32
『緊張感がないな。それほど疲れていたか?』
“……なんのことだ……?”
『それとも……寝心地がいいのか?』
「そう、だな……」
小さな呟きが、実の呆れた表情を作った。
完全に夢の世界だ。
何度か呼び掛けたが起きる気配がない。
まさか、志乃のように叩き起こすこともできず、どうしたものかと思案していたが、ともかく呼び掛けるしかないと、屈んだ。
「そんなことで身を守れるのか?」
今度は、身をよじって無意識に毛布を引きずり上げる。
その寝顔は、いかにも幸せそうで口元が緩んでいる。
実は、腰に手を当ててため息をついた。
怒鳴りつけるのは簡単なのだ。
ひっぱたいてもいい。
実が志乃を起こすときはまったく遠慮をしていないのだから。
諦めるしかなさそうだ。
彼はインターホンの設定をし直して、キッチンを呼び出した。
「起きないぞ」
そこでは健も、もう起きて待っているのだ。
彼は、少しの間を置いて言った。
「無理やり起こしてもいいのならそうするが?」
『乱暴はダメだよ』
「乱暴でなければいいんだな?」
『……何をするつもり? 起きないのなら寝かせておいてもいいけれど』
実は、はじめの寝顔に視線を落とし、また息をついた。
「なら、構わず食っていてくれ。こいつが起きるまでここにいるから」
『どうして?』
一瞬、目を見開いた実は、クスッと笑いを漏らしてサイドテーブルに片手をついた。
「おまえ、本当に鈍いな」
『なにか……変か?』
「あのな、少なくとも、客が、まったく知らない場所で、寝坊したとなると、ばつが悪くて顔を出しにくいだろうが」
ことさら言葉を切りながら説明した実だが、内心は呆れていたわけではない。
健が、ノーマルに気を使うわけがないことを知っているのだ。
彼は、はじめの気持ちを代弁したに過ぎない。
それを健がどう捉えたかはわからない。
ただ、しばらくの沈黙のあと、声が聞こえた。
『わかった。おまえに任せるから。待っているよ』
許可が出たとなれば遠慮をすることはない。
乱暴にさえしなければいいのだ。
「はじめ」
実は、屈むようにして彼の耳元で呼び掛けた。
今度は、僅かな身じろぎもしない。
志乃と同様に、彼も寝起きが悪いのだろうか。
武士とはいえ、そういう癖は抜けないのか?
ともかく、誰が相手でも躊躇うような実ではない。
彼にしては最大限に優しくキスをした。
だが、内容はといえば、恐らく誰も目を逸らすだろう。
そう思えるほど密度が濃い。
毛布の下で、はじめの手が動いた。
もぞもぞと上に伸びる。
「起きろよ」
反応があったことを確かめて実がまた、小さく呼び掛ける。
だが、直後に首を抱えられ、抱き締められたことで途切れてしまった。
「……いい……匂いだ」
寝ぼけたまま体制を変えようとしたらしく、実はその力で足を崩されてベッドに仰向けに倒された。
「うわっ!」
腰が不自然に折れる……。
「や、やめろ! はじめ!」
「……?」
必死の大声が届いたのか、ようやく目が開く。
自分が組みしいたのが誰なのか、理解するまでに少し時間がかかった。
「みっ、実さん?」
「い……て……」
咄嗟にはじめが離れたものだから、実はそのままベッドの下に崩れ落ちた。
「な……?」
腰を抑えながら実が見上げる。
「一体……どの女と間違えたんだ……」
「……女?」
しきりに首をかしげている。
「……夢? を、見たのか?」
その割りにはずいぶんと生々しい。
感触や香りがぼんやりと残っているのだ。
「らしいな。おまえ、欲求不満じゃないのか? たかがキスで押し倒されるとは思わなかった……」
「キ……ス? 夢?」
夢を見ていたのは確かなのだろう。
頭がはっきりするほどに遠ざかる、それでも僅かに残る、温かく包みこまれたような感触と香り……。
ぼんやりと実を見返しながら記憶を手繰り寄せようとしたが、ようやく何が起きたのか判断ができたのだろう。
思いきり息を吐いた。
「……やられた……。君は、普通に人を起こすことはできないのか?」
「できるし、やったぞ。それで起きなかったのはおまえのほうだ。シノ並みに寝起きが悪いな」
「そ、そんなことはない。いつもは……」
後が続かず、はじめはベッドを見回して、原因を突き止めたあとの呟きとともに、毛布を掴んだ。
「……こんな寝床、はじめてだ。気持ちが良すぎたのだな、きっと」
「ふうん」
実にとっては普通に寝起きしているものだから、さほどの感慨はなかったのだろう。
気の抜けたような返事をして腰をあげた。
はじめは、そこではたと気がついた。
「実さん、もしかして、護さんのことで呼びにきたのか?」
見当違いの問いかけに、実が呆れがちに思いきりカーテンを引く。
「みんな起きているんだよ。マモルの熱は下がっている」
眩しい光に目を細めて、はじめはそうか、と呟いた。
「もしかして、呼ばれたことにも気がつかなかったのかと……思った」
「そうなのか? オレはてっきり無視しているんだと諦めていたんだが」
「やっぱり呼んでいたのか?」
心からすまなそうに頭を抱えたはじめを見下ろして、実は笑いだした。
「真に受けていたのか? 一度抵抗力がつけば、そうそうにぶり返したりはしないさ」
「……」
呆然と実を見上げる。
つまり、今のは嘘で、更に遡れば、夕べからからかっていた、ということか。
「君は……根性が曲がっているなぁ」
怒る気にはならないが、つい愚痴が出てしまう。
途端に睨まれた。
「あ……気にしていたか?」
「別に」
ふいと顔を逸らし、実はクローゼットを開けた。
「着替えはここ。この時代の素材ではないから着心地は保証できないぞ」
いつもと変わらない口調での説明は健の受け売りだ。
素材もそうだが、何が必要なのかも理解していなかったそうだ。
とりあえず、知っているスタッフから聞いたり、コンピューターで調べて、下着の類いまで一通りのものを揃えたのだという。
大体、最初に会ったときからおかしいと思っていたのだ。
あとから、京都に向かう途中だったらしいと健から聞いたが、身に付けていた荷物などなかった。
まるで、近所に出掛けるような軽装だったのだ。
そのうえ、おとといと昨日と、同じ着物を着ていて、何とも感じなかったというのか。
運動のあとに小まめに風呂に入れたものの、服装が同じでは清潔感に欠ける。
道が舗装されているわけでもない。
埃だらけの山道を歩いていたというのに。
正直な話、はじめよりも実自身のほうが我慢できなかった。
はじめが、クローゼットを覗き込んで、その中から一通りを選ぶ。
素材のことを聞いて、着物を眺め回したあと、素直に着替えはじめた。
彼に背を向けて、実は窓の外を見ていたが、純粋な興味からか、疑問を口にした。
「普通、旅行をするのなら着替えくらい持っていかないか?」
「着替え? ……邪魔なだけだろう?」
「ずっと着たきりか? 汚れても構わずに?」
「いや。そういうわけではないさ。宿場につけば洗濯くらいはできるし、古着屋はいくらでもある」
実が頭を抱えた。
絶対に、この世界では生きていけない……。
誰が着たかもわからないものを平気で着ると言うのか、と。
「それがどうかしたか?」
と、逆に聞かれて実は頭を振った。
「なんでもない」
「おかしなことを言ったか?」
「……ここで当たり前ならばおかしなことじゃないさ。ただ、オレならば我慢ができないと思っただけだ」
「そういえば、君たちは日毎に違うな。まあ、家を構えていれば当然だろうが」
そこで気がついたらしい。
「旅をするにも、君たちは荷物を持って歩くわけか」
そして、むしろ気の毒そうに呟いた。
「面倒だな」
と。
しかし、金持ちなのか貧乏なのか判断がつかない。
普通、身分のあるものはお付きの下っ端がいるし、旅をする際にはそのものに荷物を持たせる。
武士が移動する際は、身軽でいなければならないため、そういうものを雇えない武士は、自分のように身ひとつで旅をするのだ。
実の背後で、衣擦れの音が止んだ。
「さて、と。……そういえば……」
「?」
これもまた、今さら気がついたようだ。
「君はどうしてここにいるんだ? もしかして……私を待っていたのか?」
実は脱力したように肩を落とし、同情からかはじめの肩を叩いて部屋を出た。




