その7 戻ってきた者
「ゴラン殿。王子がご帰還です!」
テントの外で見張りをしていた少年兵に声をかけられて、ゴランは飛び上がるように絨毯から身を起こすと、テントの幕をはね上げて外に出た。
ラキードの率いる偵察隊が出発し、ハビールが後をつけて三日。何の連絡もなく日々だけが過ぎていたのだ。
夜明け前の空は、地平近くに虹色のグラデーションを広げながらも、頭上はまだまだ暗い。切り落とした爪のような三日月が天空にかかるその下を、マントと顔に巻いた水色のスカーフをはためかせて、ひとつの黒い人影が彼方からこちらに歩み寄っている。
ごう、と地鳴りのような音がして、ふいに強風が吹き下ろしてきた。突然の風は砂塵を舞い上げ、それを合図のように四方八方から風が吹き付けて、ゴランの視界を遮った。
砂のうねりの上に立ち止まった青年が、ラキードなのかハビールなのか、片手を顔の前にかざしながらもゴランには判別しかねた。服装から見て王子なのは間違いなかった。
ゴランはそこで異様な予感に身を震わせた。
夜明け前の空の下に突っ立つその姿には、生気というものがまるでなかった。どころか、全身が闇と一体化したような異様な妖気を放っている。
ゴランはおびえた様子の見張りを後ろ手で払い、テントに入れと合図した。
「ゴラン様……」
「中に入っておれ。いいか、合図するまで誰も出てはならぬ」
そしてぐっと腹に力を入れると、王子と見える人影に向かって歩いて行った。やがて夜明け前の空の下で、ゴランは王子……のどちらか、と対峙した。野太い声で、ゴランは尋ねた。
「ラキード殿か」
スカーフで口元を覆ったまま、くぐもった声で人影は答えた。
「ラキードは死んだ」
地の底から響いてくるような重々しい声だった。どちらの王子の声とも似ていて、そしてどこかが決定的に違っていた。ゴランは眉間に皺をよせ、用心深く尋ねた。
「なぜ死んだのです」
「ハビールが殺した」
ゴランはかすかな笑みを唇に乗せた。
「なるほど、宿命というものです。兵たちにはこの私から良いように説明しておきましょう、ハビール殿下」
「ハビールももういない」
「なんと?」
王子の人影は腰の剣を抜いた。剣には変色した血がべっとりとついていた。次に人影が発した声は、地獄の底から響いてくるようだった。
「ゴランよ。母なる大地と父なる天のもと、お前の罪はもはや隠せぬ」
「……お前は誰だ!」声を震わせてゴランは叫んだ。真っ暗な顔をこちらに向けたまま人影は答えた。
「ラキードでありハビールでもある。だがすでにどちらでもない」
「おのれ、……死霊か!」ゴランはわななく左手でおのれの剣の鞘をはらった。そして剣を正面に構え、全身をぶるりと震わせながらゴランは仁王立ちになり、喉も裂けよと叫んだ。
「砂漠の魔物に操られた哀れな王子の躯よ。お前ごときを恐れるわしだと思うか!」
その瞬間、四方八方からごうごうと風が押しよせ、砂を思うさま巻き上げた。あちこちに綱のように砂のねじり棒が立ち、まだまどろんでいた鳥たちや砂の中のサソリさえも巻き上げた。
ゴランは叫び声を上げると、人影に向かい突進し、やみくもに剣をふるった。だが恐怖に手はわななき腰は引け、切っ先は震えていた。
王子の姿をした人影は風のように身をひるがえし、ゴランの刃先をすり抜けた。その動きと剣さばきはゴランの知る王子のものではなかった。鬼神のごとき力でゴランの剣を跳ね上げ、横ざまに打ちかかり、その巨体をよろよろと後退させる。足をもつれさせたゴランは砂岩に躓いて斜めに倒れた。うむと唸って剣を杖に立ちあがったそのとたん、闇を切り裂いて火を噴く矢が飛んできたと思うとゴランの胸から背中を貫いた。
「ぐ……」
ゴランは仰向けにどうと倒れ、その体の中心からめらめらと炎が燃え上がった。
それと同時に砂丘の向こうから次々と火矢が飛んできて、赤々と燃えながら激しくはためくテントに次々と刺さり、炎上していった。
「急襲だ!」
「敵の来襲だ! 皆、起きろ!」
眠りからさめやらぬまま、兵たちは叫びながらあわただしくそれぞれのテントを出て、燃え盛る火を払い、武器を拾った。見張りの少年兵はがたがたと震えながら腰を抜かしてテントの影にへたり込んでいた。
「このバカ者。ゴラン殿はどうした! なにがあった!」老兵士が頭上から怒鳴りつけた。
「お、王子の、王子の死霊に襲われて、火が……」少年兵は砂丘を指さした。
「王子の死霊だと? バカを言うな、どこにいる!」
老兵士は少年兵の首根っこを掴んで立ち上がらせた。
「死霊といったな。いつ、なぜ亡くなったというのだ!」
「いまそこにいらして、ハビールさまもラキード様ももういないと、そしてゴラン様をき、切り倒し……」
やがて火矢の雨の向こうから地鳴りのような叫び声がして、一列になった兵士のシルエットが砂丘の上に姿を現した。
「……死霊の軍隊だ!」
少年兵が叫ぶと、呆然と見ていたゴランの部下のディディ族は口々に「砂漠の魔物だ」とわめき、慌てふためいて逃げ出した。砂漠の部族は何よりも闇の魔物-ジンの呪いを一番におそれていたのだ。
バッシャールの兵は逃げる者とどまるもの、乱れに乱れて大混乱となった。
「逃げるな、戦え! 戦うんだ!」
数名の老兵が叫んだが、悲鳴と怒号の上に火の矢がまたも降り注ぎはじめた。
やがて砂塵とともに押し寄せた黒装束の軍隊が混乱するバッシャールの兵たちに向け次々と剣を振り上げていき、あたりは叫び声とともに濛々たる砂塵に覆われていった。
その日は風が強く、王宮の周囲でも早朝から物の転がる音ぶつかる音が絶え間なかった。
そんなわけで、まだ夜も明けやらぬ時間、何者かが王宮の裏木戸を打ち叩き続ける音も、警備兵は風に飛ばされたもろもろのガラクタがぶつかる音としか思わなかった。が、しつこさに木戸を開けた警備兵の目に映ったのは、ボロボロな服でようやく膝立ちしている、討伐隊の伝令だった。
まだ少年で、道の途中で駱駝から落ちたといい、すでにその目からは生気が失われていた。
「伝令、伝令が来たぞ!」
警備兵と王の側近が入り乱れて宮殿内は騒然となった。もはやほとんど意識のない伝令の少年兵は宮廷内の広間に引き入れられ、気付けの酒が浴びせられ、頬を叩かれて質問の嵐が降り注いだ。
「王子はご無事か?」
「ゴラン殿は? 討伐隊は蛮族を仕留めたか?」
だが傷だらけの少年兵の口から出た言葉はこれだけだった。
「ゴラン殿は、焼死」
「討伐隊は、ほぼ全滅……」
「蛮族からの、手紙はここに」
やがて急を聞いて駆け付けたハイサム王は、氷のような場の空気に、最悪の事態を覚悟した。
ぶるぶると全身を震わせる側近から手渡された文の内容は、あまりに衝撃的だった。
文は羊皮紙に青いインクで書かれていた。
『バッシャール国の王子、ラキードとハビールはおふたりとも亡くなられた。相討ちともいえる最後だった。
この争いの罪を一身に負われて、我々の罪咎をすべて背負って逝かれた。
この上は我々もバッシャールと争おうとは思わぬ。正当な王子を戴いて新しい国を作ろうという野望は砂漠に潰えた。
今砂漠は死霊と悪霊に満ちている。
この上は深追いをして呪いに取りつかれるよりも、これ以降の争いを放棄し、あとは神の慈悲に任せる道をお選びなさるよう、賢明なる王に望む。
スルヤの再興を目指す誇り高き一族より』
ハイサム王は膝を崩してへたり込んだ。周りのものが慌てて手を添えて王の椅子にいざなったが、すでにその頬からは生気が失せていた。
床の上で、両側から脇を支えられている傷だらけの少年兵に、かすれた声で王は尋ねた。
「何でもいい、覚えていることを言え。お前は王子の最期を見たか」
頭を上げ、少年兵は弱々しい声で言った。
「お、おそれながら、最後に見たのが王子か、それとも王子の、か、影法師かもさだかでなく……」
「影法師とは何だ」周囲のものが声荒く詰め寄った。王は手でそれを制止すると、続けて問うた。
「よい、おまえの見た通りを全部話せ」
少年兵は視線を宙に彷徨わせ、唇を震わせた。
「その、早朝は、風が強く、先遣隊の、王子……と見える人影がお戻りになり、ゴラン様が砂丘にて対峙、……そして、そして突然争いとなり、鬼神のごとき強さにて王子がゴラン様を打ち倒し、続いて敵の軍勢が一気に現れ火矢を用いて攻め寄せ、火が、火が、すべてを……」
「王子とはラキードかハビールか」王は勢い込んで尋ねた。
「王子と見えたお姿は、こう、おっしゃられました。
ラキードはハビールに殺された。
ハビールも、もう、いない」
周囲から悲鳴に似たどよめきが上がった。
「ゴラン殿は、王子を、おのれ死霊、と、おっしゃり……」
もうやめろ、おぞましい、無礼者、と怒号が飛ぶ中、少年兵は再び気を失いかけて前のめりに体を倒した。
そのとき、背後でことりと音がした。
皆一斉に振り向くその先に、真っ青な顔のアミーナが立ち尽くしていた。
青いシルクのドレスに、真っ白のベールが、小刻みに揺れる体に沿って震えている。
王は蒼白な顔を上げて視線を合わせた。




