10
彼は、実がここにいるとは思わなかったらしく、気にしながら健の隣に座った。
食事のとき以上に顔色が悪くなっていることにも気づかないのか、健がかまわず続ける。
「はじめさん、少しのあいだ、動かないでいただけますか?」
「? ……ああ……」
言われたとおり、はじめはグラスをテーブルに置くと背筋を伸ばした。
途端、唐突に実に抱き締められた。
「なっ……」
「動かないで」
咄嗟に引き離そうとした手が、健の一言で止まる。
しかし、動きたくとも実の力は思ったよりも強く、また、いきなりのことで動けなかったと言ったほうがいい。
髪に、実の指が滑り込んでくる。
背中に回った手は、まるで何かを掴もうとしているように締め付けてくる。
肩口に埋められた口元や、息づかいは感じない。
護が、見ていられないとでもいうように顔を逸らすのが目の隅に映った。
しばらくの間、誰も口を開かなかったが、やがてゆっくりと離れ、実は立ち上がった。
「大丈夫か?」
健の問いかけに、彼は直前の感触を確かめるように自分の体を抱き込んだが、
「まあな。所詮はノーマルだ」
そう言った。
あとは自分の中で整理をするだけだ。
実は、もう誰にも関心を向けずに部屋を出ていった。
結局、自分で用意したジュースに手をつけることはなかった。
もう、何をどう驚いたり呆れたりしていいのかがわからなくなったはじめは、自分の体に残った実の体温の余韻に、深く息を吐いた。
「……そろそろ……種明かしをしてもらえないか? 頭が混乱してしまいそうだ」
本当に、狐か狸に化かされているような気がする。
このような中で、健たちにも僅かな緊張があったのか、彼ははじめの言葉に、
「そうですね」
と表情を緩め、護に言った。
「マモル、はじめさんに言いたいことがあるって?」
実の姿を避け、窓の方を見ていた彼は、ゆるゆると視線を健に戻したが、答えはなくテーブルのコーヒーを取り上げた。
それはいつもの彼の姿だ。
だから健は、僅かにグラスを持った彼の右手が震えていたことにも気づかなかった。
あるいは、言いたいことではなく、健との約束が果たせたかどうかを見届けるつもりかもしれないと判断して、健はそれ以上声をかけようとはしなかった。
“おまえは立派に約束を果たしたんだよ”
健がはじめに口を開いた。
「シノと……エリからなにか聞きましたか?」
「……聞いたが、結局君に聞けとしか言われなかったよ」
「この家をどう思います?」
はじめは、改めて酒に口をつけながら部屋を見回す。
「万里村さんはスペインから来たと言っていた。異国文化ならば、初めて見るのも当然だな」
健の口元が柔らかく緩む。
「それが……とりあえずは自然な考え方でしょうね」
「もちろん、すべて納得できはしないが」
それは、どう見ても健たちが日本人としか見えないからだ。
外人には日本語は通じない。
そのための通訳がいることくらい、はじめも知っている。
表面的にいえば、そういう些細な部分で納得はできないらしい。
納得できなくて当然だ、と健は言った。
「けれど、はじめさん、納得するかしないかは、あなたにとってさほど重要なことじゃない。大事なのは、この現実をどう受け止めるかだ。……いきなりあなたの前に姿を現して、勝手なことを押し付けてしまいますが……今は、今だけは誰にも話さないでください」
クスッという含み笑いが聞こえた。
「話せることだと思っていないよ。誰も信じちゃくれまい。むしろ夢を見ている……化かされている……私自身がそう考えているからね」
「そうですね。そう思っていてください。オレたちは……」
と、一度部屋を見回す。
「五日後にはこの時代から消える。この家も、初めからなかったように処理します」
「……ケン?」
初耳だった護が弱々しく問いかけた。
健が、小さく頷く。
「指輪の不備が見つかったんだ。最初からやりなおし」
それが、護にとって納得できる決定だったのかは、表情で伺うことができなかった。
しかし、俯いた彼が、自分の左手を見下ろしていると気がついた健は、優しく謝ったのだ。
「ケガまでさせたのにすまない。もし、彼に言いたいことがあるのなら、今のうちにしてくれないか?」
「戻る……つもりはないと?」
「わからない。今度はいつになるのか……」
健は、護の様子を伺ったが、口を開く気配がないとわかると、はじめに話を向けた。
「夢と思うのならばそれもいいでしょう。ならば、その夢を記憶にだけとどめておいてほしい。オレたちは……あなた方が作り上げた未来の現実なのだ、と」
「み……未来?」
突然の、スケールの大きな言葉に、はじめの手が止まった。
「そう。何年、何十年……そんな短い先じゃない。あなたは、オレにとって歴史上の人物なんだ。あなたの人生を、ある程度までは調べてきました。だからこそ……あなたに会いたかった。会わなければ……ならなかった……」
「人……生……。まさかそれを私に伝えにきたと?」
夢にしては突拍子のないことである。
半信半疑のはじめには、現実として受け入れきれず、夢に逃げることもできずに困惑するしかなかっただろう。
健は小さく首を振った。
「そんなことに意味はありません」
「だが、最初に君は話があると言った」
「話はあります」
健は、それこそここに来た目的だと呟いた。
ただ、この先の話を、護の前でするわけにはいかない。
「マモル、すまないが話がないのなら部屋にもどってくれないか? 込み入った話をしなければならないんだよ」
「……え?」
聞いていなかったのか、護が僅かに顔を上げた。
そこには細かい汗が浮いている。
目がどこかぼんやりとしていた。
「マモル?」
やはり、戻らなければならないことがショックだったか。
一週間近く、ずっと神経を使っていたのだから当然だろう。
一気に気が抜けたような感じにも見えたが、彼は、呼び掛けに答える代わりに、ひどくゆっくりと体を前に倒した。
「おい!」
慌てて健が支えたのと、はじめが立ち上がりざまに身を乗り出したのは、ほとんど同時だった。
二人に支えられて、かろうじて倒れ込むことはなかったが、そのときにはすでに、護の意識はなくなっていた。
「急に……どう……」
「白木さん、熱があるようだが?」
額に手を当てると、ひどく熱い。
健は、護をそのままソファに寝かせると、急いで部屋を飛び出していった。




