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敗戦革命  作者: 月路です
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日清戦争

 1882年7月_李氏朝鮮国王高宗の父親(興宣大院君)と高宗妃(明成皇后=閔妃)の権力争いから、朝鮮の旧式軍隊が反乱を起こして閔妃を襲撃(しゅうげき)し、興宣大院君の政治権力を回復した

 閔妃が清国軍の駐屯地(ちゅうとんち)へ逃げたとき、「閔妃は8月には宮殿に帰れる」と予言した巫女がいた。

 予言通り、清国軍が反乱を静め、興宣大院君をつかまえて天津に連れて行った

 閔妃は、清国を頼りにする政治をするようになり、巫女の予言を信じるようになった。閔妃が巫女の予言に従おうとして莫大(ばくだい)なお金を使うようになったので財政(ざいせい)は苦しくなり、役人の間でも賄賂(わいろ)のやり取りが増えた。両班(やんばん)という特権階級の身分も賄賂で買えるようになり、李氏朝鮮初期には人口の3パーセントに過ぎなかった両班が十倍以上に増えた

 

 1884年12月_金玉均らが朝鮮王朝の王宮を襲撃した。金玉均らは、清国を頼らず近代的な政治をするための計画を作って高宗と閔妃に説明した

 2日後、清国軍が王宮に入って高宗と閔妃を救い出し、金玉均らは王宮から逃げ出した

 この騒動に巻き込まれた日本人がおおぜい殺されたので、日本と清国は、朝鮮から軍隊を引きあげ、今度、軍隊を朝鮮に送るときは、その前に、相手に連絡するという約束をした

 

 1894年1月_李氏朝鮮の全羅道で農民一揆が起こり、5月には全羅道内で一番大きい全州市を支配下に置いた

 閔妃に頼まれた清国軍が朝鮮に軍隊を送ったので、日本も朝鮮に軍隊を送った

 

 1894年8月_日清戦争が始まった。

 1895年4月_日清戦争を終わらせる会議が開かれ、次の11箇条が決められた

  第一条:清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する

  第二~三条:清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する

  第四条:清国は賠償金2億テールを日本に支払う

  第五条:割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる

  第六条:清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。日本国臣民は清国の各開市・開港場において自由に製造業に従事することができる。また清国は、日本に最恵国待遇を認める

  第七条:日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる

  第八条:清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない

  第九条:清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない

  第十条:条約批准の日から戦闘を停止する

  第十一条:条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される


 清国の後ろ盾を失った閔妃は、ロシアを頼るようになった 

 1895年10月8日_閔妃のロシア頼みが国を亡ぼす原因になると考えた李氏朝鮮訓錬隊第2大隊長 禹範善らは、王宮に乱入して閔妃を殺した


 1896年_迎恩門が取り壊され、独立門が着工された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった

[独立新聞]は、1896年7月4日付けの[論説]で、次のような主張を掲載した

朝鮮は、何年も清国の属国であったが、神様の恩恵で独立でき、朝鮮大君主陛下が今は世界の首脳と同等な立場となり、朝鮮人民が世界にまたがる自由な人になったがゆえに、このようなめでたいことを無視するのは道理ではない。朝鮮が独立したことを世界に知らせ、また朝鮮の後生に、この時から朝鮮が永遠に独立したことを伝えるためにも表象が必要であり、また朝鮮人民が養生するには新鮮な空気を吸い、景色が良く静かな場所で運動をすべきである。慕華館に新しく独立門を建て、その周辺を公園にして千秋万歳自主独立した公園であると伝える志である


 1897年10月12日_高宗は、朝鮮初となる皇帝に即位し、14日に国号を大韓帝国と改め、年号を光武とした。清国から独立することは、自由平等を旨とする欧米式近代化を遂げた日本に見習うことであり、両班の旧弊的特権が失われることを意味するので、本意ではなかったが、独立の機運に(あらが)うことができず、心ならずも即位したのである

 

 1900年_清国で、キリスト教布教活動に伴う()めごとが多くなり、不満を(つの)らせた中国民衆が各地でキリスト教会を襲ってキリスト教徒を殺す事件が起こった

 清王朝は、中国民衆に同情し列国に宣戦布告した

 宣戦布告を受けた国々のうち8箇国が軍隊を派遣してキリスト教徒らを保護した

 そのとき、清の軍隊を西洋式に編成し直し指揮していた袁世凱は、列国の軍隊とは衝突せずに、義和団を静めた。軍隊の西洋式編成の方法は、日本公使館付武官青木宣純から教えてもらっていた


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