5
残った健が、もう一度頭を下げる。
「本当に申し訳ありませんでした。大切なものを折ってしまったことをお詫びします」
と、拾い上げていた刀を差し出した。
この暗さではもう、切っ先のほうを見つけるのは困難だった。
受け取ったものの、はじめは苦笑するしかなかっただろう。
折れた部分を一瞥して鞘に収めた。
「あの男はすごいな。あんな短い刃物でこれを折るとはね。だが、君が気に病むことはない。私もまだまだ……そういうことだ。……それよりも……」
はじめが辺りを見回した。
というより、護がいた場所に目を落とす。
健もまた、その視線を追ってスティックを見つけると、拾い上げてスイッチを切った。
護の分と、自分が貸したものをベルトにしまう。
「これを見ても……あなたは驚かないんですね」
「あの男の姿に、最初に驚いたからな」
そのわりに、平然としていたようだが……。
着物や羽織、袴など、健たちは着るつもりがなかった。
あくまでも自分たちのスタイルのまま、過去にきたのだ。
それが特別変わっていたわけではない、というのが隆宏のレクチャーだったからだが、一週間近く、この道を行き交う人を見ていて、誰一人洋装に出会わなかった。
まして外人ならともかく、日本人の洋装がいるはずがない。
だから、護が姿を見せるたびに誰もが怯んで、逃げるように立ち去ったのだ。
この辺りでは、健たちの姿は異国人とイコールだった。
「どこに行かれるつもりでした?」
健は、空を見上げて尋ねた。
坂を登ってきたということは、この先は北に向かうしかない。
彼の家がどこにあるのかまでは確認できていなかったが、僅かな資料が本当ならば、『小石川』はここよりも南だったはずだ。
だとしたら、隆宏が言っていたとおり、このまま西に行くつもりだったのかもしれない。
はじめもまた、空を仰いで返した。
「逃げているんですよ」
「……は?」
「江戸にいられなくなった。……さっきの男が言ったとおり、私は人を一人、斬ってしまった。京に知人がいるんでね。そこに逃げる途中でした。……あの男に言われたとき、仇討ちかと思ったよ。それにしては身内が姿を見せない……」
「そうでしたか……」
京都に行った理由は逃避行、か。
「残念だな」
時として、健は思ったことを無意識に口にする。
確かにそれらしいことは隆宏の調査で判明していたことであり、健たちもここに長く滞在するつもりもなかった。
だが、はじめが逃げているとなると、恐らく手配は回り始めている。
いつまで引き留めておけるか……。
「残念とは?」
はじめは、耳に入ってしまった言葉を聞き返した。
「いえ。……多分、時期が悪かったんだと……」
しかし、今を逃したらまた探すのに時間がかかる。
時間的、場所的距離は問題はないが、さすがに京都でまたポイントを作るのは手間だ。
「とりあえず、今日はオレたちの家にいらしてください」
それでも、今でなければならなかったのも確かなのだ。
気を取り直し、健は微笑んだ。
「……そうですね。話がおありだというのなら邪魔をさせていただこう」
健の穏やかさや優しい微笑みは、柔らかい物腰とともに、すでにはじめから警戒心を取り去っていた。
何より、足止めをされた今、もう宿場にははいれない。
申し出がなければ野宿しかないのだ。
志乃たちが消えた方向……道を外れ、林に入り込みながら、健は言った。
「オレは白木健といいます」
「白木さん、ですか。私に向かった『まもる』……というのは?」
「藤下護。オレたちの中では、彼以上の腕を持つものはいません。それでも……あなたには敵わなかった……」
おや、とはじめは首をかしげた。
「君は私を抑えられると言わなかったか?」
少しの沈黙があった。
が、すぐに健が口を開く。
「……ええ。抑えられます。けれど、それだけです。本気になることがオレにはできない。できることと言えば、攻撃をかわして、抑えるだけです」
「かわせる、か。大した自信だ」
もう、人の顔も判別できないほど暗くなっていたから、声で判断するしかなかったが、恐らく健は恐縮していたのだろう。
それとも、言われた言葉が恥ずかしかったか……。
「一応……彼らをまとめている身ですから。口先だけでもそう言わなければ……見本にならない」
「なるほどな。君は大将か」
軽い笑いが響いた。
“だが……それにしては弱々しい……。情けない大将、ということか”
本音はそちらだったろう。
口先だけ……わかる気がする。
「ミノルの言動を許してください。彼にはあなたに会う目的を話していません。きっと、彼はあなたに敵意をもっている。こちらが仕掛けたということも、あなたにとって正当な反撃だったことも彼には通用しない。どうか、彼の態度を我慢してください」
「姓はなんと?」
「黒沢……実」
「もう一人いたな?」
「万里村志乃といいます。あとは家に女性が一人。極端な人見知りです。あなたに失礼があると思います。オレのほうから先にお詫びを……」
草を踏む音がピタリと止まった。
健が、振り返る。
「どうも具合が悪いな。白木さん、だったな?」
「? 私は家を継ぐような身分でも、城勤めができる家に生まれたわけでもない。付き合っていた連中のせいにするつもりはないが、そこまで堅苦しく言われる身分じゃないよ。もう少し砕けてくれなければ、肩がこる」
暗闇に、クスッという含み笑いが聞こえた。
「そうでしたね。できる限り改めます。あなたもどうか、オレを名で呼んでください」
それきり、会話は続かなかった。
尚も奥に進むと、一気に林が開けて、そこには大きな家が建っていた。
「ほう……こんなところに……」
見たこともない建物の形のはずだ。
少なくとも、はじめが洋式の建物を見ていなければ。
「仮住まいです。必要がなくなり次第、壊します」
「壊す?」
家からの光は明るく、蝋燭や油の、儚げな揺らめきが感じられない。
障子がないどころか、薄い布が、透明なガラスの向こうに見える。
その明かりに、健の表情が浮かんだ。
申し訳なさそうな、頼りない笑顔だ。
そして……どこか哀愁を含む……。
「この辺りはバクフ直轄の場所だと聞いています。オレたちは不法侵入者なんですよ」
一瞬見えた、寂しげな瞳は、僅かに冗談を込めた光に変わった。
「そういうことか。しかし……もったいない」
「必要があれば他で使いますよ。次は……キョウト、かな」
京、と聞いて、さすがに冗談だと思ったのだろう。
はじめが声を上げて笑う。
「その言い方だと、私を追って来そうだな」
対して、健は当然のように頷いた。
「そのつもりです。さあ、どうぞ」