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「ちょっと、待て!」

 慌ててあとを追う。

 厨房では、板前が健の姿に唖然としていた。

「すみませんが、お酒をちょっと……いただけませんか?」

と英語で話しかけたところでわかるはずもない。

 徹底したその姿は、健が日本語を忘れてしまったのではないかと勘違いするほどだった。

 また通訳が必要だ。

「それじゃ、わからんだろうが」

と、健を抑えた。

 主人のほうが、青ざめて腰を低く頭を下げた。

 小刻みに震えている。

「なにか……不都合がございましたのならお許しください」

「ああ……ちがう。……ちょっと待ってくれ」

 はじめは耳打ちをした。

「なにか言い訳はないのか? 怯えているじゃないか」

「ごめん。……ユウコの頼まれものなんだ。下手なものを買って帰るわけにはいかないよ」

「……そうか」

 はじめは、改めて主人に向いた。

「すまんが、酒を一杯くれないか?」

「は、はい」

 急いで、湯飲みに酒をいれて差し出す。

 健はそれを受け取って中を覗き込み、一口含んだ。

 途端に、小さく舌を出して湯飲みをはじめに渡す。

「どうしよう……。こんな味では……」

「一体、どうするつもりで酒が必要なんだ?」

「どうするって、あなたが飲むために……」

「私に?」

 手渡された湯飲みをみおろして、はじめはおもむろに飲み干すと、器を主人に返した。

「私ならこれでも構わないぞ」

「……よく……飲めるね」

「まあ、慣れているからな」

 湯飲みを戻されて、主人は健とはじめを見比べている。

 文句を言われるのではないかと、誰も言葉が出てこないようだ。

 そして、それは健たちの背後でも同じだった。

 野次馬が、のれん越しにこちらの様子を伺っていたのだ。

 健は、髪に手を漉きいれながら上を見上げた。

 煤けた天井が目に入る。

 やがて、諦めたように息をついて言った。

「とりあえず買っていこう。家のものがなくなったら仕方がないけれど予備として……とっておくよ。はじめさん、頼んでくれるかな」

 それだけ言うと、あとは用はないとあっさり踵を返して店内に戻ってしまった。

 もちろん、のれんの回りにいた連中も慌てて席に戻る。

 健は、席につく前に、近場に座った客の一人に声をかけた。

「あなたも、あのお酒を飲んでいるんですか?」

 それはほんの些細な好奇心だったが、へっ? と奇妙な声をあげた客には、彼の言った言葉がわかるはずもない。

 しどろもどろに何か意味不明のことを漏らして顔を背けた。

 苦笑しながら元の場所に座る。

 が、それでも好奇心が治まることはなかった。

 今しがた話しかけた男の元にまた近づき、手振りでなにを食べているのかと覗き込んだ。

「これはなんですか?」

「うえ……おう……?」

 頼りなく、そして優しい微笑みで、男が持っている箸とどんぶりの中身を指差した。

 それから首をかしげる。

 男はそのジェスチャーを驚きながら見ていたが、自分なりに判断がついたのだろう。

「そば。そ、ば」

と言いながら箸でそばを持ち上げた。

「ソバ?」

「そうそう。そば」

「ああ……なるほど」

「食ってみるか?」

 言葉はわからずとも、健の微笑みは共通するものがある。

 江戸っ子気質も助けになっていたのだろう。

 健は男の隣に腰をおろし、渡されたどんぶりを両手で包んで覗いた。

「久しぶりだな」

 箸も渡される。

 健は男に軽く会釈をして、慣れた手つきでそばを持ち上げると遠慮もしないで口に運んだ。

 周囲の野次馬が、今度はあからさまに健に注目する。

 男は心配そうに健を伺った。

「どうだ? うめぇか?」

 答えは表情にしっかり出ていた。

 へえ……という感嘆の声が聞こえたのだ。

「すごくおいしい。なんか、オレも食べたくなったよ」

 言葉はわからなくとも、その顔を見ればわかる。

 そこへ、はじめが徳利を持って戻ってきた。

「け、健さん……そんなところで何を……」

「はじめさん、これ、おいしいよ。食べていってはダメかな?」

「なんだ? 君はそばも食ったことがないのか?」

 言いながら、当たり前のように健の目の前に腰を下ろす。

「あるよ。いつもはユウコが作ってくれる。けれど、この時代のものは初めてだし、しばらく食べていなかったからね。せっかく出てきたんだし、体験してみるのもいいだろう?」

 これも話の種だよ、と先程のはじめの言葉を繰り返されたらダメだとは言えない。

 不思議そうに二人の会話を聞いている男の目の前ではじめは頭を抱えたが、仕方なくまた店主を呼ぶと、そばを二人前、注文した。

 結局、この席に居座ってしまう形になるが、しきりに男に話しかける健の通訳として会話に加わったはじめは、半ば呆れながらも彼が人好きなのだということを改めて感じた。

 そして男のほうも、健が話せないが聞き取れると言うことを知って、遠慮もなく話しはじめた。

 自然、周囲に人が集まりだした。

 店内の客のほとんどは職人や町人だ。

 店主によって運ばれたそばを食べながらも、しばらく健は楽しい時間を過ごすことができた。

 ただ、すべての人間が善人というわけではない。

 健はそれを理解しているのだろうか。

 この宿場は、江戸から西に向かう人間や、逆に江戸にいく人間がほとんどだからさほど危険人物がいるとは思えない。

 特に、このような茶屋に入るのは周囲にいるような町人たちが多いからいいが、刀を持つような身分では、異国の風情の健は警戒されて当然なのだ。

 決して友好的な考えばかりではない。

 あまり長居しないほうがいい。

「健さん、そろそろ帰るよ」

と言われて健はようやく、居座ってしまった腰をあげた。

 懐からはじめが財布を出す。

「あ、はじめさん。オレが払うよ」

「は、払う? 君が?」

 健が持っているのは贋ものだ。

 そんなものを使わせるわけにはいかない。

 が、健は自分のベルトに引っかけてあった小さなポーチから、さっさと小判を一枚取り出してテーブルに置いてしまった。

「これで足りますか?」

「待て待て待て!」

 ざわめきと共に周囲の人たちが覗き込んだ小判を、はじめは手で隠して、もう片方の手で財布の中身をばらまいた。

 その中から幾枚かを主人に渡す。

「じゃ、邪魔したな」

 小判を健に押し付けるように返して、ばらまいた金と酒を持って、彼は強引に健の腕を引いて逃げるように店を出た。



 

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