ショートショート「家出」
彼もついに腹に据えかねたのだった。彼の父は理不尽であった。訳も無く彼のことを殴った。彼の父もその父に理不尽に扱われていたので、父とは息子を理不尽に扱うものだと彼の父は思っていた。息子とはつまり、父に理不尽に扱われるものだと思っていた。父は息子はボールであり、父はバットであった。息子はボールであり、父はクラブでもよい。
「ぼくは出ていくよ」と彼が伝えたのはもちろん彼の父にではない。そんなことを言えばまた殴られるだろう。そんなの彼はごめんだった。彼がそれを伝えたのは彼女であった。「こんな家、もううんざりだ」
それを聞いた彼女は言った。「それじゃあ、あたしも連れてって」
彼は唖然とした。彼はそんな答えを求めてはいなかったのだ。それに、彼から見て、彼女はとても恵まれていた。資産家で、理解のある親を持っている彼女がどんな不満を持ち得るだろう、と彼は思った。むしろ、彼女はここに留まるべきなのだ。
「お金なんて全然無いんだよ」
「ええ、いいわ。どうにか工夫して節約してやりくりしましょ」
「住む場所だって、きっとボロだ。ネズミが出るかもしれない」
「構わないわ。可愛いネズミだったら飼ってもいい?」
「ご飯だって全然食べられないよ。いつもひもじい思いをすることになる」
「ダイエットにちょうどいいかしら?」
「病気になっても、病院にかかれなくて、苦しい思いをすることになる」
「あたし、これまでお医者さんにかかったことなんてないわ。とっても丈夫なんですから」
「誰も助けてくれないんだよ」
「でも、あなたはいるんでしょ?」
「君を連れてはいけないよ」
「どうして?」
「こんなに苦しい思いをするんだ。これはお遊びなんかじゃないんだよ」
「覚悟の上よ」彼女は胸を張った。
「ぼくには」と彼は俯いて言った。「そんな覚悟は無いかもしれない」
こうして彼は家出を思いとどまった。




