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残ったはじめは、勝手の違う世界で何もできないことを自覚しながらも、テーブルに乗っていた水の入った容器に自分の手拭いを突っ込んで絞ると、護の額に乗せた。
その上で、胸元を緩めるために、強引にシャツを左右に引っ張った。
ボタンが弾け飛んだが、それがなんであったのかも頭にはなく、テーブルにあった、護が先ほどまで飲んでいた黒い液体を手にとると、護の頬を軽く叩いた。
「藤下さん、目を開けなさい。……藤……護さん、しっかりしろ」
何度かの呼び掛けて、護の目が、薄く開く。
「飲みなさい」
意識がはっきりしないらしく、口元にグラスを近づけられても動かない。
「護さん、聞こえるか?」
このままでは、また意識を失う。
はじめはグラスに目を落とすと、咄嗟に自分の口に含んだ。
“……っ……苦い……”
これは薬だったのか。
だとしたら、尚更飲ませなければならない。
はじめは、護の体を抱き上げると口移しで液体を流し込んだ。
しかし、すべてが横から流れてしまう。
「護さん、少しでもいい。飲みなさい」
もう一度、同じことを繰り返す。
そのとき、真っ先に飛び込んで来たのは志乃だった。
目の前の光景に、つんのめるように足を崩す。
「なっ、何やってるんだよ! あんた!」
志乃にしてみれば、はじめの背中しか見えなかったからだろう。
抱き締めて、キスをしているようにしか映らなかった。
こんなときに、と引き離そうとした彼の肩を、あとから来た健が抑える。
最後に入ってきた実は、慌てる様子もなくソファの背後に近づくと、はじめが離れるのを待って覗きこんだ。
「飲んだか?」
口元を拭いながら、はじめが首を振る。
「だめだ」
「そうか」
漏れでたコーヒーは、すべてソファに染み込んでしまっていた。
「普通に食事をしていたから気にも留めなかったが……」
と、はじめはグラスを目の高さに掲げて、すまん、と言った。
「薬を無駄にしてしまったようだ」
この時代、まだまだ薬は高価なものだ。
町民や農民の中では、医者にかかること自体、できずにいるもののほうが多い。
薬は貴重なものだった。
実は一瞬、目を丸くしたが、クスッと笑って、
「それ、薬じゃないぞ」
「違うのか?」
グラスを抜き取り、残りのコーヒーを飲み干すと、実は顔を上げた。
「シノ」
先ほどの光景が自分の勘違いだとわかった志乃は、ばつが悪そうにはじめに謝ると、護を抱き上げてそのまま出ていった。
実は目で追っていたが、またはじめを見下ろして聞いた。
「あいつ、少しは話をしたのか?」
「いや。まったく」
「……一体、何をしたかったのか……。本当に手間のかかる奴だよ。……なんにしても今日は無理だ。はじめ、明日になったら一度、顔を見せてやってくれ」
それは、たとえ無駄ではあっても護に『薬』をのませようとしてくれたはじめへの、実なりの礼の言葉だったかもしれない。
敵意も殺意もない。
かといって、親近感すら感じなかったが、仲間を心配し、気遣う思いは伝わった。
はじめはにっこりと笑った。
「伺わせていただくよ。ともかく、護さんのところに行ってあげなさい」
仲間に対する思いは、誰もが変わらないようだ。
実はもう関心を持たずに部屋を出ていった。
入り口のところに立っていた健の肩を、すれちがいざまに叩いて、二階に上がっていく。
護を寝かせていたソファに戻った健は、やはり元の席についたはじめに、
「ありがとう」
と微笑んだ。
その、寂しげにも見える口元に、はじめが安堵してグラスを取り上げる。
まるで、コーヒーの苦味を消すかのように酒を飲み干し、独り言のように呟く。
「無謀なひとだ。あの人は……」
「無謀、ではありませんよ。彼はそう思っていません。当たり前のことだと考えているはずです」
「当たり前? 無理をすることが、か?」
問い返されて、健から微笑みが消えた。
「あなたに……頼みたいことがあります。聞いていただけませんか?」
答えを避けて切り出した彼に、はじめは首をかしげながらも頷いた。
「伺おうか」
「……先ほど申し上げたとおり、オレにとってあなたは歴史上の人物だ。あなたの人生を見つけ、調べた。色々な時代、様々な有名人……取るに足らない人生や重い責任を担った人……その中で、オレの条件に合った人はあなたしかいなかった。あなたを取り巻く人たちがオレには必要だった……」
「私を……取り巻く……?」
「お願いします。あなたのこの先の生きざまをマモルに見せてあげてください」
「? ……」
さっぱりわからない。
生きざまと言われても、今はなんの禄もない次男坊の自分のなにを見せろというのか。
「すまないが……私には君がなにを言いたいのか、意図がさっぱりわからないのだが? これでは安易に請け負うこともできないよ?」
請け負うどころか、なにを迷惑なことを頼んでくれるんだ、という思いも、恐らくははじめの声に含まれて聞こえただろう。
健の瞳が一瞬、冷たく相手を捉えた。
そこには情けなさも、弱々しさもなくむしろ、人を見下すようにも見えた。
ただ、それは僅かなことで、健は日本酒のボトルを取り上げるとはじめに勧めて目を伏せた。
「あなたにも経験はあるでしょう。歴史とは語り継がれていくものだ。けれど時が経つうちに曖昧になる部分もあります。伝えられなかったこともあるはず……。結局、どれだけ調べてもそれがすべて真実だとは言えない。あなたがどういう想いで今を生きて、最期に至るのか……。それはあなたにしかわからないことだ。ならば直接見せるしかないでしょう」
「だから、なぜ私なんだ?」
「条件に敵うひとがあなただと言ったはずだ」
「君が勝手に私を判断したのだろう? 私の知らぬところで、身勝手に私を選び出したということじゃないか」
「そういうことになりますね」
と、冷たく言い放つ。
「元々、オレは身勝手な人間だ。改まっていわれることじゃない」
「……」
はじめは一瞬、呆気にとられたように、口元に持っていったグラスを止めたが、
「白木さん」
と、そのままわざと、姓で呼んだ。
一口含んで、グラスをテーブルに戻す。
「生憎、といえばいいのだろうな。私は、安っぽい挑発に乗るほど、他人に関心を持っているわけじゃ、ないんだよ。どういうつもりかは知らないが、理由を話してくれなければ安易に引き受けられないと言っただろう。それとも逆に、引き受けると言わなければ理由は言えないか?」
「挑発……ですか。そう、聞こえたんだ……」
バカバカしいことを考えるものだ。
健はそう思った。
意味のないことではないか。
こちらは、はじめに頼む立場だ。
だから聞かれたことに対して答えただけのこと。
一切の嘘はないし、目の前の相手をバカにしたつもりもない。
しかし……。
健は呟きと同時に微かに笑った。
あるいは、そう思われても仕方がない本音が滲み出ていたか……。
もしそうだとしたら、はじめの洞察力に感心すべきだろう。
「はじめさん」
弱々しく目を伏せて、健はかろうじて聞こえるほど声を細めた。
「もし……オレの言葉で気を悪くしたのなら謝ります。けれど……誤解はしないでください。確かに、一方的な解釈であなたを測っています。それこそ身勝手な理由で……」
「……」
「本音を言えば、オレは歴史には興味がない。誰の人生も、どうでもいいことなんだ。あなたの生き方も将来も、本来は目に留めることはなかった。関心を示さなければならなかった理由があるからあなたに会った。本当に、それだけのことです。誰でもよかったわけじゃない。あなたでなければならなかったんだ。その目的は、あなたにすべてを話すことで引き受けてくれると……信じてもいいですか?」
諦めに似たため息が洩れた。
そして、どこか決意を含めたように健の顔が上がる。
「繰り返しますが、オレの頼みごとはあなたでなければならなかった。マモルにとって……。そして、あなたに関わる人物がオレには必要なんです」
「それは……誰なんだ?」
やっと質問ができた、という尋ねかただった。
自分に関わる人物に思い当たりがないはじめには、先ほどの健の言葉……未来という一言が重なり、今後の自分の人生を左右するほどの人物が現れるのか、と暗に聞いている。
健は、情けないほど優しく微笑んだ。
「今は言わないほうがいいんでしょう。事実、今……問題なのはマモルのことなんですから。話すことで引き受けてくれるかどうかはあなたの判断に任せるしかない。けれど、ひとつだけ信じてください。これから先、オレはあなたに一切の嘘はつかない。だから……おかしな邪推はしないでください」
はじめの口元が緩んだ。
喉の奥で、小さな笑いが洩れる。
「私の判断……か。まあ、いい。話してください」




