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彼らの時代で、本部があるのは東京の文京地区だ。
隆宏の調査で、そこから近い板橋地区に見当をつけて入念に打ち合わせをした。
有名な歴史上の人物を、学習の一貫として学んでいても、さほど有名でない人たちの、まして日常生活まで知る手だてはない。
だから健から、ある特定の人物を名指しして調べてくれと言われたときには正直、隆宏は相当の苦労を強いられたようなものだった。
誰? と聞き返したくらいだ。
隆宏は、その人物を知らなかった。
てっきり有名な人物を名指しするものだと思っていたから、頭の中である程度の有名な名をピックアップしていた彼は、健がなぜ、そんな人間に接触しようとしているのか首をかしげたものだ。
しかし、積極的に目的を話さない限り、無理をして聞き出すことはない。
それが、彼らメンバーの暗黙の了解だ。
結局、どれだけ資料を集めてひっくり返してみても、特定の日にちはおろか、確実に板橋に姿を見せるという確証を得られることはできなかった。
そうかといって諦めることもできなかったのもまた、事実である。
健と護はもう一週間近く、拠点に構えた山奥の家から、板橋地区の、街道に出る細い道を見下ろせる林の中で、目的の人物が通ってくれることを祈りながら辛抱強く待っていた。
時期や、ささやかな記載を期待してこの時代に来たのである。
まったく絶望する確率でなかったことが、せめてもの救いだろう。
昨日から実がついてきていた。
そして、今日は志乃までも一緒だ。
夕方になって、未来の空よりもはるかに濃いオレンジ色が辺りを照らしている。
夏ならば、森林浴に心地よい外気だったかもしれない。
しかし、秋の風は未来より若干冷たく、それだけ空気が澄んでいる。
林の陰に隠れるようにして、人の往来をひっそりと覗き込んでいた三人は、木の上からの声に顔を上げた。
「難しいよなぁ。写真もない人間を探すってさ」
それは、他人事のような志乃の愚痴だった。
昨日まではおとなしくしていた。
夕子と共に家の中で、あるいは外に出ても家の周囲を散策するだけに時間を費やしていたらしい。
もちろん、そのときは実も一緒だったようだが、結局、退屈に先にまいってしまったのは実のほうだったということだ。
そして今日になって、志乃が実にならって、朝から勝手についてきてしまった。
ただ、退屈な時間という点ではここでも同じだ。
最初、彼は物珍しげに道行く人の服装を見ていた。
ほとんどが商人や町人、あとは農民で、同じような髪型につぎはぎのある、薄手にも見える着物を半ば同情から、
「寒そうだなぁ」
と言っていたのだが、健が一向に誰にも接触しようとしなかったため、飽きてしまった。
結局、木の上でぼんやりと、景色を見ているだけしかなかったようだ。
未来のように高い建物も、金属製の物体もなにもない。
遥かかなたまで見通せるほどの高い木に登っていたわけではないから、見えるのは薄汚れた道と、その向こうに並ぶ町並みだけだった。
そこが宿場町だと言われても、志乃にはピンとこなかった。
少しずつ陽が傾き、空色がオレンジ色に追いやられる頃には、人通りも極端に少なくなっていた。
志乃の呟きに、健が、降りてこいとばかりに手招きをする。
「今日もダメかもね」
彼も諦めていたようだ。
秋の空は暮れるのが早い。
健たちの時代と違い、暗くなってしまうと月明かりだけを便りに拠点に戻らなければいけないのだ。
提灯というものが存在することは知っていても、彼らのように文明に慣れたものには使いたい、という思いはまったくおきず、かといって懐中電灯を持ち歩くという思考もなかったようである。
というより、知識だけではこの時代の暗闇というものを想像できなかった、といえる。
十分ほど前から人も通らなくなった静かな道をもう一度見回して、健は、
「帰ろうか」
と、護の肩を叩いた。
彼一人だけ、ひたすら気配を伺っていたのである。
毎日のこと、さすがに気疲れをして、家に戻るとソファに倒れ込むことも二度ほどあった。
健がなぜ、最初から護を連れてきたのか、志乃にはわかるような気がした。
護は人を、イメージで捉える。
写真もない時代の、さほど有名でもない人物を探すことなど、不可能だ。
恐らく護でさえ、難しい。
彼らが接触する相手は『武士』だというが、それすら今日一日で何十人、通っただろう。
それだけの手がかりで半分以上を振り落とせるとはいっても、志乃からみれば、刀を差していればすべてが『武士』なのである。
身分など、区別がつかない。
どうしても、彼には気の遠くなるような人探しにしか思えなかった。
健の言葉に、護が深く息をつく。
途端に、力が抜けたらしく、その場に座り込んだ。
疲れが溜まってきている証拠だ。
昨日から無理やりついてきていた手前、ずっと積極的な言動を控えていた実が、黙って彼を見下ろし、やがて肩を貸して立ち上がらせた。
その目は、
『ここまでする必要があるのか?』
と言いたげだ。
「ありがとう」
ほんの微かに微笑んで、護はやんわりと実の手を外した。
一人で歩ける、と、先に帰路につきはじめた健や志乃のあとをついて行こうとしたとき、
「……ケン」
人の気配を感じたのは、実のほうが先だった。
一人、坂道を上ってくる足音が健の耳にも入る。
志乃も振り返る中、護はこれで最後だとばかりに、木の陰に寄りかかり、足音のほうに意識を集中した。
「行ってくる」
今度こそという過度の期待は持っていなかった。
無駄足でも確認する。
それを繰り返してきたのだ。
一週間近くの間、護は何度も、それらしい気配を感じて声をかけてきた。
そのたびに人違いだとわかり、謝罪してきたのだ。
意外というか、当然というか、この時代ではどうあっても護は異国人に見えるらしい。
女性に見られないだけまだマシだが、その代わり、彼の姿を見ただけで逃げ出すような男も少なくなかった。
町人や商人ならまだわかる。
しかし、武士という身分が、それほど情けないものなのかと、彼さえ落胆するほどだった。
もう、時間がない。
人の顔が判別しづらくなる頃だ。
イメージだけが頼りになる。
健たちが木の陰で気配を圧し殺している間に、護は道の真ん中に進み出た。