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敗戦革命  作者: 月路です
15/25

権力の移り変わり

 講演会の続編が開催された。


 演題は[権力の移り変わり]。講演内容の要旨は、次のとおり。


 1956年12月、朝鮮労働党全員会議で、金日成が千里馬運動(経済発展計画)を提唱した。


 1957年、中国では、日本の景気変動による不況を見てソ連型計画経済の有効性を確信した毛沢東が、大躍進政策を推し進めた。農工業生産指標のみで短期間に英米を追い越すようなノルマを人民に課し、ずさんな管理をしたので、粗悪品の山が作られた。農作物食い荒らす雀の大量捕獲作戦は、蝗害を招き、食糧危機で餓死者を続出させた。

 1959年4月、国家主席に劉少奇が就任したが、中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席の地位を毛沢東は手離さなかった。

 1959年7月、大躍進政策の問題点を指摘して政策転換を求めた彭徳懐が、国防部長と中央軍事委員会委員を解任された。


 1960年3月、韓国で選挙の都度、不正を重ねて再選し続けた李承晩を批判する大規模デモが、知識層の呼びかけで続発した。李承晩は、軍部にも見放されてハワイへの亡命を余儀なくされた。


 1960年、グレートブリテン共産党が ‘Out of apathy’ を発刊した。[新左翼運動]は、「ベトナム戦争反対」の声を世界中に溢れさせるために、次のようなことをした。

◦ゴ・ジン・ジェム政権とアメリカ軍を一方的に非難した。

◦「南ベトナム解放民族戦線」と名乗る反政府運動は、本当は、北ベトナム軍の軍人たちが攻撃を仕掛けているのだということを隠した。

◦フランシーヌ・ルコントという女の人が焼身自殺した事件を脚色して反戦運動に結びつけた。

挿絵(By みてみん)

◦北ベトナム軍の主力が「解放を目指す民衆」であるかのようなウソの情報宣伝プロパガンダ映画を作成上映した。

◦革命歌「インターナショナル」を流行させた。

挿絵(By みてみん)

 これらが、全部、北ベトナム革命勢力を有利にする為のプロパガンダだったことは、ベトナム共和国(南ベトナム)が滅びた後、徐々に、明らかになっていった。


 1962年1月、中国共産党中央拡大工作会議(七千人大会)で、劉少奇は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。席上、毛沢東が、大躍進の失敗を振りかえり、自ら党の第一線を退く意見を述べたが、それが毛沢東の本心だと思う者は居なかった。誰もが諌める勇気を持てないとき、総書記の鄧小平が、飢餓救済の為には劉少奇を国家主席にすべきだと述べた。反対意見は出ず、毛沢東は第一線を退くことになった。


 1962年4月、日本の映画館で『キューポラのある街』が上映された。

挿絵(By みてみん)

 「千里馬の如く発展する北朝鮮は地上の楽園]というイメージをもって帰国する人々が描かれた映画を観た在日の人々が北朝鮮に渡った。北朝鮮に渡った人数は、日本人妻を含め、九万人以上と言われている。しかし、帰国者への送金をさせるために未帰国の在日家族を残す運用が行われた。帰国の実務は赤十字社が行った。帰国船は、北朝鮮の船で、朝鮮総連を通じての対日工作やスパイ教育要員拉致、対韓スパイの送り込み等にも利用された。

 朝鮮総連は、朝鮮学校の設立と民族教育を推進した。

 韓国は、以前、日本海で抑留した漁師らを帰らせる見返りとして在日朝鮮人犯罪者を日本国内で釈放させたように、在日朝鮮人の受け容れを拒否し続けた。「戦勝国」だと主張して日本人以上の権利を主張する民族主義的・共産主義的な在日朝鮮人、長田区役所襲撃や血のメーデー事件など左翼と結託して暴動する者、犯罪を起こす者の対応に、日本政府は苦慮し、「帰国費用を負担するから希望者の帰国を受け容れてほしい」と韓国に要望したが、韓国はこれを無視して、同胞の日本居留継続を図るよう民団に指示した。


 1962年9月、中共の毛沢東が、[反党分子]高崗についての記述がある小説『劉志丹』について、「小説を書いて反党反人民に利用する発明」と批判した。小説執筆に協力した習忠勲は、責任を問われて職務を解任された。そのとき、習忠勲の長男 習近平は9歳だった。

挿絵(By みてみん)


 1964年12月、白土三平著「カムイ伝」の連載が月刊誌上で始まった。戦国末期から徳川初期を舞台に戦に明け暮れる時代の波に翻弄されながら、権力者に抗争を挑む革命者の英雄的行動が多くの若者の共感を呼び、後の大学紛争では、バイブル的役割を果たすこととなったと言われる作品。


 1965年11月、上海の新聞紙上で、京劇『海瑞罷官』は彭徳懐解任を批判した劇と印象操作する記事が掲載された。


 1966年1月、早稲田大学では、学費値上げや学生会館管理問題等を口実に、全学バリケードストライキが行われた。


 1966年3月、ベトナム戦争を戦う北ベトナムを援ける為に奔走(ほんそう)していた日本共産党の宮本書記長は、ソ連製兵器を欲しがる北ベトナムの意向に沿って動こうとして、毛沢東主席の逆鱗に触れた。それ以後。日共と中共は、敵対関係になった。


 1966年5月、中国共産党中央委員会通知は、『海瑞罷官』擁護者 彭真らを批判し、走資派(中央や地方の代表者)攻撃を指示した。また、北京大学構内に大学委員会指導部を批判する内容の壁新聞が掲示された。翌月、『人民日報』が「人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣」の除去を主張し、各地に私刑施設(牛棚)が作られた。

 鄧小平は、総書記を解任され政治の表舞台から姿を消した。

 文化大革命の犠牲者は数千万人と言われている。

 ヨーロッパ中世の[魔女狩り]が再現された。

挿絵(By みてみん)


 1967年、北朝鮮の金日成は、甲山派の朴金喆らを粛清して、独裁体制を完成させた。


 1968年頃から、東京大学や日本大学をはじめとして全国の大学で、街頭での示威行為に伴う破壊や学舎の占拠が頻発し、出動した機動隊員らを石、火炎瓶、鉄パイプ等で攻撃する暴力革命ごっこが流行した。


 1969年3月、中ソ国境付近の珍宝島で軍事衝突が起こった。交戦が半年間続いた後、北ベトナムのホー・チ・ミン国家主席死去に伴う葬儀を契機(きっかけ)として停戦が話し合われた。このときまでの双方の死傷者は其々(それぞれ)百人を超えていた。解決は先延ばしされ、不確定の国境付近で両軍が(にら)みあう状態が続くこととなった。


 1969年4月、第9回党大会で、林彪は「党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている…実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面を暴き出すよりほかない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級を覆す政治大革命だ」と主張し、毛沢東の後継者として認定された。

挿絵(By みてみん)

 しかし、劉少奇の失脚によって空席となっていた国家主席の廃止案に同意しなかったことで、林は野心を疑われた。


 1971年7月、アルバニアなど23ヵ国が「中華人民共和国政府の代表権回復、中華民国政府追放」案を国連に提出した。10月、アルバニア決議案が反対票の倍を上回る賛成票で可決され、中華民国は国連から追放された。

挿絵(By みてみん)


 このときから、国連は中共の手先と化した。

 中共は「文化大革命」を世界中に輸出した。「文化大革命」とは、言わずもがな、毛沢東が、理念だけで科学も現実も無視して推し進めた結果大量の餓死被害を齎した[大躍進政策の失敗]を糊塗する為に編み出した権力恢復戦略の謳い文句だ。


 ヨーロッパでは国家社会主義ドイツ労働者党がユダヤ人などを大量虐殺したというホロコーストを非難するキャンペーンが展開された。


 アジアでは南ベトナムに対するネガティブキャンペーンがはられた。

 米軍兵士をマリファナ工作で嵌めた上、米軍を非難する[反戦キャンペーン]を遂行した結果、米軍に厭戦気分が蔓延し、青天の霹靂的テト攻勢で南ベトナムは滅亡した。


 労働者は企業が潰れたら失業する。企業を潰す共産主義者に懐疑的になった労働者は、マイノリティに置き換えられた。「マイノリティ」とは、歴史的に反主流派とされる層、経済的弱者だけでなく、男性に対する女性、多数民族に対する少数民族、一般市民に対する犯罪者など。「犯罪者が悪いのではなく、犯罪をおこさせた社会が悪い。だから、加害者は逆に保護されるべきだ。被害者は安穏と暮らしてきた保守的な階級であり、保護すべき対象ではない。新世代の若者はみな疎外感にもがき苦しんでいるからこそ犯罪に走る。黒人、貧困者、世の中の敗者、脱落者こそ、革命を起こすことができる英雄なのだ」という情宣が行われた。

 「ナチス」「ヒトラー」の汚名を着せる手口が通用しなくなったのち、「ヘイトスピーチ」が、議論を封じる[葵の御紋]的威力を持つフレーズとして用いられるようになった。ホロコースト否認非難決議(2007年に国連総会で採択)やヘイトスピーチに関する総括所見草案(2011年に国連自由権規約人権委員会が発表)は、中共的工作の成果だ。本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(平成28年6月3日法律第68号)も、その流れをくむものだ。


 中国共産党は、[文化大革命]の輸出入提携先に日本社会党を選んだ、ソ連派の日本共産党を避けて…

 1972年2月、毛沢東の人民戦争理論に傾倒し資金や銃器を得るため強盗を繰り返していた若者らが、職務質問で犯罪が発覚しそうになったので逃走し、管理人の妻を人質にしてあさま山荘に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊の人質救出作戦は難航し、死者3名、重軽傷者27名を出した。10日目に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。

 犯人逮捕の結果、裏に隠れていた凄惨な事件が明るみに出た。「総括」と称する内部でのメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートして凄惨な結果になったのだった。幹部の森恒夫は、殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を作って実行した。暴行の対象者は日を追うごとに増え、死者を出すに至ったが、森らはこれを「総括できなかったための敗北死」とし、方針が改められなかったため、死者が続出した。被害者らの死因は殴打による全身打撲や内臓破裂、氷点下の屋外にさらされたための凍死、食事を与えられなかったことによる衰弱死などであるとされる。一部のメンバーは森により「組織に対する裏切り」と断定され、「死刑」を宣告された。この「死刑」は相手を殺害することを目的としたもので、アイスピックやナイフで刺した後に絞殺した。同志(タワリシチ)に自己批判させ虐殺する行動様式は、毛沢東的権力掌握の雛形(ひながた)と言えるのかもしれない。

挿絵(By みてみん)


 1972年2月、あさま山荘の人質救出作戦が難航しているときに、アメリカのニクソン大統領が中共を訪問した。ソ連と敵対する両国が手を結ぶ(ため)だった。米中首脳会談実現は、日本の対中姿勢に大きな影響を与えた。

 1972年9月、田中角栄首相が中国を訪問した。そして、[日中共同声明]が発表された。

 1973年3月、中国の周恩来首相は、日米の技術力導入を切望し、鄧小平を副首相として復活させた。

 1973年8月、中国で「批林批孔運動」が始まり、中国思想の善悪が判定された。

 善:少正卯、呉起、商鞅、韓非、荀況、李斯、秦の始皇帝、前漢の高祖・文帝・景帝、曹操、諸葛亮、武則天、王安石、李卓吾、毛沢東

 悪:孔子、孟子、司馬光、朱熹

 封建的な儒教思想を持つ林彪はマルクス主義の敵とされた。

 

 1974年、オリンピック憲章からアマチュア条項が削除された。古代ギリシアのオリンピックは、当初、肉体だけでなく人格も重視するイベントだったが、後に、勝者を讃えて賞金や身分を与えるようになったことで、アマチュアリズムの精神が失われ、不正や審判員買収が横行するようになった。古代オリンピックは、キリスト教がローマの国教となった4世紀末を最後に、その後、開催されなくなった。歴史は繰り返すのだろうか…


 1974年、英国保守党は、労働争議で苦しめられ、総選挙で敗れて下野し、国家衰退の危機を招いた。

 1975年の英国保守党首選で、対抗馬ジョセフが数々の舌禍で立候補を断念し、醜聞ヒース党首を退陣させる為の[あて馬]サッチャーが勝利した。


 1976年1月、周恩来が癌で病死した。4月、毛沢東から野心のなさを信頼された華国鋒が国務院総理兼党中央委員会第一副主席に任命され、毛に次ぐ序列第2位の地位に抜擢された。

 1976年7月、毛沢東を支えていた朱徳が老衰死し、毛沢東も9月に病死した。10月、華国鋒は、文化大革命を主導した江青、張春橋らの四人組を逮捕して党内対立を解決し、文化大革命を事実上終結させた。権力基盤の弱い華国鋒は、11月に毛主席紀念堂を着工して虎の威を借りようとしたが、人心を得ることはできず、やがて実権を鄧小平に奪われ、政治の表舞台から消えていった。


 1979年、選挙で保守党が勝ち、首相になったサッチャーは、労働組合を制して、英国を蘇らせた。

挿絵(By みてみん)

 サッチャー政権が11年半続いたので、労働党は内部分裂を起こし、国有化忌避と自由市場経済路線に転換した。


 1981年6月、中国共産党中央軍事委員会主席に就任した鄧小平は、[経済建設]と[改革開放]を推し進めた。

 重要産品については国家的統一計画、統一価格、統一分配を行い、それ以外は市場のメカニズムに委ねた。人民公社を廃止して、企業に採算を重視させ利益に応じた分配を許した。政治の中央部門は重大プロジェクトや全国的重点企業の管理に集中し、他の管理は地方に任せた。

 深セン、珠海、汕頭、厦門を経済特区に指定し、外国企業の誘致に努めた。


 1984年7月、ロサンゼルスでオリンピックが開催された。過去数十年間のオリンピック開催都市が莫大な赤字に伴う負債返済に苦しんだことで、ロサンゼルス以外に立候補する都市が無く、公的財源保証の無い任意団体から提出された運営計画をIOCが認めなければ、4世紀末に終わりを迎えた古代オリンピック同様、近代オリンピックも終幕を降ろす運命にあった。任意団体は、既存施設の活用等経費節減に努めるとともに商業的権利の売却で収入増を図った。その結果、宣伝効果を高める勝利至上主義が横行し、クーベルタンの紳士的精神主義は(かえり)みられなくなってしまった。


 1987年1月、中国で、資本主義化の行き過ぎを懸念する古参党員らの巻き返しが功を奏し、総書記の胡耀邦が解任され、趙紫陽が後任として選ばれた。


 1989年4月、中国共産党元総書記の胡耀邦が心筋梗塞で倒れて死んだ。胡耀邦を追悼する街頭活動が度々行われるようになり、天安門に集まる人数が(ふく)れ上がって首都機能が麻痺(まひ)するまでになった。趙紫陽総書記の呼びかけも功を奏さず、天安門に集まった人々は解散しなかった。6月、業を煮やした鄧小平は、人民解放軍に群衆の鎮圧を命じた。趙紫陽は総書記を解任された。鎮圧の犠牲者数は数千人と言われている。

挿絵(By みてみん)

 中国当局の厳しい指導に従わず報道していたCNNの放送局に取締官らが踏み込んで放送を中止させる様子が生中継され、人権蹂躙(じゅうりん)を目の当たりにした西側先進諸国は、中国に対する経済制裁を行った。


 1989年11月、江沢民が、中国共産党中央軍事委員会主席の地位を鄧小平から継承し、翌年4月には国家中央軍事委員会主席にも就任した。民衆の六四天安門アレルギー回避と民主派忌避の両立を企図した人選だったと言われている。

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