24
窓からの光がオレンジ色に変化しはじめた頃、護は目を覚ました。
昼食を抜いて、ずっと部屋にいたはじめは、椅子に座っていることが辛かったらしく、ベッド脇の、実の足元に腰を下ろしていたが、頭上の彼が、握っていた護の手を離し、腰を浮かせたのに気がついて、背を伸ばし振り返った。
「聞こえるか?」
静かな呼び掛けに、少しの間、ぼんやりしていた護が、ゆっくりと首を傾けた。
「……ミノル……」
「まだ苦しいか?」
彼の頭が、小さく一度、横に動いた。
「傷口を見せてもらうぞ」
毛布をまくって左腕を引き寄せたとき、はじめが立ち上がった。
それに気づいて、護が起き上がろうとする。
「動くんじゃない」
言われて、素直に従う。
力を抜いた彼の左腕の包帯を外して、傷の様子を見ていた実の、
「薬を取ってくる。起きるなよ」
という言葉にも、頷いただけだった。
部屋を出た実を目で追っていたはじめは、今度は実が座っていた椅子に移動した。
「邪魔じゃないかな?」
表情のない瞳が閉じられた。
首の、小さな横の動きに安堵する。
「夕べ、私に話があったということだったが、なんだったんだ?」
口元は動かない。
しかし、再び開いた瞳は、ゆっくりと移動して、右手とともにはじめの腰の辺りに向いた。
「……?」
静かにドアが開いた。
入ってきた実に、席を譲ろうと立ち上がりかけたが、
「構わない。座っていてくれ」
と言われてまた、腰をおろした。
「私の腰がどうかしたか?」
改めて聞き返すが、護は否定の意味で、首を動かしただけだ。
その合間に、実が薬を塗りながらクスッと笑う。
「腰、じゃなくて刀のことじゃないか?」
「刀?」
「謝罪したいようだぞ」
と代弁した実が、すかさず続ける。
「わかっているよ。そろそろ遮断するから。……怒るな」
やはり、たやすく入り込んでいるようだ。
すぐに呆れたため息が洩れた。
「だから、おまえがそうやって向けてくるんだろうが。少しは落ち着け」
やりきれない、というように、護が腕で顔を覆った。
「いいじゃないか。オレの意思でやったことだ。おまえが気にすることじゃない」
「……」
「迷惑だと思ったらやらないさ」
覆った腕の隙間から、護が実を見上げた。
「……本当に気にするな。患者に同調できる医者はオレくらいだぞ。能力を無駄にさせるなよ」
それは、実なりの励ましだったのだろう。
はじめは、二人を交互に見渡して、小さく息をついた。
自分では到底想像もつかないし、我慢できないだろう過去を持つ護を、実はあくまでも『患者』として扱ったことが、最大の優しさなのだと思う。
未だに、護は実に対して、罪悪感を抱えている。
負い目を持っている。
他言できない過去を持ちながら、それでも護は今、ここにいる……。
自分が同じ目にあっていたとしたら、即座に死を選んでいたかもしれない。
実のために生きてきた……。
その強さは、確かに健たちの中では最強なのかもしれない。
だが……その心がよそ見をした。
“健さんが落ち込むのも当然か……”
黙々と包帯を巻き終えた実は、表情を引き締めて言った。
「いいか。しばらくはこのままだ。熱がぶり返したら今度こそ放っておくからな。起きるなよ」
「……ありがとう」
弱々しい声に頷いて続けた。
「どうする? こいつと話すか?」
護が小さく頷く。
「なら待っていろ。飲み物を持ってくるから」
そういうと、ようやく実ははじめを伴って部屋を出た。
階段の途中で振り返る。
「さっきも言ったように、オレが何をしたか、おまえに何を話したかもあいつに言うなよ。何も覚えていないものを思い出させるような気配も見せるな」
「承知した」
キッチンで、夕子に温めの麦茶を用意してもらい、今度は実の付き添いもなく、はじめは護の部屋に戻った。
その際、志乃に散々、愚痴をこぼされた。
朝食のときに、稽古をつけてもらいたいと頼まれていた答えを、ずっと保留にしていたためだ。
結局、はじめは健が頷くままに明日、と答えた。
健が、いつまで自分をここに引き留めるつもりなのかはわからない。
あるいは明日だけで別れなければならないかもしれないが……。
もっとも、そのあとの説得ははじめの役割ではない。
そう思えば、安請け合いだとわかっても多少は気が楽である。
トレイをサイドテーブルに置く。
護は、右腕の力だけで半身を起こそうとした。
「いいのか?」
起きるなと言われていながら動く護に、口だけで確認しながらも手を貸す。
ヘッドボードを背もたれにして寄りかかる彼に、グラスを渡した。
「さっき、謝罪と言っていたな」
僅かな肯定に、はじめは肩をすくめて窓に視線を移した。
「健さんからも謝罪されたが、気にすることはない。私の腕が未熟だっただけだ」
「……違う……」
「そう思わせておいてくれないか。まだ上達できると思わなければ悔しいじゃないか」
「……悔しい……?」
ケガを負ったのはこちらのほうだというのに?
それでも負けたと思っているのか?
どうも、まだ頭がはっきりしない。
意地になっていたのは自分のほうだ。
……あの時、刀を折った勢いで、もう一押しするつもりだった。
殺意はなかったし、何より健との約束は、はじめの実力を確かめることであった。
刀を失った彼がどういう出方をするか、確認するつもりだったのだ。
だが、結局、傷の痛みで動けなかった……。
“約束を……守れたのか?”
健とのことを自問する。
現に、はじめはここにいる。
恐らく、何らかの話を健から聞いているはずだ。
しかし、その結果が健にとって満足できるものだったのだろうか?
もし、そうでなかったら?
あるいは今朝の光景は、健が自らはじめの実力を見るためだったのではないか?
護は、健がなぜはじめを選んで、なんの目的で接触したのかを知らない。
興味がないわけではなかったが、話せることならば、こちらから聞かなくても説明していただろう。
だから、一切事情を聞こうとはしなかった。
健の目的は果たせたのか?
“……目が回る……”
上体が揺れた護を、はじめが素早く支えた。
「やはりまだ無理だな。今日はやめておけ」
護は逆らわなかった。
横になって、目を閉じる。
消え入りそうなひっそりとした雰囲気を、はじめは改めて感じた。
存在していいはずのない命だと思い続けている、儚い雰囲気だ。
「少し寝ていなさい。明日も厄介になりそうだからな。慌てることはない」
返事はなかった。
はじめは、静かに部屋を出ると、一度キッチンに足を向けた。
そろそろ夕食の時間だろうと思ったのだが、そこにいたのは夕子だけだった。




