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「あの、ミノル……明日は私もお庭で座っていてもいいですか?」
食事の間に伺いを立てる。
健の口元に、一口大に裂いた魚を持っていった実が手を止めた。
「構わないが……ぬいぐるみはどうした?」
「あらかた仕上げました。それで少し休もうと思って。昨日は気持ちがよかったんです。何もしないのって、時々は必要なんですね」
テーブルに肘をついて上半身を支えていた健は、口元でお預けになったままの魚を見下ろして、一瞬あとに自分から身を乗り出して口に入れた。
足の感覚がないから、バランスを崩さないように肘で体を支えていろ、その代わり食べさせるという実の申し出に遠慮をしなかったからである。
「こら、ケン、行儀が悪いぞ」
自分で食べ物を止めておきながら実が言った。
勝手に口先に止めていたくせに、という文句の代わりに、
「それならユウコ、明日はオレと散歩でもしない?」
と、実に次のおかずを要求しながら、健が笑いかける。
「お外に出ても大丈夫ですか?」
夕食の時間に姿を現した彼が車イスに乗っていたことは夕子を驚かせたが、深く追求することなくしかし、当たり前の心配を言葉に代えた。
「もちろん、君がこれを押すことになるけれど、嫌でなければ林の中を歩くのもいいよ?」
健にしてみれば、志乃の訓練の邪魔をしないための配慮だった。
「それとも町に行ってみる?」
軽々しい発案に、箸を持ったまま実が彼の頭を叩く。
「おまえな、舗装されていない道をユウコに押させるつもりか? 第一、街道に出る林は坂道になっているじゃないか」
そんなこともわからない健ではないはずだが、それもそうか、などとのんびりと答えたところをみると、あの結構急な、雑草と枯れ葉が堆積した坂のことを忘れていたらしい。
というよりも、普通に行き来していた道なき道だったため、車イスが難儀するという想像力を持っていなかったといってもいい。
実は、乱暴にご飯を口に突っ込むとため息をついた。
「おまえ、今の状況を楽しんでいないか?」
「そんなつもりはないよ。悲観して治るものじゃないだろう? 先生に調べてもらっているのなら待っているしかないじゃないか」
だが、おそらく悲観していない理由は、キッシュの時代に行く頃には治っているという、先ほど実に言ったことが大半だろう。
治るのであれば、小島であろうと実であろうと構わずに任せるということらしい。
それまでは、成り行きを楽しむ余裕を持っていたほうが落ち込むよりまし━━開き直りかもしれないが、実は、あるいは精神的に考えてそのほうがいいのかもしれないと、苦笑交じりに頷いた。
「そうだな。町までは無理だがこの辺りを歩くのはいいんじゃないか?」
と改めて答える実に、彼女は嬉しそうに返事をした。
そんな会話を黙って聞いていた志乃の仏頂面を横目に見て、はじめが彼を小突いた。
「羨ましそうだな」
志乃は僅かに鼻をならしてはじめを睨んだ。
「どこを見ればそういう言葉が出てくるんだよ。不愉快と言い換えてくれ。あんたのせいだぞ」
「何を言う。自分の理解力のなさを私のせいにするな。まったく、護さんの忠告も理解できないのではあの人も気の毒だよ」
音を立てて茶碗を置くと、志乃は恨みがましく彼に向き直った。
「それくらいはわかったよ。結局精神訓練じゃないか。頼んだ手前、文句は言わないけど、あんたが余計なことを吹き込んでくれたおかげで集中どころじゃない。所詮、俺はやつらと違うんだ。それをあいつ、わかってやらせてるのかこっちが聞きたいよ」
チラッと護に視線を投げて様子を伺うと、彼はひとり、誰の会話も耳に入らないかのように黙々と食事を続けている。
この愚痴を、本当は聞いてほしかったのだが、志乃はなおも内緒話をするように声を潜めた。
「あんたの精神統一もあんな感じで黙って座ってるのか?」
「……まあ、普通はそうだと思うが。なにかをやりながらというのはあまり聞かないな。心を落ち着かせてから相手と対峙するものだ」
「でもそれってトレーニング……じゃなくて稽古のときはいいけど実践じゃ統一する余裕ないだろ?」
そう言われると説明に言葉が詰まる。
そういう状況に陥ったことがないためだが、いざというときに素早く自分を落ち着かせるためにも統一という訓練が必要なのだと安易に言っていいものかどうか。
「私は……」
ふと健たちを盗み見ると、ピタッと会話を中断し、ドアに目を向けていた。
どこか訝しげな表情にはじめもドアを振り向くと、ややあってノックが聞こえて隆宏が姿を見せた。
「なんだ、まだ食事中だったの」
彼は、先にリビングを覗いたのだという。
テーブルの料理に苦笑した。
「こんなことなら食べてくるんじゃなかったな」
それから、また廊下に出ると次に入ってきたとき、二人を従えていた。
絵里ともう一人だ。
「タカシ……おまえまでどうした?」
新顔に対して声をかけたのは当然ながら健で、高志は初対面のはじめに人懐こい笑顔で近づいた。
「はじめまして。佐竹高志です」
と、一応は丁寧に頭を下げる。
はじめもまた両手に持っていた食器を置いて立ち上がり挨拶をしようとしたが、そんな隙を高志が与えるはずもなく、すかさず彼は志乃のおかずを一つ口に入れて言った。
「久しぶりだなぁ。はじめさん、ユウコは料理が得意なんだよ。オレは辛いものが苦手なんだけれど、そういう好みをちゃんと調節してくれるんだ。十日も口にしていないからなぁ。やっぱり腹ごしらえなんてしてくるんじゃなかった。向こうでさ、制作部の人たちと食べてきたんだけれど、本館のレストランは食べ続けるとあきてしまいそうだ。芝さんの料理は和食がおおいけれど、本館のほうはどこで食べても同じという感じの味だったよ。でも、たまにはいいのかな。毎日じゃスタッフが弁当を持ってくる気持ちがわかるよ。あそこは持ち込んでもいいみたいで二人ほど弁当を広げて……」
一気に喋り続ける高志を止めるのは難しい。
しかし、いつもなら充分に喋らせておく健が、今回は強引に止めた。
「タカシ、一体なにをしに来たんだ。興味がなかったんだろう?」
絵里が後ろから高志を小突く。
隆宏がダイニングのソファに二人を誘導して、自分が健に声をかけた。
「連れてきた理由を説明したいんだけれど……誰に言えばいいのか……」
「どうして?」
「今から君は部外者だ。口出ししないでくれる?」
「部外者? ……って……」
「君にはキャップから帰還命令がでたからね。本部に戻ってもらうよ」
「ま、待ってくれ。帰還? 命令? どうして彼に従わなければならないんだ?」
今まで、司令からの依頼を受けることはあっても命令じみたことは一度としてなかった。
おそらく、今回は足のことが原因だろう。
それはわかる。
が、だとしたら尚更筋違いの命令なのだ。
従う義務はないし意思もない。
しかし、隆宏は厳しい表情を健に向けて続けた。
「今回ばかりは従ってもらうよ。これは、指示担当のオレが許可を出した。ミノル、君にも戻ってもらう。その代わりにタカシたちを連れてきたんだ」
「どういうことなんだよ? 一体、おまえたちがここで……」
「ケン、黙ってくれ。……シノ、君がやっていた庭の居座りの意味は読み取れたのか?」
普段は声も小さく、のんびりとした優しげな口調の隆宏も、こうして切り口上に変わるときがある。
それだけ今回の話は重要だということだ。
自然と箸を置き、志乃はテーブルに肘をついた。
「意味はわかったよ」
「わかっただけか?」
「……としか言えないよ。時間がかかる。俺には難しいんだって」
隆宏は考えるように髪をかき上げたが、
「……仕方がない。なら、今回はマモル、君にリーダーシップをとってもらう。こっちに来てくれ」
どうやらリビングのほうで話すらしい。
黙って従う護を先に行かせ、彼は絵里に言付けをすると健のほうを見もしないで出て行った。
絵里が飲み物を用意するためにキッチンに立つ。
それを夕子が手伝おうとしたが止められた。
食事の途中ならそっちを片付けろ、ということだ。
その間に、高志が護の席についてテーブルの中央にあった大皿の煮物を口に入れた。
彼だけはいつものペースだ。
全員が戸惑っているというのに、久しぶりの夕子の料理に上機嫌だ。
「はじめさんがマモルにケガをさせたんだって? そんなに強そうに見えないのにな。なんか聞いたら、刀傷って残りやすいんだって? 居合いとかいうらしいね。マモルが君のことを褒めていたってエリから聞いたよ。あいつが人を褒めるのは珍しいんだ。覚えている限り……」
「タカシ」
絵里が飲み物をリビングに持っていったのを見送って、健はやはり強引に遮った。
納得できないその表情は、困惑だ。
「一体……どうして急に帰らなければならないんだ? おまえは聞いている? この足を抜きにしても、昨日は残ってもいいようなことを言っていたんじゃないのか?」
高志は首をすくめた。
「帰還命令は確かにその足じゃないかな。でも、多分君が考えるほど単純な理由じゃないよ。あとのフォローのために交代するらしいね。君の目的は果たしたんだろう? 帰る準備じゃない? オレはそう聞いたよ」
「後始末のフォロー? それは本部の……役目……」
仕事に関して、下準備や後始末は本部が受け持っている。
つまり、本部の役割は健たちが仕事をスムーズに完遂するための環境を整えるために存在しているのだ。
今回は完全に、健の個人的な移動であることは確かだ。
しかし、剣崎司令は仕事という位置につけてくれた。
だからこそ、スタッフは下準備として家を建てて受け入れ体勢を整えてくれたのである。
後始末とは……この家を壊し、全てを撤収することに他ならない。
それに隆宏たちのフォローが入るということは……。
健は、隣の実に顔を振り向けた。
が、口を開く前に実が席を立つ。
「おまえが行っても追い出されるだけだと思うがな」
といいながらも車イスを回す。
なんのために隆宏が護だけを連れ出したのかわからないはずがないのだが。
健は、だからこそ話を聞かなければならない、と足の代わりに腕の力で体を支えて部屋から連れ出してもらった。




