間話 季節イベント バレンタイン
―― これは今より少し後の物語
今、俺は自宅のテラスで紅茶を楽しみながら、シュタットの街を眺めていた。
気候の変わらないシュタイン王国。
ふと、今、日本の季節はいつ頃だろうと考えるときがある。
国際ピアノコンクールに出場していた時に、この世界へ移動させられた。
あれから、どれくらい経過したのだろう。
リンバルを倒して、三国を回って、アシュケルを倒して、結婚して、今に至る。
そっか四ヶ月くらいかな。
十月から四ヶ月を足すと……、日本では二月くらいだな。
ん? 二月だと?
リア充御用達イベント、バレンタインがある月じゃないですか!
日本にいた時には、無縁のイベントだったが……、しかし、しかーし! 今は違うのだっ!
そう思った俺は勢いよく立ち上がってしまう。
テーブルの上で、カップが驚いたように踊っていた。
それを軽く押さえ、部屋の中に目を向ける。
そこにはソファに座る人影があった。
あのシルエットはっ!
この世界で最初に出会った女性、お姉ちゃんことアンナだった。
とてもお世話になり、今では愛する妻となった女性。
俺はテラスから部屋にダッシュで入っていった。
「アンナ! これからデートしない?」
「ヤクモ!? この後も予定が入っていたよね?」
ぐぬぬ、確かにこの後で大きな商談が入っている。
「大丈夫だよ、アリシアに任せるから。それよりアンナとデートがしたい!」
「う、うれしいけど……、本当に大丈夫なの?」
アンナはそう言いながらソファから立ち上がった。
「商談関係はマーテル家に任せておけば大丈夫だよ。それより……」
俺はアンナの手を掴み、胸元に抱えるように引き寄せる。
お互いの顔が近くまで寄り、アンナに熱が灯っているのが分かるほどだ。
「そ、それより……?」
潤んだ瞳で俺を見てくるアンナ。
「アンナと行きたい場所がある」
俺は軽く触れるキスを返した。
「ヤクモ……、そ、それは……、べ、ベッドのことかな? かな?」
「い、行きたいけど! 行かないよっ!」
そして、腕を絡めて城とも言えるほどの大きな屋敷の中を歩いていく。
俺達は腕を組んだまま、シュタットの街へと繰り出した。
俺がアンナと一緒に向かったのは、鉄屑武具店だった。
アンナはどうして武器屋なのか? という表情をしていたが。
扉を開けて中に入ると、あり得ないものが目に入ってきた。
「あらぁ〜ん、貴方、わたしに何か用事でもあるのかしらぁ〜ん」
そこにいたのは、紛れもなくヴィド教会国家の王子、ロビン・マーテルだった。
ロビン・マーテルは、感情を俺に気付かせてくれた奴なのだが……。
「用事なんてないよ! ヴェスタフはいるかな!?」
人間的に受け付けないため、荒ぶってしまう。
「はぁ〜い、すぐに呼ぶわねぇ〜」
ロビンは女の子走りで奥の部屋へ向かっていく。
しばらくして、オカマがオカマを連れて戻ってきた。
「あら、久しぶりね。今日はどうしたのかしらあ?」
「実は……」
俺はアンナに聞こえないように耳打ちする。
それを聞いたヴェスタフは、口端を上げて嫌らしく笑った。
「ふうん、結婚して何だか変わったわねえ。ヤクモ」
「うるさい!」
俺が声を荒げるとヴェスタフはニヨニヨしながら奥に戻っていった。ロビンもそれに追従する。
「ヴェスタフに何を言ったのかな?」
アンナは、ジト目になりながら俺を見つめていた。確かに内緒話は良い気持ちがしないよね。
しかし、そんなの関係ねえっ!
「ナ・イ・シ・ョ」
俺は焦らすようにスタッカートを入れた。
「風の王、がる――」
ガルーダを召喚しようとしたアンナの口をすかさず押さえる。
やはり脳筋だ。
まぁ、アレを召喚しないところを見ると、理性はあるのだろう。
「店内で、あまりイチャイチャしないで欲しいわねえ」
ヴェスタフは紙袋を片手に奥の部屋から出てきた。
そして、その紙袋を俺に手渡してくる。
まだ十分ほどしか経っていないのに、依頼の品が出来上がったという事だろうか。
俺が狐につままれた様な顔をしていたのだろう。
ヴェスタフは周りに聞こえない声で「俺からの祝いだ、受け取れ」と言った。
相変わらず、ヴェスタフのオカマダンディには頭が上がらない。
俺は御礼を言って、鉄屑武具店を後にした。
少し不機嫌なアンナの手を握りながら。
俺が次に向かったのは、冒険者ギルドだった。
重厚な扉を開けると、まだ日が高いというのにロビーは閑散としていた。
以前の冒険者が列を成して並ぶという光景は、今は昔の事なのかも知れない。
理由は、アンナが壽退社をした事によるのだろう。
俺達は、誰も並んでいない受付カウンターに向かう。
出迎えてくれたのは、ギルドマスターだった。
「お久しぶりです、ギルドマスター。今日はお願いがあって来ました」
「おめえの願いは聞いてやるから、アンナとの結婚を解消してくれ。もうこのギルドのライフはゼロだ……」
「世界を統べる帝りゅ――」
アンナが半眼になりながら、アレを召喚しようとしているのをインターセプトした。
おっさんはシュタイン王国を滅ぼすつもりなのだろうか?
「マスター。貴方の不用意な発言で、たった今、この国が滅びかけたのを忘れないでくださいね」
「がっはっは! そんな訳ねえだ……ろ? ないよな?」
「あるんです! アンナとの結婚を解消させられたら、俺でも本気で世界を滅ぼしますよ」
「がっはっは! 音楽家のおめえには無理だろ!」
俺はエルフの護りを取り出して、シュタインウェイのピアノを造り出した。
そして、リストの葬送を冒険者ギルド全体を範囲指定して弾く。
女神の宝珠が媒体となった弦の響きは、夢幻を思わせるほど蠱惑的だ。
葬送の鐘の音は、ギルドの中に響き渡り、心の中に広がっていく。
曲に込められた想いが、胸を締め付け、慟哭を呼び起こす。
いつしか冒険者ギルドの中で立っていられる人は、アンナ以外いなくなっていた。
アンナに手を差し出すと、少しだけ風の抵抗を感じた。
再び手を取り合った俺達は、邪魔をする人が居なくなったギルドの中を進んでいく。
そして、ギルドの奥にある部屋にたどり着いた。
そこはベッドが置いてあるだけの質素な部屋。
俺は、アンナを誘導して二人でベッドに腰を降ろす。
アンナも気がついているようで、少しだけ体が震えているのが分かった。
「アンナは覚えているかな?」
「忘れるはずないよ……、この部屋はヤクモと初めて会った場所だから……」
「そう俺が初めてアンナと会った場所。ここから全てが始まったんだ」
マスターにぶっ飛ばされた後、目が覚めると心配そうに俺を見ていた銀髪の女の子。
まさか、その子と結婚するなんて思いもしなかった。
アンナも感慨が深いようで、体を俺に預けてくる。
その体を両腕で包みながら、ヴェスタフから預かった紙袋を開けた。
「そう言えば、ヴェスタフから何を預かったの?」
紙袋から取り出した小さな箱を見ながら、アンナは不思議そうにしている。
「この時期、俺の住んでいた世界ではバレンタインっていうイベントがあって、女の子が男の子にチョコレートを渡して気持ちを告げるんだ」
俺の話を興味深そうにアンナは聞いている。
「でも、元々の起源は恋人同士が愛を誓い合うというものなんだ。それでこれをアンナにと……」
ヴェスタフから受け取った箱には、プラチナでできたシンプルなリングが入っていた。
それを丁寧に取り出して、アンナの左手の薬指にゆっくりと差す。
アンナは、微動だにせず成されるがままといった状態。
「愛してるよ、永遠に」
大きく震えるアンナの体。その瞳からは一筋の美しい涙が流れていた。
「は、い……」
掠れた声は俺の心にはっきりと聞こえた。
俺が顔を近づけると、アンナは瞳をゆっくりと閉じる。
感情が溢れそうなキスは、家から出る前とは全く違ったものだった。
こうして、俺の生まれて初めてのバレンタインは幕を閉じた。
俺はヴェスタフから貰った袋を何度も見直した。
しかし、やはり足りない。
一つ足りないんだ!
俺の脳裏で、ヴェスタフがニヤリと笑った。




