19
時間を確認するためだけにはめているブレスレットを見下ろして、健は言った。
「そろそろ……限界かな」
キッチンでコーヒーを飲んでのんびり待っていた時間は一時間ほどか。
とうに食事の支度もできていた。
絵里や夕子と、同じテーブルで雑談をしていたのだ。
「助けに行ってあげたら?」
という絵里に、そうだね、と席を立つ。
「それにしても……」
彼女は、夕子と顔を見合わせて笑った。
「ミノルも今さらトレーニングをするとは思わなかったでしょうね」
「まあ、たまにはね」
「あ~あ。あたしも付き合えばよかったわ」
個人的な訓練をしていた頃の成績は、絵里の場合、むしろ実にも匹敵する運動能力があった。
腕力では敵わなくとも、技術は高志に次いでいたくらいだ。
「この時代では、女性は淑やかなものらしいよ」
と、健に水をさされても気にする性格でもない。
「まっぴらよ」
そこが、夕子と逆なところだ。
早く行きなさいとばかりに、彼女は健を追い出した。
リビングから庭に出ると、向こうの木の根本に実が座り込んでいた。
志乃にいたっては、はじめの足元に、大の字になって倒れている。
「どう? 少しは役にたった?」
はじめは苦笑混じりに頭をかいた。
「根性は認めるが……それだけではな」
「使いものにならなかったわけ?」
二人に目を向け、首を振る。
「いい運動をさせてもらったとしておこう。おかげで酒も抜けた」
実際、髪がうっすら湿るほど汗をかいていたようだ。
「実さんは柔術もできるのかね? 正直な動きだ。志乃さんはまるでなってなかったが」
「ふうん。……よかったね、ミノル」
疲れきって荒い呼吸をしていた実は、億劫そうに立ち上がった。
「こんなことで誉められても喜べるか。……まったく、遠慮なく投げ飛ばしてくれたな」
軽くあしらわれたようなものだった。
正直な動きだといわれても、柔道や空手などを正式に習ったわけではない。
あくまでも護身と、それに伴う攻撃を訓練してきただけだ。
しかも、武器を携帯した動きを教え込まれていた彼にすれば、体ひとつでまともに相手ができるはずもない。
「ケン、おまえは丸腰のまま相手ができる訓練をしていたんだろう?」
「? え? ……おまえは?」
服の埃を払って、実はまだ倒れている志乃の腕を思いきり引き上げた。
「どうもいおかしいと思っていたんだ。レイラーはわざと、カリキュラムを変えていたらしい」
今、思い返せば、レイラー・美鈴千春の言動は、見当違いの優しさだったのだ。
マニュアルでは素手での攻撃、防御を示していたにも関わらず、実には必ず武器を持たせながら訓練させていた。
今でも記憶に残っているのは、彼女の、ある意味実をバカにした言葉である。
要するに、レイラーは実に対して、メンバーに守ってもらえばいい、と考えていたことになる。
それが彼のプライドをどれだけ傷つけるか、彼女は死ぬまで理解できなかったのだ。
まるで物を扱うように、軽々とあしらわれていたにも関わらず、実はようやく納得したとばかりに空を仰いだ。
「戻ったら課題にしてみるか。今さらかもしれないが」
その前向きな姿勢に驚いたものの、健は穏やかに微笑んだ。
自分の境遇に無頓着な実は、今までどれだけケガをしようが、自身のことを真剣には考えていなかった。
それが、悔しさを原動力にしたわけではないものの、少なくとも敵わなかったという現実を直視したのである。
喜ばしい心境の変化だろう。
実とはじめがさっさと家の中に入っていく後ろでは、志乃が、
「見えてたのになぁ……」
と、身体中が痛むのか、ぎこちない動きであとに続いた。
「マモルほど速くなかったんだぜ。あいつ……。なのに動けなかった。……なんで?」
それは、健ならば確実な答えを知っているかのような問いかけだった。
実際、彼は考え込むことなく答えた。
「気迫の違いじゃない?」
「気迫ならマモルにだって……」
「あると思う? 彼はいつも自然体だよ。オレが言う気迫と言うのはね、相手を威圧する精神力のこと。他人を抑えるのに腕付くだけが手段じゃないからね」
「なるほどなぁ」
片手で腰を、もう片方の手で腿を支えながら、一歩ずつ足を動かしていた志乃だが、はたと立ち止まると、
「なぁ、ケン」
と、呼び止めた。
振り返った彼に詰め寄る。
「俺、はじめから格闘術を習ってもいいかい? 時間かかるかもしれないけど、強くなりたいんだ」
あと二日ほどで元のところに戻ることを志乃は知らない。
そして、そのあとはいつこちらに戻れるかもだ。
「構わないよ」
いつもの、そして発病する前よりもはるかに大きく包み込むようになった、優しい声だった。
メンバーと合流してからついてしまった口癖だ。
『構わないよ』という一言は、夕べはじめが言った言葉がまさに的を射ていた証明でもある。
メンバーは何をしてもいい、。
健のたった一言の中には、果てのない自由が含まれているのだ。
このままキッチンにはいるかと思った健だが、どうやら三人とも、入浴を優先するようだ。
結局、彼だけがキッチンに戻った。
中では、ずっと朝食がお預けになっている二人が、会話もなく待っていた。
「さすがにお腹がすいたわよ~。ミノルたちはまだ続けているの?」
「いや、バスルームに入っていったよ」
「このままではお昼になるわよ。先に食べちゃだめ?」
健は、今になって気づいたように、苦笑を含めて手を差し出した。
「ごめんね。遠慮なく食べていてくれよ」
「あんたは?」
「彼らを待っているから……」
語尾が、少しずつ弱くなった。
絵里に睨まれたのだ。
彼は慌てて言い足した。
「だ、大丈夫。ちゃんと食べるから」
メンバーが油断をしていると、彼は朝食すら簡単に抜いてしまう。
先程も絵里から怒られたばかりだ。
彼女は、一度は蒸し返そうとした小言を、ため息をつくことで止めた。
空腹に勝てなかったらしい。




