第106話 プロポーズ
俺達はいつぞやのカフェで、朝食を頼んでいた。
ウェイトレスが、焼き立てのパンをテーブルに並べて、戻っていく。
俺もティアもそれには手を付けない。
しばらくして、先程のウェイトレスがカップとポットを運んできた。
目の前でお湯を注がれるカップからは、幻想的な蜃気楼が立ち上る。
その蜃気楼を通して見えるティアは、心ここにあらずといったところだ。
「ティア、そろそろ食べないと冷めてしまうよ」
俺の言葉に、ピクリと反応を示したティア。
「………………です」
ティアは、ターザンでも絶対に聞き取れないだろうという声で、何かを呟いて俯いてしまった。
俺は席から立ち上がり、ティアの隣に移動する。
ティアは俺が立つ逆側に顔を背けた。
明らかにおかしいティアの様子に、俺は動揺を隠せない。
沢山の人が往来する大通りでのキスは、ティアの心に傷を負わしてしまったのだろうか。
勝手に共感して、勝手に高揚して、体が動いてしまった事を後悔する。
「ティア、さっきはどうかしていたんだ。機嫌を直してくれないかな」
俺はできるだけゆっくりと、そして優しく話しかけた。
ティアは俯いたままで、全く表情が見えない。
「ヤクモ、先程は気まぐれだったと言うのですか?」
声のトーンが奈落の底まで落ちている。このままでは待っているのは地獄の門だろう。
「ティアの言った事に共感してしまって……。大切に想っている女性が、同じ感情で苦しんでいるのを見て、愛おしく感じてしまったんだ」
「大切に想っている……、愛おしく感じる……」
ティアの全身がふるふると震えだした。まるでチワワのように。
「俺は自分に自信が持てない。演奏には絶対の自信があるのだけど。ティアや他のみんなが俺の側にいることが、不思議でならないんだ。そして同じ悩みをティアも抱えている事を知った」
俺は一言ずつ切りながら、一言に重みを持たせた。
ティアは、俯きながら頷いている。
俺の言葉を、聞いてくれているようだ。
俺はそのまま諭すように続ける。
「俺とティアは近い価値観を持っていると感じたんだ。もしかしたら孤独になってしまうという感覚。俺はティアを離さない、これからもずっと……」
ティアは一度、大きく震えた。推定震度八、マグニチュード八.八くらい。
俺は気になって、椅子の背もたれに片手を置いて、ティアを覗き込む。
それに反応して、ティアはようやく顔を上げてくれた。
整った顔は真っ赤になり、目や鼻からの雫が表情を濡らしていた。
「ぐす、ヤクモ……」
くぐもった声は、憂いや悲しみに彩られていない。
俺は持っていたハンカチを、ティアに差し出した。
「ティア、もう大丈夫? 感情の整理はついた?」
ハンカチを受け取ったティアは、それを顔に添えて俺を見上げる。
その表情は、雨を降らせる雲が払われた晴天のようだ。
「ヤクモ。わたくしを貴方の奥様にして下さい」
プロポーズは突然に!
ティアの声が俺の頭の中でエコーする。いつもより二倍強めにエコーする。
多分、いつものティアが言っている冗談だ。そうに違いない。
「う、うん、そ、そうだね。いつか結婚しにょう?」
俺はどもりながらきっちり噛んで、語尾もモブの礼節に則り疑問系で終える。
うん、全くもって駄目だね、俺は。決めないといけないところで、キメることが出来ない。
その様子をティアは半眼になって見ている。豪雪が降る朝を思わせる、凍える視線で。
「ヤクモ、はぐらかさないで! わたくしの目を見て答えてください!」
普段の、結婚して下さい、というティアとは全く違った不退転の装い。
ティアの顔を見ると、恥ずかしそうに真っ赤になったままだ。
さっきまでは泣いた事で赤くなり、今は恥ずかしくてそうなっているのだろう。
俺も、奥さん=結婚、とは思っていない。これ以上、はぐらかすのはティアに対して失礼だ。
「俺はティアの事が好きだし愛おしく思う。けど、まだ生活の基盤ができていない」
「ヤクモは心配症なのですね。わたくしは、ヴィド教会国家の第二王女でもあるので、生活の事は気にしなくても良いのです。それに……」
ティアは、俯いて少し考える素振りを見せるが、すぐに俺を見上げる。
「いえ、なんでもありません。それでは食事の後、わたくしの部屋を使いましょう」
テーブルの上に置かれたままの朝食は、温かさを残したまま俺達を待っていた。
優雅にパンを手に取りながら口に運ぶティアは、何を言おうとしたのだろう。
待ってくれない時間の流れに、俺もテーブルに置かれたパンに手をつけた。
食事を終えた俺達は、大通りを歩いていた。指を絡めながら手をつないで。
恋人つなぎという、レジェンドクラスの手法だ。なんというかバカップル的な。
俺の手汗が半端ないが、それでもティアは手を離そうとしない。
彼女いない歴年齢の俺には、ハードルの高さがエベレストだ。
「ヤクモ、このお店に寄らせてください」
ティアが俺の手を引いた。俺も妄想から復帰して手を引かれた方に足を向ける。
ティアは扉をあけて、俺の手を引いたまま、その店に入っていく。
俺は店に入る直前、ショーウィンドウを見て愕然とした。
ティアが入った店は、ランジェリーショップだったのだから。
俺「ジュリアスはリアナと何日かかった?」
ジュリアス「何日?」
俺「皆まで言わせるなよ」
ジュリアス「ああ、悪いな。一時間だ!」
俺「……」




