「革命」のためには手段を択ばない倒錯
目覚めて、昨晩の続きを考えた。
朝日新聞の連載小説を単行本化した河上肇著『貧乏物語』が飛ぶように売れた大正時代の自由な空気の中で、宮沢賢治は、「ポランの広場」を書いた。山猫博士が選挙のための酒盛りの場にしようとする「ポランの広場」を、村人が、自分たちの活力源として取り戻そうとする争いの話だ。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/467_19932.html
カールマルクスを天才と讃える『生徒諸君に寄せる』を執筆した宮沢賢治にとって、「政治家=巨悪」は、疑う余地なき公理だった。
貧困問題解決という目的を達成するための手段が「革命」だったが、悪徳権力の強大さを過大視するあまり、手段であるべき「革命」が目的化し、「革命」のためには手段を択ばない倒錯に陥ってしまう罠が待ち受けていた。
1962年1月、中国共産党中央拡大工作会議(七千人大会)で、劉少奇は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。席上、毛沢東が、大躍進の失敗を振りかえり、自ら党の第一線を退く意見を述べたが、それが毛沢東の本心だと思う者は居なかった。誰もが諌める勇気を持てないとき、総書記の鄧小平が、飢餓救済の為には劉少奇を国家主席にすべきだと述べた。反対意見は出ず、毛沢東は第一線を退くことになった。
だが、毛沢東の力の源泉、刎頚の友:朱元璋が掌握する人民解放軍が反撃を可能にした。[文化大革命]という看板を掲げて、政敵を一掃することができたのは、朱元璋が持つ人心掌握力の賜だったのだ。
文化大革命の犠牲者は数千万人と言われている。
ヨーロッパ中世の[魔女狩り]が再現された。
中国共産党は、[文化大革命]の輸出提携先に日本社会党を選んだ、ソ連派の日本共産党を避けて…
1972年2月、毛沢東の人民戦争理論に傾倒し資金や銃器を得るため強盗を繰り返していた若者らが、職務質問で犯罪が発覚しそうになったので逃走し、管理人の妻を人質にしてあさま山荘に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊の人質救出作戦は難航し、死者3名、重軽傷者27名を出した。10日目に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。
犯人逮捕の結果、裏に隠れていた凄惨な事件が明るみに出た。「総括」と称する内部でのメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートして凄惨な結果になったのだった。幹部の森恒夫は、殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を作って実行した。暴行の対象者は日を追うごとに増え、死者を出すに至ったが、森らはこれを「総括できなかったための敗北死」とし、方針が改められなかったため、死者が続出した。被害者らの死因は殴打による全身打撲や内臓破裂、氷点下の屋外にさらされたための凍死、食事を与えられなかったことによる衰弱死などであるとされる。一部のメンバーは森により「組織に対する裏切り」と断定され、「死刑」を宣告された。この「死刑」は相手を殺害することを目的としたもので、アイスピックやナイフで刺した後に絞殺した。同志に自己批判させ虐殺する行動様式は、毛沢東的権力掌握の雛形と言えるのかもしれない。
惨殺された若者らがグループに加わった理由は、「朱に交われば赤くなる」という諺で推察することができる。
https://ncode.syosetu.com/n8719gt/21/
朱に交わる環境に身を置くと、エコーチェンバー現象とストックホルム症候群罹患によって、思想信条が深化していく。
一度、赤く染まった精神を漂白して無色に戻すことは至難。洗脳された家族や友人をカルトから取り戻すのが難しいように…
「敗戦革命」を志向する人々の動機について考察したので、次の機会に、「敗戦革命」が齎した人権蹂躙国家群の成立とその崩壊過程についても考えたいと思う。
「『今まで何ら一矢報いる事ができなかったリベラル市民として言えば、せめて暗殺が成功して良かったなと。それしか言えない』との島田雅彦氏の発言が炎上。だが“造反有理 革命無罪 目的が正しければ手段は正当化される”が左翼の論理。国民は彼らの正体をもっと知るべきだろう」と、門田隆将氏が呟いた(2023年4月19日)。
https://twitter.com/KadotaRyusho/status/1648580081894461440
僕は、文革スローガン「革命無罪」の背景を知りたいと思ったので、「革命思想の沿革」について調べた。そして、次のような記述を見つけた。
16世紀の宗教改革で多様化した各宗派は、政府の迫害を避けようと、アメリカ大陸に移住した。移住者達は、平和な生活を重視し協力し合ったので、150年間は抗争の少ない時代が続いた。
しかし、18世紀後半、西欧本国間の争いが植民地に及んだ。
植民地内戦争終結後、財政危機に陥ったイギリス本国は、新たな税を次々と創設、植民地に課し、植民地の不穏な空気は高まっていった。
1775年4月19日、イギリス軍による植民地民兵部隊のボストン武器庫接収を契機に、アメリカ独立戦争が始まった。
1776年7月4日、アメリカ大陸会議は独立宣言を採択した。
アメリカは、ベンジャミン・フランクリンらの働きで、フランスの協力・参戦と他の諸国の中立を得、1783年9月3日、パリ条約締結によって独立を果たした。
独立宣言の理念は、アメリカの独立実現により、欧米人の思想に大きな影響を与え、フランス革命の原動力となった。
フランスでは、革命後、共和制、ナポレオン帝政、王政と目まぐるしく変遷を繰り返した。ドイツでは、1848年2月に「共産党宣言」が、1867年に「資本論」が刊行された。
そして、1870年9月4日に、フランス第三共和制が成立した。
民衆の絶望的貧困問題を解決したいと切望する人々は、解決のキーワード「 革命 」に希望を託すようになった。
フランス革命成功の鍵が対英戦争による国力の消耗にあったという実感が「敗戦革命論」を産んだ。
朝日新聞社が煽った日露戦争による国力の消耗という機会をとらえることで、ロシア革命が成就した。
ソビエト政権の誕生は、民衆の絶望的貧困問題を解決したいと切望する日本人達に勇気を与えた。
河上肇は「貧乏物語」を執筆した。
河上肇に心酔した近衛文麿を始め朝日新聞記者らは、日本に 砕氷船 の役割を果たさせるべく努力した。
1924年東京放送局(NHKの前身)発足時の初代総裁も、彼らの同志だった。
1929年10月24日の世界恐慌(Black Thursday)は、マルクス理論の正しさを世界中の人々に実感させた。米国共和党の支持率は低下し、米国大統領職を民主党が奪う契機となった。
NHKや朝日新聞社が煽った日米戦争で、1945年、日本は敗戦し、ウォーギルトプログラムの下に管理されることとなった。
しかし、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー将軍は共和党的思想をもった人物だったので、日本の敗戦革命論者達は面従腹背するしかなく、日本は赤化されなかった。
1949年、アメリカ国民が共産主義国家の恐怖に慄く事件が起きた。
ソ連による原爆技術盗用が発覚したのだ。
フランクフルト学派は、共産主義者であることを隠す為に、革命のために働く主力を「労働者階級」から「マイノリティ」に代えた。
そして、「ポリコレティカルコレクトネス」を標語にして、信奉者達を増やし続けた。
第二次世界大戦後、アメリカでは、民主党と共和党が、約8年ごとに、大統領職を奪い合ってきている。
因みに、米国民主党は資本主義国に対して厳しく、米国共和党は共産主義国に対して厳しいという傾向がある。
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