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常世の長鳴き鳥  作者: pinkmint
8/10

その8 罪と罰

 アミーナは左右へと身を引いた男たちの中を早足で広間中央へと歩み寄った。そして少年兵の前に座り込んで、その頬に両手を添え、囁きかけた。


「どうかそのまま、最後まで話してください。ただ、知りたいのです。夫の身はいまどこにあるのですか」


 少年兵の目に一瞬生気が戻った。アミーナの涙に満ちた美しい瞳を見ながら、詩でも綴るように少年兵は言った。

「あたりに、死が、満ちたのち、自分も意識を失い、目覚めれば、目の前にはたき火が燃え、そこは知らない景色で、丈高い岩々に囲まれた空間で、黒い影たちが何かを埋め、砂を盛り、塚を築き、花を添え、香油をまき、歌が、あたりに……」

「歌? どのような歌が」アミーナはひしと少年の目を見ながら問うた。少年兵はかすれた声で、宙を見ながら口ずさんだ。


「まことの幸せはどこにある……まことの幸せは砂の上に、川の中に、砂漠の楼閣のあの方の心の中に。……ラキード・イル・スルヤ……ハビール・イル・スルヤ……」


 アミーナは目を閉じて口元で手を合わせた。


「その、のち、老戦士のひとりに手紙を、渡され、駱駝を渡され、国へ、国へ帰れと…… ああ、わが、都、バッシャール……永遠なれ……」

 そこまで言うと、くっと喉を鳴らし、身体を逸らせて、少年兵はそれなり倒れ伏した。


 アミーナは握っていた少年兵の手を重ねて彼の胸の上に置いた。

 王は人垣の後ろに立っていた宮廷医のサダムを手招きした。白い布で頭髪を包み込んだ初老の医師は小走りに歩み寄り、少年兵の脈をとると目をのぞいた。そして王を振り返り、首を振った。


「終わりか」

 

 王は青い顔で椅子に背を預けると、上を向いて長い息を吐いた。


「これで。……これで、何もかも終わりだというのか」


「まだ終わりではありませぬ、兵もまだまだおります。第二陣を」側らの大臣が急くように声をかけた。

「息子たちは帰ってこぬ!」王はいきなり雄叫びをあげた。

「これは呪われた戦いだ。なぜ王家を継ぐ二人の王子がこの戦いのさなかで相打ちになどなるのだ? この子どもの他に誰も伝えに帰ってくることさえできぬのか。戦場に残った死霊とは何だ。ゴランと王子はなぜ戦った。

 得たものは一つもない、だが失ったものの数はわかる。わしの二人の息子、朋友ゴラン、バッシャールの精鋭、その妻と子の家庭、そして……」

 突然言葉を切ると、王は目を横に向けた。

 つわりがひどく自室で静養していたはずのマティヤが脇の扉を開け、ふらつきながら歩み寄ってきた。


「夫は、なぜ死んだのです」切り裂くような声でマティヤは叫んだ。「相打ちとはどういうことなのですか!」


「マティヤ様、御身に触ります、まだ詳しいことは何も」マティヤ付の召使頭が駆け寄ってマティヤを押しとどめた。

「今わたくしはこの耳で聞いたわ。相打ちということは、夫ハビールはラキード殿下に殺されたと、そういうことですか」マティヤはなおも叫んだ。

「お姉さま、わたくしたちはまだ何も見ていません。まだ何も失われてはいませんわ、信じてはいけません」アミーナは悲痛な声を上げた。妹の蒼白ながらも美しい顔を睨むと、マティヤはかすかに膨らんだおのれの腹に手を添えながら言った。

「ラキード殿下は夫を憎んでいたわ。わたくしにはわかる。いつかこうなるんじゃないかと思っていたのよ」

「そんな、なぜ……」

「あのひとが愛していたのはあなただわ、アミーナ。みすぼらしいわたくしなどどうでもよかったのよ。それを知っていたから、ラキード殿下も夫を憎んだのです!」

「そんなことはありません、わたくしとハビール殿下の間には何もありません。わたくしが愛しているのは夫だけです。だから、だから天もこの身の内に愛のあかしに命をお与えくださったのですわ」


「なんといった?」


 王は腰を浮かせて言った。マティヤは妹の顔から眼をそらさなかったが、その瞳には冷たく青い炎が燃えていた。アミーナもやはり自分の腹に無意識に手を添えたまま、姉を見返した。

「説明せよ、アミーナ。その腹の中に赤子がいると、そういうことか」

 アミーナは正面から王の瞳を見据えると、きっぱりと言った。

「はい。お国の大事な時ですし、夫が帰還し、勝利をおさめてから公にすればいいと思っておりました。けれどこのようなことになっては、もう隠す理由がありません」

「……」王は口元に手を持っていくと次に首をめぐらせ

「サダム、診断したのはお前か」宮廷医を指さして問うた。

 初老の医師は狼狽した様子だったが、覚悟したように口を開いた。

「はい、わたくしでございます」

「間違いないのか」

「ま、間違いはございません」ちらりとマティヤのほうを見ながら、サダムは続けた。「けれど、蛮族の討伐が終わるまでは内々にしておきたいとのアミーナ様のお話で、わたくしの胸に収めておきました。王へのご報告が遅れ、まことに申しわけございません」

 アミーナの瞳からは、せきを切ったように涙がほろほろと零れ落ちた。

 だが凍った王の瞳に喜びの色はなく、次にその口から発せられた言葉は信じがたいものだった。


「誰の子だ」


 周囲はどよめいた。

「王、なんということをおっしゃいます」「ラキード殿下の魂に対してもそれはあまりなお言葉」側近が口ぐちに抗議の声をあげた。王は音を立てて椅子から立ち上がり、床に膝をついて茫然と王を見上げるアミーナを見下ろした。王の全身からは声にならない憤怒がわきあがっていた。周囲の者は異様な空気に思わず口を閉じた。

 アミーナは王の瞳を見上げ、はっきりと言った。


「もちろん、天が定めたただ一人の人、わが夫の子です」


 王は眉間に深い皺をよせると、低い声で言った。

「では神の子を身ごもったと、そういうことか」

「お義父さま、なぜ、……なぜそのようなことをおっしゃるのでしょうか」アミーナは身を震わせながら問うた。

「妻は永遠の処女だと。自分などの手の届かぬところで、きっと神に愛されて神の子を身ごもることだろうと、ラキードはそう言っていた。そして苦しんでいた、お前のせいで。お前たちは本当の夫婦になってはいない、わしはそれを息子からこの耳で聞いたのだ」

「……?」

 アミーナはただ訳が分からぬという風情で言葉を見失っていた。冷たい絶望の燃える瞳で妹を睨みながら、マティヤは言った。

「わたくしも存じております。妹、アミーナはひと夜たりとも夫と床をともにしてはいないと、わたくしに打ち明けました。子が宿ったというならばそれは」

「おまえはハビールを疑っているのか」王は言葉を被せた。

「いいえ、いいえ、夫は心からこの妹に恋い焦がれておりましたが、ただ絵を描き、詩を捧げ、思い悩むばかりでございました。思いを遂げていたならどうしてあんなに苦しみ続けるでしょう。胎内の子の父親が誰かは神のみが知るところですわ」

「おそれながら、アミーナ様のお姿が描かれ、恋歌を添えたお手紙で結ばれた花束が、アミーナ様の寝室に投げ込まれたことがございます」アミーナの召使が言葉を添えた。

「わたくしは見ていません」アミーナは即座に返した。

「もちろんお目に届かない場にラキード様がお隠しになったからですわ。お相手は大臣か側近の誰かであろうと殿下はおっしゃっておられました。お気の毒に、どれほど苦しまれたことか」

 今や場の空気の流れは一方的だった。そして、アミーナに恭しく仕えていた者たちまでが、早くも自分たちの利を考え勝算のあるほうにおもねり始めたのは明らかだった。

 王は首を振ると、両手を上げて周りのものを制止した。そして重々しく言い放った。


「もうよい。聖女の顔をした娼婦(アーヘラ)、偽りの妃を東の塔に連れていき、監禁せよ!」


「お義父様、誤解です。わたくしの愛する人は夫一人です。どうかそれだけは信じてくださいませ!」

 

 懸命に叫ぶアミーナはその両腕を警備兵にしっかりとつかまれて力づくで立たされた。

 哀れな若妻に背を向けたまま、王は付け足した。


「今日ここに集うものたちが耳にしたすべては、公の通達となり公表されるまで外に漏れだしてはならぬ。一筋でも外部のものの耳に入ったならば、そのときは全体責任とする。この意味は分かるな。

 姦通の相手はこの場にいる誰かかもしれぬ。この世で最もむごい罰が待っていると心得よ!」


 一同は声もなく凍り付いた。



 足音も荒く自室に戻ると、あたりに響き渡る音で扉を閉め、王は大理石のテーブルに両手をつき、首を垂れた。


 自分は呪われているのか。

 ……何故同じことが繰り返される。

 

 王妃アイシアに裏切られたときのあの怒りと屈辱が、形を変えて再びこの身に降りかかるとは。

 聖女のような風貌、誰もが憧れる美しさ。そしてこの結末。いったいどうしてこのようなことが繰り返されるのだ。いったい、なぜ?

 だがそのとき、長いこと掘り起こさずに来た苦い記憶は、正視したとたんまるで矢をつがえるように、王の傷の中心めがけて別の問いを放って来た。


 ……自分はあのとき、妻アイシアの罪を信じたか。少しのほころびもなく、余さず彼女の罪を信じたのか?


 息子、ラキードは懸命に母親の命乞いをした。母親は無理やり酷い目に遭わされたと繰り返し言った。ゴランは自分の影武者が実は王妃と密通していたと言ってそいつの首を切って寄越した。

 ディディの族長は国の安定のためにも失うことのできぬ朋友だ。そしてこの国では、姦通の罪と罰は女のほうが重い。身分は関係ない。罰を与えるのは夫たるもの、王たるものの務めだ。……だが。

 自分はもしかしたら、王としての自分にとって都合のいい方向に傾いただけではなかったか。滅ぼした国の王族の娘の潔白を信じ慈悲を垂れることを、臣下に向けて恥じたのではなかったか。


 アイシアは本当にそのような女であったか? 本心から、そう思うのか? 

 助けたいと少しも思わなかったか?

 本当は……

 本当のところは……


 酒棚から度数の高い酒を取り出し口をつけようとしたハイサムは、ふとそれがあの日ラキードと酌み交わした酒だと気づいた。

 ハイサムは力なく座り込むと、アイシアと瓜二つの息子たちの美しい面影を瞼に浮かべ、獣のような声で低く唸ると、酒瓶を床にたたきつけ、両手で顔を覆った。



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