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 実は、廊下に出たついでとばかりにキッチンに顔を出し、健が戻ってきたことを夕子に伝えてはじめの分も含め、三人分のコーヒーを入れてリビングに戻った。

「ずいぶん長い話だったね」

 テーブルにコーヒーが並ぶのを見ながら健が言った。

 実は、彼の体を起こして体勢を整えてやるとカップを手渡した。

「おまえを本部に戻す段取りをつけていたんだ」

「そ……それは勘弁してくれないか。頼むよ、ミノル」

 情けない声に、実の笑い声が混じった。

「嘘だよ」

 その一言に安心して、健が息をつく。

「おい、気をつけろ。こぼすなよ」

 さりげなくカップを支える無意識の仕草に、はじめは目を細めた。

 微笑ましく感じる反面、不思議な光景を見ているように思う。

 子供の悪ふざけのようにからかったと思うと、すぐに甲斐甲斐しく面倒をみる実の、ころころと変わる表情や態度が不思議なのだ。

 はじめは、自分も湯気を立てているカップを取り上げて口をつけた。

 途端に顔をしかめる。

「苦い。なんだこれは?」

「コーヒーだよ。冷たいやつを一度、口にしているだろう? 砂糖を入れるか?」

 返事を聞く前に、トレイに置いてあったスティックシュガーを一本入れて、かき回してから改めてはじめに渡した。

 再び取り上げて中を覗きこむ。

 黒い液体から立ち上る香りは心地いいのだが、最初の一口のイメージから、また口をつけるのに抵抗があった。

 しかし、いざ飲んでみると今度は味が柔らかく、甘くなっていた。

「うん、これなら……面白い味だな」

 健もまた飲んでいたが、当たり前のように実にカップを渡してはじめに言った。

「今ならヨコハマ辺りに行けばコーヒーを出すお店ができているんじゃないかな」

「君たちの時代にはその、外国の文化が入っているというわけか」

「そうだね」

 実が頃合いをみて、またカップを渡す。

 自分の分は手をつけようとしなかった。

「それにしても……。あの連中はいつもあんなにうるさいのか?」

 唐突に違った話題を振られて、はじめは一瞬、きょとんとしたが、実が言っている連中が先ほどの道場の仲間だと気づいて、苦笑交じりに頷いた。

「沖田さん以外は食客なんだが、ほとんど居候状態だな。私も時折思うよ。よくもあれだけ喋ることがあるものだとな」

「おまえ、あれに一日付き合っていたのか?」

「最初は剣術の稽古をつけてもらったんだ。あそこでは竹刀ではなく木刀を使うらしいんだ。それが結構重かった」

 健に言わせると、四人ともそれぞれの流派があるらしく、形や動きが違っていたという。

 もちろん、彼はそれを覚えるつもりはなかったし、誰がどの流派ということも聞かなかったが、道場の連中から見れば、彼の動きはでたらめに見えたかもしれないと、恥ずかしげに笑った。

 元に戻った情けなさに、実は黙って聞いていたが、安心したように、ようやく自分のカップを取り上げた。

「そういえば……」

 しばらくして、健は思い出したように二人を見比べた。

「いつの間にか布団で寝ていたけれど……おまえか?」

 今度は、実たちが互いの顔を見合わせた。

「オレたちが入ったときにはあそこで寝ていたぞ。一体、どこで寝ていたんだ?」

「……いや……最初は寝られないから縁側で座っていたんだよ」

「それならあいつらの誰かだろう?」

「……お礼も言わなかったな。悪いことをしたよ」

「そんなことを気にする連中じゃないよ、健さん。大方、酒を提供してもらった恩返しじゃないかね?」

 その程度に考えて構わないとはじめは言った。

 そして、残ったコーヒーを飲み干すと、膝を叩いて立ち上がった。

「さて、少し庭で寝てくるか」

 なにしろ、夜通し木戸の脇に座り込んで夜が明けるのを待っていたのだ。

 実もつられて腰を上げた。

「部屋で休めばいいじゃないか」

「いや、志乃さんがあの……」

と、庭に顔を向ける。

 相手はずっとこちらを見ていたらしい。

「調子だからな。どうもまだわかっていないようじゃないか。少しばかり圧力をかけてやろうと思ってな」

 昨日は夕子で今日ははじめ、というわけか。

 実は面白く笑って彼を送り出した。

 それから健を一人部屋に残し、廊下のほうに出て行ったが、しばらくして車イスを持って戻ってきた。

「おまえは部屋に行くか?」

「彼らを見ていたいんだけれど……」

「なら、ここでな。邪魔者ははじめ一人でいいだろう。おまえまで行ったら訓練どころじゃなくなる」

 ソファに椅子を横付けして、健をそちらに移そうとテーブルを横に押しやる。

 以前も健は足をケガしたことはあったが、そのときと違い、今の彼の両足はまったく麻痺している。

 そのため、肩を貸す程度では移せるはずがなく、背負うというより担ぐような形で、実は苦労しながら車イスに移動させた。

「確かに……オレだけではおまえを背負って帰るのは無理だったな」

 道場の連中はさぞ、苦労したことだろうと他人事のように笑う。

 実を見上げ、健は顔をしかめた。

「オレはそんなに重いか?」

 自分ではスリムなつもりでいるのだ。

 実際、枯れ木のようにとまでは言わないが、同年齢の人間の中では細い方だと思っていた。

 実は違うよ、と言った。

「背負うのにオレだけの力だと無理だということさ。背負われるほうの力も必要なんだ。下半身で自分の体重を分散させる。それができないからあの帯で支えるしかなかったんだよ」

 車イスを窓際まで移動させて、実はその隣に腰をおろした。

 はじめが、護になにやら言ってすぐ隣に横になる。

 志乃が代わりに起き上がってはじめに話しかけようとして、護に一喝されているすがたを遠目に眺めながら、健は今度は実を見下ろした。

「薬のせいじゃないとしたら、なんだろうね、この状態」

と、未だに感覚のない足を押さえる。

「それをトシアキに調べてもらっているよ。何かわかったらタカヒロが教えてくれるさ。あとは本部に戻ったあとで精密検査でもしてみるか。……原因を言うのはそれからだな」

「そう」

 気の抜けた返事は、まるで他人事だった。

 実も健を見上げる。

「ずいぶん落ち着いているじゃないか。このまま治らないとは考えないのか?」

「おまえがいるのに?」

「オレではわからないんだぞ?」

「だってキッシュのところではちゃんと動いているんだよ?」

 ああ、と呟いて実はその場に仰向けになった。

「なるほどな。それまでには治るというわけだ」

「そういうこと。もっとも原因がわからないというのは意外だけれどね」

「トシアキに任せるさ」

 健が肘掛けから乗り出して実を見下ろした。

「結局……いついてしまったね、先生は……」

 彼がわざわざ北海道からレイラーの主治医でもあった小島利明を呼びつけたのは、元々は実の角膜移植をするためだった。

 それが、健の集中治療のために滞在を延ばし、それと平行して過去に行くことを知ってからは、なにかと口実を作って本部に留まっているのだ。

「トシアキがいたら邪魔なのか?」

「そうは言わないよ。ただ、おまえたちが混乱しないかと思ってね。なにしろ五十年前の彼と今の彼を同時にみることになるんだから」

「大した問題じゃないな」

と軽く笑い飛ばしながら、本音は違うだろう、と実は心の中で言った。

 いくら一時的に過去を共有したといっても、健は小島が側にいることを基本的に嫌がっている。

 彼がノーマルだからだ。

 どれだけ親しくとも、彼らにはどこかでノーマルとノーセレクトを隔てているところがある。

 人好きで、会話を楽しむ健も同じなのだ。

 人より勝っているとか、優秀だからと差別しているわけではない。

 物心ついたときから、むしろ差別されて育ってきた結果なのだ。

 周囲の環境からではなく、レイラーから直接植え付けられた意識はもう、変えられない。

 自然、会話が途切れた。

 健が庭に目を向ける。

 志乃がうつ伏せのまま肘で上半身を起こしてじっとこちらを見ていた。

 しかし護の目が怖いのか、なんのアクションもない。

 そして監視役の護は、木の根に寄りかかり空を見ている。

 はじめは、ここで言い残したように寝てしまったようだ。

 鳥の声、僅かな風に揺れる葉ずれの音……。

 誰の声もしない。

 静かな、そして穏やかすぎる時間に、健は息を潜めて目を抑えた。

「もっと……怒られるかと思ったよ……」

 実が半身を起こした。

「今更怒っても仕方がないだろう?」

 表情が隠れてしまった椅子の肘掛けに手を乗せて、もう片方の手を健の額に当てる。

 実は、言い聞かせるように静かに言った。

「諦めないよ。オレは絶対に。……だから好きなように生きろとか、何をしてもいいとは言わない。怒るときは遠慮なくそうするさ。ただ、これだけは言っておくぞ。もっと自分のことを考えろ」

 健の、嗚咽を漏らすような深いため息が聞こえたとき、実は腰を浮かせた。

「疲れたか?」

 今の健には、実の労りがささやかな傷になるのだろう。

 大丈夫、という言葉は出なかった。

「部屋に戻ったほうがいいかな?」

 いつもの包み込む微笑みもない。

 気を張るのをやめたのか、それとも諦めか……。

 弱気な呟きだ。

「まだ落ち込んでいるのか?」

「いや。……ただ、ひどく静かだと思って。……前はこういうことも珍しくなかったんだよね」

 ムードメーカーの高志や絵里がいても、ふとした弾みで静寂が訪れることがしばしばあった。

 それほど長い沈黙ではなかったが、誰もがそのときの雰囲気を楽しむかのように口を閉ざす。

 実の口調は、そういうときには嫌みも皮肉もなく、静かに大人びて響く。

 人を恐れ、何年も口をきかなかった実と、人好きにも関わらず、限られた人間としか接触を許されなかった健。

 一心にレイラーの愛情を受けて育った実と、日に何度かしか会わなかったレイラーに育てられた健は、やはりその人たちと別れるときも正反対だった。

『ノーセレクトが許せない』

 それが、死の直前に実に残された言葉であり、

『本当の息子であれば、私はどんなに自慢しただろうな』

 別れ際の、たった一度だけの抱擁が愛情の深さを物語る健への言葉だった。

 なにもかもが対極にいながら、今、二人は同じ思いでいたのだろう。

「このままずっと……続けばいいのに……」

 そう呟いたのは健のほうだった。

「続けるんだよ。諦めるな。おまえが築いた時間じゃないか」

「……ミノル……」

 少しだけ顔が歪む。

 俯いて、震えた手の隙間に涙が落ちた。

「どうする? 部屋に戻るか?」

 慰める言葉はなく、それがいつもの実の態度であることに、健は微かに頷いた。


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