日_日本軍がシベリアから引きあげた
1923年、ルカーチはドイツ・フランクフルト大学の中で「マルクス主義研究所」を作った。「マルクス主義研究所」で研究する学者たちの集まりを「フランクフルト学派」という。
フランクフルト学派のマックス・ホルクハイマ―は、労働者階級が革命を起こすという理論に代わる「批判理論」を発表した。暴力革命を起こすよりも、長い時間をかけて西欧文化(キリスト教精神)を少しづつ虫食む方が政権を倒しやすいと言い、文化や教育制度を変えさせることを重要視する理論だった。
この学派のユダヤ人学者(M.ホルクハイマー、T.W.アドルノ、W.ベンヤミン、 H.マルクーゼ、E.フロム、ノイマン、J.ハーバーマス、シュミット等)は、ナチスの力が強くなるのを嫌がってアメリカに亡命し、コロンビヤ大学に助けてもらって、アメリカでフランクフルト学派を作った。フランクフルト学派が「マイノリティ」を重要視するのは、ユダヤ人が自分達を「少数派」だと感じていることが影響しているのではないかと言われている。
フランクフルト学派は、マルクス主義と無関係のふりをしたので、アメリカでも思想が知識人に受け入れられて広まっていった。
1924年01月20日_中国共産党員が個人として国民党に加入するという形で、国民党と共産党が手を組んだ
1924年11月_東京ラジオ放送局発足時の初代総裁は、日ソ国交回復に尽力して「赤い男爵」と異名をとり、その後の日本を「砕氷船」として、中国国民党やアメリカとの泥沼戦争に向かわせる状況を作った人物だった
1925年01月20日_日ソ基本条約が結ばれた
日ソ基本条約が結ばれた後、ソ連大使館のスパイが日本の出版界や学界に働きかけ、マルクスやレーニンの翻訳本が大量に出版されるようになった
貧困対策に対する日本人の関心が高まり、宮沢賢治がカールマルクスを天才と讃える『生徒諸君に寄せる』の執筆に着手した
また、漢冶萍媒鉄厰礦有限公司の日中合弁失敗等を齎した資本主義制度運用が民衆貧困化の原因だとする思想が蔓延した。
この風潮が、十年後の二二六事件に繋がるのである。
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1925年03月_東京放送局(初代総裁:後藤新平、理事長:岩原謙三)ラジオ放送開始
1925年_孫文(中華民国建国の父)が癌で死んだ後、蒋介石が国民党軍を広州から北京に向かって進軍させた
1926年08月_東京放送局+大阪ラジオ+名古屋ラジオ⇒NHK(総裁職は空席)
1926年、イタリア共産党書記長アントニオ・グラムシは、ムッソリーニ政権下で逮捕され、「獄中ノート」の中で「ヘゲモニー論」を書いた。「ヘゲモニー論」の内容は、「芸術、映画、演劇、教育、新聞、雑誌、ラジオなどを一つづつ手に入れて人々の考えを変えさせ、伝統文化・キリスト信仰への関心を無くさせれば、政権は自然に倒れて、革命側が権力者になることができる」というものだった。
大事な点は、革命のために働く主力を「労働者階級」から「マイノリティ」に代えるということだ。「マイノリティ」とは、歴史的に反主流派とされる層、経済的に虐げられた人々だけでなく、 男性に対する女性 、多数民族に対する少数民族、一般市民に対する犯罪者など」だと主張したのだ。「犯罪者が悪いのではなく、犯罪をおこさせた社会が悪い。だから、加害者は逆に保護されるべきだ。被害者は安穏と暮らしてきた保守的な階級であり、保護すべき対象ではない。新世代の若者はみな疎外感にもがき苦しんでいるからこそ犯罪に走る。黒人、貧困者、世の中の敗者、脱落者こそ、革命を起こすことができる英雄なのだ」と。