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隆宏は、自分の足元に腰を下ろしている志乃に、少しだけ言い方を考えて答えた。
「場所じゃないよ。二百年以上昔の時代のことなんだ。君も、言葉くらいは知っているだろう? 侍、という言葉」
それを、志乃は昔観たテレビか何かで覚えていたのだろう。
思い当たった記憶に、表情を緩めた。
「カタナ持って腹切るってやつか」
「極論を言うなぁ。まあ、間違ってはいないんだろうけれど。……その侍……武士の終わりの時代というところかな」
「ふうん。……それで、どっちって、どういうこと?」
志乃に、日本の歴史を説明するのは難しいことだ。
日本人ながらずっとスペインで育ってきた彼にすれば、母国は異郷でしかない。
困ったように息をつきながら、隆宏は高志に向き直った。
「ケンの性格を考えてみれば、もしものほうが興味の対象になるんじゃない?」
「……ということは……バクフ側か。確か、負けたのはそっちだよな?」
高志もまた、日本で育ってきたわけではない。
とりあえず、歴史はレイラーから教わっていたが、やはり彼らの仕事に直接関係があるわけではない、という方針から、さほど力をいれていたわけではないのだ。
この辺りは、日本で教育された健たちには遠く及ばない。
「当たり」
とはいえ、健の興味が単なる判官びいきという訳ではないだろう、とは思っている。
隆宏の想像範囲は、単に、今の政治体系の基盤になる明治政府を作った側には興味はないだろう、くらいだ。
そして当の隆宏自身、やはり興味を示すほど歴史にのめり込んだことがない。
ともかく、ここで彼ら相手に講義をするつもりはなかったから、まず、高志に尋ねた。
「戦争、というほどではないけれど内戦があった時代だ。危険だということくらいはわかるよね。君はどうする?」
高志は肩をすくめながら、考えるまでもないと即答した。
「やめておくよ。強制でないのなら行ってもつまらないだけだし。おまえは行くの?」
「オレも、興味はないんだけれど……」
曖昧に言葉を止めて、今度は絵里に向いた。
「君は?」
意味を含んでクスッと笑った彼女は、
「あんた次第よ」
と言った。
だが、これは夫婦だから行動を共にする、というありきたりの答えではなさそうだ。
「あ、あの……私は行ってもいいですか?」
遠慮がちな夕子の発言だった。
「安全な場所ではないんだよ?」
そう答えたのは目の前の隆宏ではなく、ベッドのほうで、最初の発言のあとずっと聞き役に回っていた健だった。
「わかっています」
と、彼女も健のほうに顔を振り向ける。
ずいぶん積極的だと感心した彼に、夕子は続けた。
「お世話をするひとが必要なのではないですか? まさか、お食事とか着替えのたびに戻ってくるわけではないですよね?」
どうやら彼女にも、滞在期間が短いものではないことはわかるらしい。
健は、彼らを守るためならばどこまでも完璧になれる。
しかし、自分のこととなるとどこかしら間が抜けているということを、改めて思い知った。
考えていなかったのだ。
健も護も、料理はできない。
思いもよらない進言に、健は護に確認をした。
彼が頷く。
「わかった。確かに助かるんだ」
「なあ、タカヒロ」
ふと、志乃が彼を見上げて首をかしげた。
「バクマツってとこに行くのはわかったけど、ユウコの言いようだとそこに滞在するってことにならないか?」
「そうだよ」
「見てくるだけじゃないわけ? ケン、そんなこと言ってなかったじゃないか」
口を挟んだのは絵里だった。
「バカね。はっきり言わなくてもわかるじゃない。それに、それらしいことなら言っていたわよ」
「ウソ……。聞き逃したってこと?」
そのつもりがなかっただけに、今までの会話を思い出そうとしている。
今度は、志乃の背後から実が言った。
「地下の設備は正常だ」
「? それが何?」
振り返った先には、実の人をバカにした口元があった。
「稼働させたから正常だとわかったんじゃないか。スタッフのやることはなんだよ?」
「下準備……。……そっか……。行ってるんだ……」
スタッフがそこに行ったところで、いつものように宿の手配ができるわけがない。
つまり、家を用意しているということだ。
だから滞在ということに繋がる……という結論か。
本当に、自信をなくすほどの以心伝心だ。
どんなにがんばっても、彼らの呼吸が掴めない。
落胆のため息をついた志乃に笑いかけながらも、健は一通り全員を見回した。
「それじゃ、行くのはユウコだけで……」
「オレは?」
「えっ?」
実が、じっと健を見ていた。
すかさず健の顔が逸れる。
「おまえは……やめたほうがいいよ」
「危険だから、というのか?」
夕子がよくて自分がダメだということはないだろう、そういう確認だ。
「そういうことじゃないんだ。おまえでは無理なんだよ」
「オレも同感だな。君はやめておいたほうがいいよ」
隆宏も同意する。
だが、二人の発言でかえって意地になったらしい。
「行くなという命令ではないんだろう?」
と、これは皮肉だ。
よほどのことがない限り、健は『命令』をしない。
当然、健は口ごもるしかなかった。
ただ、実には意固地になる理由があったのである。
「大体な、おまえの体を考えたら同行するしかないじゃないか。マモルだけでは役不足だ。トシかアキラが付き添うならともかく、任せられると思うのか?」
トシ、つまり小島利明も鶴野玲も、健の病名を知っている医者だ。
隆宏たちは、彼の病気の真相を知らない。
ただ、今年に入ってから行われた彼の集中治療で、重度の貧血だということを改めて教えられていただけだ。
だから、どの程度まで治っているかの判断は、未だ実たちしか下せないことも理解している。
しかし、小島も玲も、メンバーにとっては所詮、部外者のノーマルだ。
そうなると、実のことを考えて反対した口も閉ざすしかない。
「……それなら……オレも行こうか?」
仕方がない、という諦めを混ぜて高志が言った。
健も困惑したが、首を振る。
「興味がないのに無理をすることはないよ」
「それなら俺が付き合う」
元々そのつもりだったのか、志乃が手を挙げた。
しかし、それもまた、健には意外だったようだ。
「歴史をまったく知らないのに?」
「だから見たいんじゃないか。サムライってやつをさ」
滞在と接触、それならはるかに興味を持てる、ということだ。
歴史の流れを見てくるだけだと思っていた志乃は、だからそのときは積極的に発言しなかったのである。
もちろん、そういうことならと、健は彼の同行までを反対しなかった。
「わかった。君もいいよ。けれど……」
チラ、と隣の実を盗み見る。
いつものように、興味がないことを聞き流すと思っていたのだ。
今でさえ、ノーマルと付き合うことをしない彼が、時代を越えたところに行って外に出るとも思えない。
仮に、健の体を考えて一緒に動いたところで、なんの役にも立たないどころか、非社交的な彼はかえって邪魔でさえあるのに……。
困り果てたように深くため息をついたが、これはもう諦めるしかなかった。
もとより、彼らのわがままを健が突っぱねることなどできないのだ。
「ミノル、人との接触は避けられないんだ。何が起こるかわからないことを覚えていてくれないか」
「そんなことは承知しているさ」
事も無げに実は言うが、健はだからこそと重々しく首を振った。
「わかっていないじゃないか。本で得る知識とは違うんだ。相手の感情を、完全にシャットアウトできるのか、その覚悟を聞いているんだよ」
「……」
「行く?」
時代が、健にもう一度確認させたようなものだった。
他人の感情が入り込む実にとって、人の生死が身近にある時代に行くことがどれだけ危ういのかを知ってもらいたかったのである。
戦のど真ん中に飛び込むつもりはない。
だから、さほど危険な場所に行くわけではないが、やはり比べると、今の時代は平和なのだ。
先ほどまでの勢いはなくなったが、実は無言で頷いた。
「なら、ひとつ言っておくよ。オレはおまえにばかり構っていられない。誰かがおまえの変化を感じたらすぐに戻らせるからね」
一瞬、健を睨んだが、実は今度も渋々と頷いた。
「ケン、オレは行かないけれど……」
実のことは今でも反対ではあるが、とりあえず話が決まったところで隆宏が口を開いた。
「君にしてもマモルにしても、表面的な歴史しか知らないんだろう? こっちで調べて手助けできそうなことを知らせに行くようにするよ」
いくら興味がないと言っても、その手の連絡くらいは必要になるということだ。
隣の絵里が、彼の肩に手をかけた。
「そう言うと思ったわ。繋ぎ役をかってでるわよ」
つまり、先ほどの言葉は、隆宏の考えていたことを予想していた、ということだ。
これもまた以心伝心か、あるいは夫婦の呼吸、なのだろう。
健はその申し出には安堵した。
「よかった。ブレスレットは使えないから、定期的に戻る覚悟はしていたんだ」
「すぐに行くの?」
「いや、まだ。……マモル、あとどれくらいかかるかな?」
部屋に来てから一言も発していなかった護は、ずっと窓の緑を見つめていたが、呼び掛けに自分の左手を見下ろして、やがて隆宏に向き直った。
「手を、貸してくれ」
それは、隆宏に対しての、初めての頼み事だった。