第136話 謎の人物とアリアの努力
「ティアンネさん、どういうことですか?」
俺はアンナを抱きしめながらティアンネさんを見た。
シュタイン王との初めての謁見で、シルフの村が話題になったときの話だ。
稀代の精霊術の使い手で、風の巫女とまで呼ばれた女性。
十年前、その故郷に賊が侵攻してきて、平和が突如として崩れ去った。
村の長をしていた家系ということもあり、最悪の結果になったということは会話の筋から想像できた。
その最愛の母親が生きている、というのだ。
「信憑性がかける情報なんだけどね……」
ティアンネさんが困惑した表情のまま視線をずらした。
その先にいるのは、隅のカウンターにかけながら独りでグラスを傾ける人物。
浮浪者風のくたびれたローブで身を包み、フードは顔が見えないほど深く被っている。
みすぼらしい身なりとは裏腹に、体幹を鍛えているのはローブの上からでも分かる。
見るからに怪しすぎて、お近づきになりたくない人物。
まだ、オカマで時々ダンディーなおねえの方が近寄りやすい。
なんてことはない。
俺が色々と考えを巡らせていると、突き刺さるような視線を感じた。
見るとティアンネさんが不審そうな視線を向けているではないか!!
分かっているよ、ティアンネさん。ここは男を上げる場面っていうことだよね!
更に背後から突き刺すような視線を感じて顔だけ振り返る。
ティアとアリアが期待に満ちた視線を向けているではないか!!
俺と目があった二人の姉妹は、息もぴったりに大きく頷いた。
三人からの熱い視線を受けて、何を言われているのか理解できないほど鈍感ではない。
俺は大きく頷くと、胸元に顔を埋めたままのアンナを見た。
さっきまでは土色だった顔色が、普段の汚れを知らない新雪のような白さに戻っている。
どうやら精神的に落ち着いてきたようだ。
「ごめん、アンナ。ちょっと逝ってくる」
俺は決意を込めて、小さく呟くように話しかける。
それに呼応して顔を上げるアンナ。
「え? 私はここにいるのに?」
婚約したといっても、その上目遣いから放たれる攻撃力は相変わらず破壊的だ。
きっと津波のように押し寄せてくる団子虫の群れも焼き尽くせるだろう。
「ハハ、ホンソレ!!」
俺は既に焼き尽くされていた。
「もう! あんた、何やってんのさ!」
「うわっ!?」
「ヤクモ!!」
それは突然の出来事だった。
アンナは片手を差し出してくれているが、何故かティアとアリアが抑えている。
まるで俺は巨人に掴まれたニャンコのようだった。
俺は抗えない力で首根っこを持たれて、ズルズルと隅っこのカウンターまで引かれていった。
食堂の片隅にあるカウンター。
明らかに場違いな雰囲気を醸しながらグラスを傾ける人物。
俺が隣に立っても全く反応してくれない。
ちなみにティアンネさんは既に三人と一緒にいてこちらを見ている。
「え〜、と。こんにちは〜」
とりあえず軽いジャブを放ってみる。
「…………………」
相変わらず無言でグラスを傾けている。
絶対に聞こえているはずなのに反応なし。
そっちがその気なら……、ああ、いいだろう! 俺の本気を見せてやる!!
「今日は大雨で洗濯物が乾かなくて大変ですよね〜?」
定番のお天気トーク発動!
しかも晴れているのに『雨』とか言っちゃう高等テク。
極めつけは『疑問符』で締める。
この究極奥義とさえ言われる三連コンボ! どんな答えを返してくるのか楽しみだな、クソ野郎!!
「………………」
相変わらず無言だった。
今度はグラスを持つこともしない。
俺は踵を返して、四人の元へと戻っていく。
「どうだったんだい?」
「ヤクモ、何か進展はありましたか?」
「お兄ちゃん、何だか顔色が悪いよ」
「……ヤクモ」
全員が気を使ってくれている。
だが期待してくれていた皆に答えを出さなくてはいけない。
「……みんな、ごめん。何の成果も得られませんでした!」
期待に応えられなかったのが、何だか悔しかった。
「大丈夫だよ。私達はいつだってヤクモを信じているから。風よ……」
アンナは微笑みながら、右手を前に突き出した。
食堂内の空気が動き出して風が産声を上げる。
生まれたての柔らかな風がうねり、巻き込み、刃物のような鋭さを帯びた。
目標はカウンターの隅。
鋭い風の刃となった『かまいたち』はみすぼらしい人物を切り刻む。
「うわあああぁぁぁぁっ! ここまで来やがったか、アンネローゼぇ!! 姿を見せろぉ!!!!」
布片となったローブが床に散らばって、カウンターでグラスを持っていた人物の姿が顕になった。
見た目、四十歳くらいの筋肉質の男。
黒髪をオールバックにして、日本刀みたいな曲刀を鞘に収めている。
テラマーテルでは剣はよく見るけれど曲刀を見たのは初めてだ。
そして隻腕。
右腕の付け根には包帯が巻かれており生々しい。
何よりも叫んだ言葉。
アンナのお母さんのことを知っているのは間違いなさそうだ。
身柄を確保したいところだが、話し合いに応じてくれるとは思えない。
『♪〜〜♪〜〜♫〜〜♫〜♬〜〜〜』
背後からヴァイオリンの音が聞こえてきた。
表情のある音は、弾いている人物がとても豊かな感性を持っていることを示している。
G線上のアリアって本当にいい曲だよね。
哀愁を帯びた曲調の中に、しっとりとした歌が奏でられている。
バッハらしいロジカルに構築された楽曲は、心に安寧をもたらしてくれる。
申し分ない音楽性と技巧。
俺は思わず聴き入ってしまっていた。
「お兄ちゃん! 後はお願い!!」
振り返ると、アリアがヴァイオリンを構えていた。
何故、アリアが? という疑問が頭を過る。
「アンネローゼじゃない、のか?」
隻腕の男がアリアの演奏を聞いてクールダウンしている。
チャンスは今しかない!
「「ヤクモ!!」」
「ああ、任せて!」
俺はシュタインウェイを展開すると鍵盤に手を添えた。
ショパンの子守歌を弾くために。
アリア「お兄ちゃん。私、サボらずに練習していたんだよ」




