6
玄関のドアを開けると、眩しい光が天井から降り注いでいた。
唖然と見上げるはじめを中に促す。
「あれは……?」
と、天井を指さした。
「ライト……明かりですよ」
廊下の奥から聞こえた足音が、途中でピタリと止まった。
壁の向こうから、そっと覗き込む顔が見える。
「ユウコ、ただいま」
にっこり微笑む健に、彼女が少しずつ姿を現す。
「お、お帰りなさい……」
「お客さんを連れてきたよ。挨拶はできる?」
まるで、子供に言い聞かせているようだな……そういう印象を持っただろうはじめが、彼女に頭を下げた。
「はじめまして。お邪魔します」
彼女は弾かれたように廊下の奥に引っ込んでしまった。
しかし、すぐに顔だけ覗かせる。
「は……じめまして……」
震えた声が、やはり身震いする体と共に出てきて、彼女は完璧に怯えた心と、健の呼び掛けの葛藤の末に、ようやく深々と頭を下げた。
「いら……しゃいませ」
この怯えようは、恐らく護の姿を見たからだ。
「上がってください」
苦笑するしかない。
無作法を注意することもできず、健ははじめを促して、自分でスリッパを用意しようと腰を屈めたが、すかさず脇のドアが開き、その手を止めた。
「あたしがやるわよ」
「エリ? ……どうして君が?」
「用があるから来たんじゃないの。朝からずっと待っていたのよ」
シューズボックスからスリッパを二つ出して並べると、彼女もはじめ同様、深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ。宮本絵里と申します」
こちらは完璧だ。
しかし、すぐに二人に背を向けてしまった。
「どうして降りてきたのよ?」
すっかり怯えて立ちすくんでいた夕子は、彼女の呼び掛けに慌ててバスルームのドアを開けた。
「お湯を用意するようにと。……あの……」
「なら、早く。こっちはまかせなさい」
「……はい……」
バスルームに飛び込んだ彼女を尻目に、絵里は再び健たちを促した。
「お酒の用意をしたわよ」
と、二人をリビングに通す。
ソファに招かれたはじめが、座りなれないためか、落ち着かなく部屋を見回している間、健は入り口で彼女に耳打ちした。
「傷は深いのか?」
「どうかしらね? 刀傷を初めて見たわ。でも、ミノルも落ち着いているから大したことはないのかも」
「すぐに治りそうか?」
彼女は、途端に苛立ったように健を睨みあげた。
「どうしてあたしに聞くのよ。直接確かめなさい。ついでに言っておくわ。マモル、落ち込んでいるわよ。ケガをしたことがショックだったんじゃない?」
そうは言ったものの、彼女に確証があるわけではない。
表情に出ない護の感情を推し量るのは至難のことなのだ。
それでも、いつもとは違う雰囲気を感じる……勘だが、見当をつけたわけだ。
というより、健が見舞いやすく促したと言える。
実際、健ははじめを見やり、
「頼める?」
と、絵里に聞いた。
「任せなさいと言ったでしょう。早く行ってあげて」
軽く背中を押して、絵里は健を追い出すとはじめの隣に腰をおろした。
「お酒、強いそうね。どうぞ」
日本酒だ。
夕子は最初、いつものとおりウイスキーを用意して健たちの帰りを待っていた。
そこに飛び込んで来たのが志乃だ。
護を抱え、実とともに二階に上がるときに、はじめがここに来ることを聞いて急遽、用意したのである。
そうなると、熱燗にする暇がないどころか、夕子が狼狽えていては絵里にできる作業ではない。
結局、グラスに冷酒、が彼女が用意できる限界であった。
目の前にグラスを差し出されて、はじめは怯んだように目を見開きながらそれを受け取った。
「刀、預かるわ」
「えっ?」
無意識に腰から抜いていた二本の刀は、傍らに置かれていた。
大刀のほうは刀身を半分に折られたまま、鞘に収まっている。
彼女は返事を聞くより早く二本を取り上げると、部屋の隅の棚に立て掛けて席に戻った。
「遠慮はしないでちょうだい」
元の席に戻って言った彼女に、ようやくはじめが酒に口をつける。
「お酒はともかく、料理はユウコの自慢なのよ」
「ユウコ……?」
「さっきの子よ。あんたにちゃんと挨拶できたかしら?」
先程の様子を思い出し、彼はようやく口元を緩めた。
「できていましたよ。人見知りというのはあの娘さんのことだね?」
「なつけば積極的にもなるんだけれど、少し時間がかかるわ。辛抱してちょうだいね」
訝しげにはじめが眉を寄せる。
「どうもわからないな。君たちの目的はなんだ? まるで、長く付き合うような言い様だが」
そう尋ねたのは、彼女も、そして健も時間をかけるようなことを言っていたからだ。
彼女は、軽く首をすくめた。
「あたしが言うことじゃないわ。そういうことはケンから聞いて」
「白木さんは君たちを束ねていると言っていたな。あるいはどこぞの組織が私に用があるのかね?」
さっそく二杯目を注ぎ分けて、彼女はケラケラと笑った。
「組織……ねぇ。関係はないはずよ。あたしたちはケンについてきただけ。あんたのことを知っていたのは彼だけだもの」
「なぜ、私のことを知っていたのかも秘密か?」
「いいえ。近藤さんの線からあんたのことを知ったんじゃないの?」
「近藤さん? ……あの人の知り合いだったのか」
それならば、直接近藤に確かめればいい……。
と、考えたものの、自分が江戸を出奔した身だということを思い出したらしく苦笑する。
そんな彼に、絵里は覗き込むように屈んで言った。
「言っておくけれど、近藤さんに聞いても無駄よ。あの人はあたしたちを知らない」
「……はあ?」
一体、どうなっているというのだ。
言葉が続かない。
結局、黙って酌をされるままに酒を飲んでいるしかなかった。
しかし、だいぶ経ってから、またはじめは独り言のように言った。
「どうも……化かされているような感じだな」
「この時代で言えば狐か狸、かしらね」
「この時代? 時代……とは?」
絵里が、なにげに肩をすくめる。
「それもケンに聞いて」
つまり、大将に采配を任せている、ということか。
あれほど情けなく他人の顔色を伺っているような、頼りない男でも、彼女たちは頂点にすえて満足している、というわけだ。
それとも、全ての責任を擦り付けるにちょうどいい相手とでも考えているか……。
だが、少なくとも護だけは、大将の頼みごとを忠実に守ろうとはしていたようだが。
自然、部屋の隅に追いやられてしまった刀に目が向く。
「……藤下さんは……」
ぼんやりと息をついた。
「あの流派はなんだろうなぁ。大小の二刀流なら知っているが、あのような小刀……いや、それよりも短いものの二刀流など見たこともない」
刀とナイフでは、圧倒的にナイフのほうが不利なのだ。
さらに言えば、護はそれを逆手に構えていた。
にも関わらず、躊躇いもなく懐に入り込み、いとも簡単に折られてしまった。
あのときの一瞬は、容易に思い出せる速さではない。
絵里はソファに背を押し付けて、
「流派にとらわれた訓練はしていないのよ。実戦としては無益なことだもの」
「君も剣術ができるのか?」
女なのに、ということらしい。
彼女は胸を張って、自信たっぷりな笑顔を向けた。
「できるわよ。とは言っても剣術という区別はしていないけれどね。マモルが使ったナイフならあたしも持っているもの。護身用に必要なのよ。……それにしても……」
彼女はここにきてはじめて、彼をまじまじと見つめた。
「あのマモルがケガをするとはね。上には上がいるものだわ」
健は先程、護が最強だと言った。
絵里はそれをほんの僅かも疑っていない。
信じあう仲間、か。
はじめも、どこか冷めた目で彼女を見返した。
「藤下さんを信頼しているようだな。ならば安心しなさい。充分強かったよ。私はあの時、確実に殺すつもりだったのだからな。……正直、あの程度のケガだけでかわされるとは思っていなかった」
まして刀まで折られるとは……。
それきり口をつぐんでしまったはじめに、絵里も無理をして話しかけることもなく、またしばらくの沈黙が流れた。
それが破られたのは、ノックの音だった。
ドアが開いた向こうから、健が声をかける。
「お風呂の用意をしました。どうぞ」