レット15 彼女のことを
ぱたん、と扉の閉まる音を聞きながら、レットは小さく嘆息する。
あとでヒュムの誤解を解いておかないと、とレットが心の中で思っていると、名前を呼ばれた。
イルナがレットを手招きしている。
そうだ、ヒュムのことはひとまずどうでもいい。まずはホークの行方だ。
「ごめん」
レットが足早に近寄ると、イルナがミアとレット、双方を紹介してくれた。
「初めまして。商人トーリオ・イリコルアの息子、レットです」
「ミアです。イルナが大変お世話になりました」
レットの挨拶に、ミアが礼を返す。
「あ、いえいえ、そんな……」
レットは頭を掻きながら恐縮する。
「わたしは真視の能力を失ってから山を下りました。けれどイルナはまだ最後の能力を失っていない。その状態で村を出ることがどれほど大変なことか、理解していないのです」
「ねえミア、さっきから何を言ってるの? そりゃあ村を出るまでは色々あったけど、そのあとは別に大変じゃなかったよ」
「イルナ、それはあなたの思い違いです。食料の調達も、馬の手配も、追っ手に見つかりにくい道の選択も、この街での滞在場所も、全てレットに任せていたのではない? 何かひとつでもあなた自身で行ったのかしら?」
「え……で、でも、それは……。わたし、よくわからないし……」
イルナが目を泳がせながら答える。
「そんなのいいんです。別に大した手間じゃないし、俺ひとりでもやらないといけないことだから」
「イルナ、あなたの幸運はレットのような人と巡り会えたことに尽きます。けれどその幸運でさえも、あなたを完全に救うことはできない」
レットの言葉に首を小さく左右に振ったミアは、眉をしかめて告げた。
「なにが言いたいの? ミア」
「あなたは既に気づいているはずです。イルナ、今は、あなたが感じている違和感が大きくなる前に村に戻りなさい。時期が来れば必ず人をやります。あの抜け道はもう男衆に知られてしまって使えないかもしれないけれど、なんとかして村を出られるよう手配しましょう。だから……」
違和感?
と首を捻ったレットがイルナの様子を窺うと、険しい表情を浮かべたイルナは言い返すことなく唇を噛み俯いている。
ミアの言うことに、思い当たる節があるということだろう。
場に沈黙が落ちる。
「……えーっと、その、違和感って?」
レットはおそるおそる口を開いた。
「なんでもない」
勢いよく顔を上げたイルナが強い口調で言う。
「なんでもない、ってことはないだろ」
「大丈夫だもの」
「でもさ……」
「大丈夫だって、言ってるでしょう! ――っ!!」
突然、くらりとイルナの体が傾いだ。
「イルナ!」
レットが慌ててその体を抱きとめると、イルナはくたりとその身をレットの胸に預けてくる。
「どうしたんだよ? 大丈夫――じゃないよな?」
その顔面は真っ青で、唇が微かに震えている。
「部屋へ運びましょう」
ミアはまるでこうなることがわかっていたかのように、落ち着いた足取りで歩きながらレットを促す。レットに異論はない。ふわりとイルナを抱き上げると、早足でミアのあとに続いた。
「真視の乙女は目に見えないいくつもの鎖につながれているのです」
寝台で眠るイルナの手をそっと握ったまま、ミアがぽつりと呟いた。
「鎖って……男衆の見張りとか?」
「それだけではありません。真視の能力は、その保有者の生命力を削るものなのです。ですから、乙女たちは中心にある泉の水――銀水を毎日必ず飲みます。それが能力者の生命力を補ってくれるのです。逆に、銀水を飲まなければ、能力者は生命力を削られ――やがて死に至ります」
「死!? このまま村へ戻らなかったら、イルナは死ぬってことですか?」
ミアの後ろに立っていたレットが、驚きのあまり声を荒げた。ミアの目に声の大きさを咎める色が浮かんでいることに気づき、慌てて口を押さえる。
「そうです。今日明日どうこうなるというほど急激な変化はありませんが、泉の水を飲まずに過ごせるのは、長くてもひと月」
「ひと月、って……」
村を出て既に八日が経過している。レットは横たわるイルナの顔を見た。ここへ来る前、顔色が悪いと感じたのは気のせいではなかったということだ。
レットは唇を噛んだ。
もっと気をつけて見ていれば、倒れる前になんとかできたかもしれない。
けれど――。
その可能性が低いだろうこともわかっていた。
レットはなにも知らない。
真視の能力のことも、白豆栗鼠のことも、巷で有名だというアーキュナスのことも。
そんな自分に、イルナが全てを話してくれるとは思えなかった。
知らなければ満足に問うこともできず、知ることができなければ大事なことを見逃してしまうこともある。
「ミアさん、お願いがあるんです」
「イルナの恩人の居場所を占ってほしい、ということ以外に?」
「はい。俺に、真視の乙女のこと――イルナのことを、教えてくれませんか? お願いします」
レットはミアに向かって、めいっぱい頭を下げた。




