ソ連の産みの親
1902年_ロシア公使館付陸軍武官になった明石元二郎はサンクトペテルブルクに行き、そこで、ロシア政府に抵抗する活動家たちと会って、活動を助けてあげると約束し、お金を出してあげたり、情報交換をした
明石が会ったのは、フィンランド反ロシア抵抗運動[カストレーン,コンニ・シリヤクス]、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟[ドモフスキ,バリツキ]、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派、ロシア社会革命党エヴノ・アゼフらだ
1903年11月_日露戦争が始まりそうだったので、袁世凱は、青木宣純に協力を申し出た。そして、信頼できる部下をスパイとして、ロシアと清国の国境近くに住まわせた
1904年_日露戦争が始まり、駐ロシア日本公使館は、中立国スウェーデンのストックホルムに移転した
1905年_日本海海戦でバルチック艦隊が沈められたとき、東京朝日新聞専属作家の二葉亭四迷は、大喜びし、「かうしちゃおられん。これからまた社へ行く。大勝利だ。今度こそバルチック艦隊の息の根を留めた」と叫んだが、そのとき、二葉亭四迷が頭の中に浮かべたのは、日本軍ではなく共産革命の同志が勝利する様子だった
アメリカのポーツマスで日露講和会議が始まると、朝日新聞社は、平和をじゃましロシア国内の革命勢力を助けるため、9月1日付けの紙面に「天皇陛下に和議の破棄を命じたまはんことを請ひ奉る」旨の記事を掲載した
そして、日比谷焼き打ち暴動を扇動し、多くの警察官を襲わせて治安を悪化させた
1908年_清国光緒帝と最高権力者の西太后が相次いで死んだ
1909年10月26日_安重根が満州のハルビンで伊藤博文を射殺した
1909年12月04日_大韓帝国民間結社・一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を、大韓帝国純宗皇帝、首相李完用、韓国統監曾禰荒助宛に送付
1910年08月29日_「韓国併合ニ関スル条約」に基づき日韓併合。京城に朝鮮総督府が設置された。両班は特権を失い日本を恨んだ。搾取に苦しんでいた農民たちは生活が楽になった
1911年10月_清の湖北省武昌で熊 秉坤らが武装蜂起した。反乱軍は、湖北省を代表する軍政府を設立し、他省に向けて清朝からの離脱を呼び掛けた。日本に亡命した後アメリカに行って革命資金の募金活動に従事していた孫文は、同年12月、上海から入国した。革命勢力内での主導権争いは、孫文の入国で収束し、彼を臨時大総統に就任させた。南京に中華民国臨時政府が樹立された。
1912年_清国皇帝(愛新覚羅溥儀)が退位して、清王朝は無くなり、中華民国(南京政府。フィリピンに続くアジアで2番目の共和国)ができて袁世凱が臨時大総統に就任した
このとき、清王朝と中華民国は次の約束をし、溥儀は退位後も紫禁城で皇帝だったときと同じような生活ができることとなった
・皇帝は退位後も『大清皇帝』の尊号を保持し、中華民国政府はこれを外国元首と同等に礼遇する
・溥儀は引き続き紫禁城(と頤和園)で生活する
・中華民国政府は、清皇室に毎年四百万両を支払い、清王朝の陵墓を永久に保護する