第65話 熱情
俺は減七の和音を強く、そして深く叩いた。
この曲は冒頭の和音を数回繰り返す。
感情を奮い立たせるように、そして、想いを届かせる為に。
俺が選んだ曲はベートーヴェン ピアノソナタ 二十三番 『熱情』 だ。
曲の弾き方は、楽器や音響効果を重視して、感情に訴えかける奏法。
俺がずっと実践してきた演奏法だ。
冒頭の和音の連続がすぎ、荒れ狂う十六分音符の波を通り抜け、不協和音を五回打つ。
主題とリズムがうねるように絡み合う中、音が川の激流の様にぶつかり合う。
そして曲は終盤に向かっていく。
轟く和音が起こり、八分音符が感情を高揚させる。
力を溜めるようなアルペジオの後、感情を開放させる和音で演奏を終えた。
約七分の演奏時間。
俺は魔力効果の範囲を意識しながら、演奏に集中していた。
とても、状況を確認しながらできる事ではない。
演奏で少し上った呼吸を落ち着けて、ティアを見た。
そこには燐光を纏ったティアが、見たこともないような笑顔を、俺に向けている姿があった。
☆
ヤクモの演奏が始まりました。
いきなり複数の音が連続して起こりました。
その音はわたくしの心を奮い立たせます。
お父様は心をこわされる前に戻っているような表情をされています。
お父様に、ヤクモが先ほど弾いた曲で心を落ち着けられた後、アリアは無事であるのをお伝えしました。
ご自身の心を閉ざされていたお父様が、驚いた表情をされていました。
わたくしがシュタイン王国に出立する頃には、何をお話しても反応して下さることは無くなっていらしてたのに……。
「あ、る、てぃ、あ……」
お父様は、何かを掴む様に両手を空中に彷徨わせています。
お父様が、自身の意思で動こうとされているのです。
お母様がお父様に近寄って、両手を包むように握りました。
わたくしもヤクモが奏でる曲に感情を委ねます。
お父様へ状態異常回復魔法をかけるべく、効果範囲を制御しました。
体の中を駆け巡るマナの奔流が、普段と違うという事を感じるのに、時間はかかりませんでした。
普段、ヤクモの演奏でわたくし達は、通常よりも身体能力が高い状態で行動ができます。
ヤクモは、演奏による効果は曲の難易度や完成度による、と言っていました。
今、わたくしの身体に巡るマナの流れは、普段のヤクモが行う演奏の効果とは雲泥の差と言わざるを得ません。
普段と何が違うのかはよく分かりませんが……。
「ん、んく……」
突然、体がビクンと震えました。
わたくしの体内を巡るマナが飽和を起こしているのです。
通常はマナの動きを制御して、マナを最適な形で供給します。
何故ならマナは有限だから。
それが、自然と湧き出る泉の様に溢れているのです。
あり得ない話です。
どんな強力な魔法でも、際限なく使える環境がここにはあるのですから。
そうしているうちに、ヤクモは、曲が始まった時の様な複数の音を同時に鳴らしました。
「あぁっ!」
その音が発せられたのと同時に、わたくしの両足がガクガクと震えてきます。
体の内部から、とてつもない力が湧き上ってくるような衝動。
この衝動は一体なんなのでしょう?
これは、まるでわたくし自身の体ではないような……。
そう思うと、急に今のわたくしが置かれている状況を怖く感じました。
このまま続けても、本当に大丈夫なのでしょうか? と。
疑問が起こると不安になってしまいました。
不安で周りを見渡してしまった時、一心不乱にピアノを弾くヤクモが視界に入りました。
その姿はまさに、鬼気迫るという言葉が相応しい。
ですが、ピアノより出てくる音は何よりも美しい。
わたくしは、ヤクモがどうして今、ピアノを弾いているのかを思い出しました。
それは、わたくしのお父様を治す事ができるかもしれないから。
そんなヤクモに対して、わたくしは少しでも疑いをもってしまい恥ずかしくなりました。
わたくしは思い直します。
わたくしの最愛の人がわたくし達の為にピアノを弾いている。
不安に思っている場合ではないのです。
ヤクモの厚意を無駄にすることなど、わたくしの矜持が許すはずもありません。
わたくしは体の中に芽生える力に、抗うことなく状態異常回復魔法の詠唱を始めました。
「不浄なる……」
魔法の立ち上がりで体内のマナが一気に放出されていくのが分かります。
今までこのような量のマナを顕現させた事はありません。
「邪を……」
わたくしが対象としているお父様をマナが包みました。
「清め給え!」
最後の言葉で、マナがお父様に異常を起こしている原因を取り除きます。
この時、わたくしは状態異常回復の魔法を使用した感覚が普段と違う事に疑問が浮かびます。
普段よりマナの総量が多いため、異常を取り除く際に起こる変化現象で輝きが眩しすぎます。
何故か分かりませんが、普段の光はオレンジ色なのですが、この時は真っ白な光でした。
しばらくすると、真っ白な輝きは収束していきました。
それにより、お父様の姿もはっきりとしてきます。
お父様の姿を確認できた時、わたくしは目を疑いました。
お父様がご自身で横を向き、わたくしを見ているのです。
その表情には意思を感じる事ができました。
全てを放棄してしまったお父様の意思を感じる事ができたのです。
その時、ヤクモが奏でるピアノから重なった音が聞こえました。
感情を揺さぶるような音。
わたくしは、この気持ちをどの様に整理すれば良いのか分かりません。
ただ、ヤクモを見ていたくて……。
わたくしは最愛の人に振り返ったのでした。




