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オレンジ色に滲んだ人影が、足早に近づいてくる。
それが唐突に止まった。
目の前の護の姿に、訝しげに息を止める気配を感じる。
護は静かな、そしていつもの丸く、包み込むような声をかけた。
「失礼ですが……人を……探しています。斉藤さんという方をご存じではありませんか?」
その声は穏やかで、一瞬、警戒した相手は少しの沈黙のあと、クスッと笑った。
「斉藤という苗字はいくらでもいると思うが?」
ここまでは、何人かの男と同じ反応だ。
少なくとも、姿を見ただけで、まるで化け物を見るように逃げ出した男たちとは違う。
護が洋装で、日本語を話しているという動揺を隠している姿は、まだ威勢が残っている証拠だ。
「どこの斉藤さんを探しているのかね?」
「……」
相手と真剣に向き合う。
まるで、心の底まで見透かすように。
それが護だ。
だから相手をイメージで捉えることができる。
資料を読み込み、そこから推し量ったイメージと、今、目の前に対峙している男のそれとが少しずつ、重なっていく。
彼は、振り返ることなく健の気配を伺った。
何をしても温かく見守る、深く大きく、柔らかい春の日差し。
健がいる限り、どんなことでも、……できる。
護は僅かに腰を落とした。
「本名……山口はじめ。……旗本殺しの張本人……」
ここで、全ての相手は逃げ出した。
自分はそんな男を知らない……それが捨てゼリフだった。
とはいえ、逃げ出した理由が護の殺気だと感じられただけ、武士の本分はあったということにもなるが……。
しかしこの男は、表情を変えたものの、逃げ出すようなことはなかった。
「役人……ではなさそうだが」
言いながら、右手が上がる。
「そうなると刺客、になるのか? それにしても妙な男を雇ったものだ」
「……?」
なんのことだ?
護が僅かに眉を寄せた一瞬の隙に、男は刀の柄に手を置いた。
「これでもまだ、命は惜しい。返り討ちも仇討ちのひとつだ。……きなさい」
斉藤はじめ。間違いない。
護の左手が、ベルトのスティックを引き抜いた。
スイッチを入れると、鈍い光が残照に浮かぶ。
「あなたの命をいただく」
言うと同時に、逆手でナイフを構えたまま、相手の元に一直線に近づいた。
健たちの中で、一番の運動能力をもつ彼だ。
相手の懐に入り込む直前に横に振った光は、確実な手応えがあっていいはずだった。
しかし、なぜかそれを止め、護は弾かれたように横によけた。
刀が抜かれる音は聞こえたが、逆に護のほうが、小さな声を上げて左腕を押さえたのだ。
「マモルッ!」
飛び出したのは実だった。
蹲る護の左腕から血が滴る。
「来るなっ!」
痛みを圧し殺しながら絞り出した声で、実を制する。
「もう、やめろ、マモル」
「邪魔を……するな」
まさか、護が実に、そのような言葉を発するとは思わなかったのだろう。
思わず足がとまった。
やはり、敵わないのか……。
しかし、護にも意地があった。
健の頼みだ。必ずやり遂げる。
彼は、ベルトからもう一本のスティックを抜くと、腰でスイッチをいれて、今度は両手に構えた。
相手は、すでに真正面に刀を構えている。
「マモル……もう、いいよ」
出血は決して少ないものではないはずだ。
健もまた諦めたらしく、木陰から出てきた。
だが、護は僅かに振り返っただけで、意識を相手に向けたまま、構えを解こうとしない。
「来ないでくれ」
約束を守れないことは、護にとって屈辱以外のなにものでもない。
たった一言の静かな声の中に、揺るぎのない意思を感じ取った健は、
「やっぱり……そういうことか……」
そう呟いて、実の肩を支えると下がった。
「すまない、ミノル。こんなに強いとはさすがに……思わなかった」
と、小声で耳打ちをする。
それを、実は強く睨み付けた。
「ならば、どうして止めないんだ」
「……ごめん」
これもまた、自分の責任だ。
だが、健には止められない。
そうしてしまったのは、他ならぬ自分だったのだから。
「ケガをしたんだぞ。倒せるというのか? おまえ、あの男にどういう恨みがあるんだ」
過去の人間を抹殺する……それが可能なのかどうかなど、実の頭にはなかった。
ただ、護にそれをさせるほどの恨みが、その男にあるのかが気になる。
健には、ここに来る目的があったようだ。
それがこのことだというのなら、会ったこともない男に、どういう恨みを持っているかだ。
もうひとつ、実が納得できなかったのは、なぜ、護はレーザーを使わないのか。
ターゲットを確認するために姿を見せたのはわかる。
しかし、護はわざわざ、自分の攻撃体制を相手に晒した。
たった一発ですむことなのだ。
ケガをしなくても済んだ。
健は、実を志乃のいる木陰まで連れていくと、尚も声を潜めた。
「恨みはないよ。それどころか……オレが会いたかった相手だ」
「ならば……なぜ……」
空気中に透き通る音が聞こえ、尚も詰め寄ろうとした実の言葉が途切れた。
「よっしゃ!」
健の背後にいた志乃が、思わず歓声を上げる。
実が振り返ると、勝負はついていた。
シルエットに浮いたのは、相手の折れた刀だった。
何が起こったのか咄嗟に判断ができなかったらしく、男は呆然と刀を見下ろした。
その足元に、護が膝をつく。
両手のナイフを取り落とし、今度こそ、傷口を押さえていた。
「シノ」
健の呼び掛けで、志乃は男を警戒しながら、護を木陰に連れていく。
実が応急処置を施す姿を見ることなく、健は相手に正面から対峙した。
「今度は君が相手か。まとめてかかってくればよかったろうに」
言いながらも、惜しげもなく刀を足元に放ると、今度は脇差しを抜いた。
健は、足元の刀を、ひどくゆっくりとした動作で拾い上げた。
「非礼をお詫びいたします。どうか、その武器を収めていただけませんか?」
「……」
「改めてお伺いします。あなたは……斉藤はじめさん、でいらっしゃいますね?」
警戒を、脇差しを構え直すことで表し、相手は小さく鼻をならした。
「刺客……ではなかったようだな。確信もなく挑んでくるとは……」
「……申し訳、ありません」
「追い剥ぎでもなさそうだが……。相手の力量を見抜くのも能力のうちだ。たかが仲間が斬られたくらいで引き下がるのなら、最初から挑むべきではない。……もう、遅いよ」
健は、一度振り返って、
「そうですね」
と、言った。
「では、改めて……オレが相手になりましょう」
「バ、バカ! やめろ!」
相手は刃物を持っているのだ。
実が慌てて叫んだが、健は後ろ手に彼を止めただけだった。
「おまえだけは……」
「大丈夫だよ、ミノル」
「ふざけるなっ! もう、たくさんだ!」
治療も途中に、実は二人の間に割り込んで、相手に向き直った。
しかし、声は背後の健に向けられた。
「おまえならばこいつを抑えられるかもしれない。だがな、万が一にもケガをさせるわけにはいかないんだ」
言うなり、銃に手をかけた実を、健は強く押さえて止めた。
「やめてくれ、ミノル」
「うるさいっ! 手を離せ! どこが会いたかった相手なんだ! 今さらあとに引けるか!」
「……なに?」
一瞬、脇差しに込められた力が抜けた。
その隙に、健は実を強引に下がらせると、深く頭を下げた。
「あなたに会うために、待っていました」
そして、実に向く。
「頼むから落ち着いてくれ。もう、大丈夫だから」
いつもの、情けない微笑みを向けられて、実は銃を握っていた力を抜いた。
「この人が、オレたちに会って、まともに話を聞いてくれると思っていなかったんだよ。ここではオレたちは異世界の人間だということはわかっているだろう? それならば、対等の力を示さなければ納得してはくれない。……マモルはね……」
実の背後の木陰を見上げる。
志乃が手を上げるのを確認すると、健は安心したように頷いた。
「多少のダメージは覚悟をしていたんだ。この人の強さを確かめる……いや、オレが見届けるために引き受けてくれた。だから、今度はオレが相手になると、言ったんだ。もう、邪魔はしないでくれるね?」
実が反論するより早く、健は改めて相手に向き直った。
「どう、なさいますか? それを……収めてくれますか? それとも、やはり許してはいただけませんか?」
殺気も気負いもない、むしろ、あくまでも静寂でそして……温かい……。
それは、健の口癖だった。
誰に対しても選択肢を与える。
そして、その答えに付き合う。付き合えるだけの度量がある。
「オレならば、あなたを抑えることはできます。それを証明すれば、話をさせていただけますか?」
無言で健の言い分を聞いていたはじめは、やがて、やはり何も言わずに脇差しを納めた。
含んだような笑い声が洩れる。
「丸腰の相手を斬るほど、狭量だと思われたくはないからな」
「よかったぁ」
離れた場所から、志乃の声が聞こえた。
同時、護に肩を貸す。
「先に帰るぞ。早く手当てしなきゃ」
命に別状はないが、出血が続いているのだ。
実も、はじめを睨み付けたが、思い出したように無言であとを追っていった。