桜の木の下に埋められたものは。
桜の木の下には死体が埋まっている。
桜があんなに美しいピンク色の花を咲かせるのは、桜の木の下には死体が埋まっていて、その血を吸っているからではないか、などという俗説や都市伝説がある。
確かにこれは俗説や都市伝説だ。日本中の桜の木の下に死体があるならば、数百万、数千万という数の人間が埋まっていることになる。それだけの数の桜の木が、日本には存在するというのだから。
けれど数千万本の内の数本くらいには、本当に死体が埋まっていたとしたら。
否。そもそも土というものは、落ち葉や枯れ枝などもあるが、数えきれないほどの生き物の死骸で出来ているものだ。
人も、獣も、鳥も、虫も、目に見えない微生物たちも、必ずいつか死を迎え、土に還る。ならばすべての桜の木の下には、死体が埋まっていることになってしまう。俗説や都市伝説もあながち馬鹿には出来ないものだと、痛烈なおかしさと皮肉を感じ、私は心の中で笑った。
今宵私は、桜の木の下に死体を埋めようと決意し、ここに来た。
私の手は泥だらけで、土を引っ掻いた爪という爪に、土と砂利がつまっている。髪は乱れ、汗と土と一緒くたになって絡まり、頬へと貼り付いていた。
すっかり血の気が引いた頬や唇は、さながら幽鬼のように見えることだろう。
そんな私を見つめているのは、二対の虚ろな瞳である。日本人特有の濃いブラウンの瞳が、ガラス玉のように冷たい月明かりを反射して、私を覗いている。
だんだんと土に覆われ、見えなくなっていくそれを、私はじっと見ていた。
私の頭上には桜の木が、とうに葉を落として黒々と影のような枝を広げている。月と星以外の光源を持たず、私と彼と彼女の他に人影はない。寂しい田舎の山道から、さらに分け入った所にある山桜。この木の根元に、深く、深く、穴を掘り、念入りに土と落ち葉をかぶせてしまえば、誰も死体を見つけられないだろう。
今宵、桜の木の下に、死体が埋まる……。
※※※※
幼少からの腐れ縁である二ノ宮一樹は、中学の時当然のように演劇部に入った。私はいつも一樹の隣で、彼のきらきらとした夢を聞いていた。
彼に恋心を抱いたのは、一体いつのことだったのだろう。
一樹が俳優を目指すために上京を決意した時だろうか。それとも夢を叶えた彼が、同じ新人の女優と恋に落ちた時だろうか。
確かに一樹が遠くに行ってしまうと知った時、なんとも言えない焦燥感に駆られた。彼を他の女に取られてしまうと思ったとき、暗い情念にとり憑かれた。
しかし私の彼への想いが、恋という木となって枝葉を広げ、私の心臓に根を食い込ませたのがその時であろうとも、種が発芽し成長を始めたのはもっと前のことだったのであろう。
俳優を目指すだけあって、一樹は美しい顔立ちをしていた。明るくムードメーカーで、少し傲慢なところがあったが、それすらも彼の魅力の一つで、隣の私はいつも眩しさに目を細めていたものだ。
対照的な私は、控えめで目立つことなく、真面目に人生を歩んだ。一樹の両親に頼まれたこともあり、ノートを写させてやったり、勉強を教えてやったり、毎朝遅刻しないように迎えにいったりと、なにくれとなく世話を焼いた。
弟か何かの面倒を見ているものだと思っていたけれど、いつの間にか芽吹き、育ち、抜くことも出来ないほど、それは私の中に根を張っていた。
※※※※
ざく。ざく。ざく。
人を埋めるほどの穴を掘るには、素手だけではどうしようもない。シャベルと体全体を駆使してようよう掘り上げた穴へ、落とした死体を埋めてゆく。冬場の山は冷え、吐息は白く、空気は肌を刺すというのに、不思議と寒さは感じなかった。
ざく。ざく。ざく。
風が木々を揺らす音と、遠くで鳴くふくろうの声以外は、穴へ土を落とす音だけが響く。
「さようなら」
土を平らにならし落ち葉をかけた後の、短い一言が一連の行動を終わらせた。
「カーット!」
掛け声と共に、静寂の山中へ一斉にざわめきが戻った。
「良かったよー!」
監督に褒められた彼女が嬉しそうに笑い、彼がやれやれと泥にまみれた肩を竦める。
死体役を務めた彼は、泥だらけだ。もっとも彼が穴に転がっていたのはアップのシーンのみで、後はエキストラである。
「素晴らしい演技だった。鬼気迫ってたねぇ。本当に誰か殺して埋めたことがあるんじゃないの?」
「まあ、監督、冗談が過ぎますよ」
彼女は朗らかに監督の冗談を返し、用意された椅子に座って台本を片手に持ち、反対の手でマネージャーから温かい飲み物を受け取った。
「推理ものの役は、殺される人間より殺す人間の方が美味しいよなあ」
彼女の隣には彼がどかっと座り、背もたれに体重をかけて、組んだ長い足をぶらつかせた。薄い唇を尖らせて、ぷらぷらと台本を振る。
若手俳優として引っ張りだこになりつつある一樹は、彼を取り合いドロドロとした愛憎劇を繰り広げる、推理映画の二枚目を演じていた。
冒頭で殺されてしまった彼は、この後回想シーンか種明かしのシーンに出るだけである。それでもただ殺されるだけの人物ではなく、彼が殺された理由を推理することによって、複雑な愛憎劇の背景と、犯人である彼女の悲しい過去が明らかになっていくという、重要な役柄である。
マネージャーとして一樹について上京した私は、常に目立っていないと気が済まない彼を宥めすかし、エキストラのような役から地道に仕事をとっていった。俳優だけでは生活出来なかった彼をバイトで養い、ほうぼうに頭を下げて売り込み、ようやく彼が俳優としてドラマに出られるようになった。
「あら、探偵役には敵わないわよ」
彼の恋人かつ犯人の役柄である彼女は、謎めいた美貌とひきこまれる演技力で彼よりも早く頭角を現し、既にトップ女優へと名を連ねている。
「探偵役は大御所がやるだろ。ま、その内やってやるけどな」
彼は端正な顔をにやりと歪め、探偵役の渋い大御所を眺めやった。ぎらぎらと光を灯すその目が、脇役などでは終わらないと言っている。
幼さを残すその甘いマスクへ浮かべる野性的な表情のギャップ。よく動く表情と、飢えた瞳がぞくっとするほど魅力的でテレビ映えすると有名雑誌に紹介された。
彼は、きっと女性たちの心を掴むだろう。私が彼の虜になったのと同じように。
彼の手にも飲み物が手渡される。猫舌の彼は冬でも冷たいコーヒーだ。当然マネージャーなら知っていて手渡している。ところが。
「あっちぃ! おい! 俺は冷たいコーヒーだと言っただろうが!」
紙コップを持った瞬間、手に熱が伝わったのだろう。彼は驚いて手を放し、コーヒーと紙コップは地面にぶちまけられた。
残念。飲んで火傷でもすればよかったのに。それくらの罰が当たっても可愛いものだろう。彼が私にしたことを思えば。
「すみません! うっかりしてました!」
「しっかりしろよ! お前の代わりなんていくらでもいるんだ!」
紙コップを拾い、新しい飲み物を取りに慌てて駆け去る背中へ一樹は罵声を浴びせる。
全く。いくらマネージャーだからといって、他人の目があるところでそういう態度を見せるのはマイナスだと、いつも言っていたというのに。
「ったく、使えねぇ」
「仕方ないわよ。新人さんなんだから大目にみてあげたら?」
彼女は周囲に気付かれないようにそっと彼の手に白い指を絡めて、たしなめた。
「ちっ。あいつなら完璧だったのに」
そう毒づいて私のことを話題に上らせた彼は、しまったと顔をしかめて手で口元を覆う。
「ふふ、大丈夫。貴方には私がいるから」
嬉しさに高鳴る鼓動を押し殺し、彼女の唇を使って、私は艶然と微笑んだ。それから、そっと瞳を閉じる。
※※※※
ざく。ざく。ざく。
閉じたまぶたの裏で、あの夜の光景がよみがえる。
ざく。ざく。ざく。
あの夜。桜の木の下に死体を埋めようと決意したあの日。同じように彼女も私を殺し、埋めようと決意していた。
ざく。ざく。ざく。
穴の中から見上げた景色は、寒々しい桜の木の枝と、冴え冴えとした月、黒く星を塗りつぶす雲。
黙々と穴を埋める彼。
感情を宿さず、人形のように美しかった、彼女のブラウンの瞳。
それらを見つめる、死体となって埋められた、あの日の私。
どろりとした情念を吸って成長した桜の木は、抜くことも出来ないほど私に根を張っていた。たとえ切り倒したとしてもその根は残り、切り株からまた新芽を育てるだろう。
そうしてまた枝葉を広げた桜の木は、しっかりと養分を吸い上げ、春になれば美しい花を咲かせることだろう。
桜の木の下には……死体が埋まっている。