その6 お前はぼくだ
ラキードを隊長とした先遣隊は、日が暮れてから出発した。やがてノベラの渓谷を見下ろす丘に小さな洞窟を見つけ、そこに拠点を置いた。
ラキードを除いて総勢わずか五名。武具や食料を洞窟内に運び、駱駝は岩陰に隠した。
「いいか、我々の役目は戦闘ではない、偵察だ。敵の陣がどこにあるかを探るのが目的だ、すべては静かに行わねばならぬ。早まったことはするな。どんな場合であっても、ぼくの命令なしに動くな、闇雲に戦うな。わかったか」
ラキードは洞窟の暗闇の中で兵士たちに言った。
「承知いたしました」兵士たちは声を合わせた。
「まだ周囲の地形が明らかでない、安易に動くな。見張りを二人残してあとは中にいろ。ぼくが周囲を偵察して来る」
天球儀がそのまま回るような壮大さで星ぼしが移動するその夜、丘から見下ろす谷の亀裂は大地にぱっくりと空いた口のようだった。先遣隊の見張りが二人、それぞれ指定された場所で剣を手に待機しているのを認めると、ラキードは星空の下に歩み出た。
スカーフを口元に巻き、剣を片手に、ラキードは荒涼とした砂岩の丘を歩いた。ふと、このまま誰も知らない地へ逃れたい、という衝動が身のうちを突き上げた。
今味方としてともにあるのは憎い弟のハビールと母上の仇、ゴラン。国で待つのは忌まわしい父、ハイサム王。母上を死に追いやり、仇の娘をこの自分に嫁として与えた。
だがその仇の娘が、今では自分にとって一番大事な存在なのだ。そしてその腹には……。
……何という皮肉な宿命だ。
自分は今、誰を敵として、なんのために戦うのだ?
その瞬間、自分を呼ぶくぐもった声が聞こえた気がしてラキードは振り向いた。続いて、人の倒れる鈍い音が確かにした。月はつと雲に隠れ辺りは全き闇となった。ラキードは剣に手をかけ、砂岩の影に隠れた。
……見張りがやられた。誰かくる。
と、はっきりとした足音と同時に、岩陰に大きな人影が現れた。
逃げている暇はない。
王子は飛び出ると大きく剣を振り上げ、人影を横に薙ぎ払った。大きな影は高く飛んでそれをよけ、一回転した王子の前に飛び降りた。スカーフはほどけ、ラキードの顔はあらわになった。その刹那まばゆいばかりの月が雲間から顔を出し、王子の顔貌を照らし出した。だが自分に襲い掛かろうとする人影は、ラキードからは黒い塊にしか見えない。王子は剣を逆手にもって下から突き上げた。高い音を立ててその剣をはねのけると、黒装束の人影は押しつぶしたような声で叫んだ。
「ハイサムの息子か」
「その通りだ」
「ではハビール……」
「ラキードだ。この首がほしいか」
黒い影は突然動きを止め、剣を降ろした。
「あなたは敵ではない」
「……なに?」
「剣を収められよ、あなた様は我々の同胞だ。母上によく、よく似ておられる……」
ラキードは剣を降ろすと、細かく震える黒装束の男の影を呆然と見上げた。男は深くかぶっていたフードを外し、髭だらけの顔をラキードに近づけて膝を折った。
「ラキード王子、私はジャバード・イル・スルヤです。母上の従兄弟にあたります。あなた様をお助けしたい」
眼前に膝まづくのは、岩のような顔貌の、初老の戦士だった。
「スルヤ王国の生き残りとして、我々はあなたの御身を預かりに来たのです。
ご存知かどうか知りませぬが、あなたの母上の国、スルヤはハイサム王によって滅ぼされ、国王は処刑され、母上……いと美しきアイシア姫はハイサム王に捕らわれた。無念この上ないことです。王家の血を引く一族はことごとく殺されたが我々は逃げ延びた、いつか好機が来ると信じ、果てしない恨み憎しみを胸に。この苦渋の月日がわかりましょうか」
わかる、と口元まで出かけた言葉を押しとどめて、ラキードは眼前の男の砂だらけの真っ黒な顔をただただ見つめた。
「憎い敵に復讐を遂げると同時に、伝え聞く双子の王子をわがもとに引き入れ王家を再興する。これは悲願でした、だがそこに至る道のりは果てしなく遠いものと覚悟していた。
だがなんとしたことか、アイシア様の面影をそっくり残すあなたが今この私、たまたま偵察に出たこのジャバードの眼前にある。これが神のおぼしめしでなくて何でありましょうか」男はほろほろと瞳から涙をこぼした。
ラキードの胸に、久しく感じたことのない肉親への愛情が深いところから湧き上がってきた。
それは何年も乾ききっていた大地を潤す恵みの泉のようだった。
男はラキードの手を取った。
「この私を敵と思うならばその手で首をはねられても構いませぬ、だがあなた様と同じ血を引く者たちの志を汲んでくださるならばどうか我々と」
「……母は死んだ」
「存じております、そのいきさつも風の噂にて」
「……」
「あなた様のお苦しみはお察しするに余りあります。すべてはハイサムとゴランの罪。私たちと母上の無念を晴らしましょうぞ」
ラキードの目にはありありと苦悩の色が浮かんだ。
「だが、……だが、生まれ育った都がよそ者に奪われるなら、王子として国民として、看過はできぬ」
「我々の望みははるか西の緑の大地に、尊き王子とともに我々の理想郷を作り上げること、ただそれのみです。それさえかなうなら都は襲いませぬ。約束いたしましょう。どうか私たちとともに来てはくださらぬか」
ラキードの体は今や細かく震え、その瞳の奥にも熱いものがこみ上げてきた。
ここだ、自分が身を置くべき同胞、目指すべき未来はここにある。今こそ……
「ぐあっ」
突然目の前の男はのけぞって悲鳴を上げ、そのままどうとラキードの前に倒れた。
「ジャバード! ジャ……」
肩に手をかけたラキードは、その背に深々と刺さる矢に気付いた。
振り向いた視線の先に、月光を背にした戦士、
……駱駝にまたがった弟、ハビールの姿があった。
「なんで敵を懐に入れるんだ。これはスルヤの紋章入りのマントじゃないか。殺されるところだったよ、兄さん」
ラキードは唖然とした表情で弟を見、眼下の身体に視線を移し、その背を静かに揺すった。だが、毒を塗った矢に射られたその体にはすでに命のかけらも残ってはいなかった。
ハビールは駱駝を降り、かたわらに歩み寄ると言った。
「あっちでは見張りが二名やられている。ゴラン殿から、兄さんの様子が変だからつけていくようにと言われて、離れて後を追っていたんだ。来てよかった」
低く呻くと、ラキードはよろめきながら立ち上がり、いきなり弟の横面を張り飛ばした。
予想していなかった兄の暴挙に受け身も取れず、ハビールは人形のように大地に打ち倒された。そして鼻血を砂の上に垂らしながら、信じられないといった表情で兄を見上げた。
「兄さん……」
「貴様、自分が何をしたかわかっているのか!」
ラキードの叫びは絶叫に近かった。
「母上の、その血につながる、血縁上の同胞を」
「そんなことはわかっていたじゃないか! スルヤと戦うというのはそういう事だろう、わかっていて我々は」
「近寄るな、もはやお前とは兄弟でもなんでもない!」ラキードは叫んだ。
「兄さん、今は仲間割れはしたくない。聞いてくれ、ゴラン殿はぼくらの仲を裂こうとしている」ハビールは今にも剣に手をかけようとしている兄を必死に押しとどめながら言った。
「彼は本当はぼくに、兄さんを暗殺することを暗にすすめていたんだと思う。王家の跡取りをぼくひとりにしてその後ろ盾になろうとしているようだ。そんな愚かな策に乗りたくはない。敵はバッシャールの国を侵そうとするもの、それだけでいい。兄さん、ぼくらは力を合わせなくてはならないんだ。力を合わせて国を守ろう、ぼくたちの国を、ぼくたちの妻の国を」
「理想の国を作ろうとしていたのはこの者も同じだ。今そう話していた、それをお前が!」
「そういう甘言を弄して兄さんを誘拐し、人質にして交渉するつもりだったとは考えないのか!」
ラキードは弟を睨みつけると、喉をすり合わせるような声で答えた。
「そうか、なるほどな。そう考えるのも無理はない。お前は父上の血を正しく受け継いでいる。
ゴランがこのラキードを殺そうとしていたと言ったな。
そうだろうとも、ぼくたちのたった一人の母上を汚したのはあいつだからな。恋人じゃない間男でもない、ゴランだ。父上の親友の、ゴランだ。あいつが、あいつが暴力で母上を犯した。
ぼくは見た。十歳のぼくは、黙って震えながら、それを見ていたんだ!」
「な、何……」ハビールは突然の告白に目を見開いて絶句した。
「それでもなにもできなかった。怖くて、恐ろしくて、禍々しくて、それは子どもだったからじゃない、ぼくが臆病者だったからだ。その罪は、恥は、苦しみは一生消えない。お前にわかるか!」
ラキードは髪を振り乱して咆哮した。
「ゴランは自分とよく似た男のせいにしそいつを処刑した、父上は母上を罪人として自死を命じた。母上は父上に命じられて無念のうちに死んだ。そして母上がゴランに汚されたと知らせたのは幼いこのぼくだ。父がゴランを罰してくれると思った、だが父が罰したのは、死を命じたのは、母上だった!」
そこまで言うと頭上を振り仰ぎ、ラキードは両手で顔を覆った。
「母はぼくのせいで絶望して亡くなった。ぼくも父もゴランも死ねばいいんだ、どいつもこいつも罪びとだ。だが今は、今は、このラキードはおまえが一番憎い!」
ラキードは剣を振り上げると、呆然としている弟の前で仁王立ちになった。
「剣を取れ、ハビール。この時を待っていた。われわれは戦わねばならない運命だ。どちらかが死なねばならない」
「いやだ!」
ハビールは地面に手をついたまま叫んだ。
「兄さんの、兄さんの言ったことはぼくは知らなかった。何も知らず、兄さんにばかり……」
「謝れと言ってるんじゃない、剣を取れ!」
「それでも、戦うのはいやだ! ぼくらがなぜ殺しあわねばならないんだ。ぼくの敵は兄さんじゃないし、兄さんの敵も……」
「剣を取れと言っているんだ!」
頭上にいきなり兄の剣が振り下ろされた。ハビールはすんでのところで横に転がると自分の剣を手に立ちあがった。続けて降りかかる刃を全力で受け止め、二人は剣を交差したまま押し合った。
「貴様はゴランの手先となって母上の従兄弟殿を殺し、このラキードの妻に懸想してその身を奪い、妊娠させた。それでも敵ではないというのか!」
「に、妊娠?」
二人は同時に身を離し、再び激しく打ち合った。兄の剣を払いながら、ハビールは懸命に叫んだ。
「兄さん、やめてくれ、誤解だ。ぼくはアミーナに何もしていない」
「恋ごころひとつないと誓えるというのか!」
「それは……」
言いよどんだ弟を力づくで押し飛ばすと、よろめいたその身の上にラキードは全身で剣を振り下ろした。受け身一方のハビールはそれをすれすれで受け止め、薙ぎ払った。
「恋なら、していた。正直に言う。あの方をいとおしいと思った。でも、それ以上は」
「お前以外誰の子を身ごもるというんだ!」ラキードは音高く剣を弟のそれと交差させた。
「このラキードに父王のようになれというのか、ぼくはアミーナを処刑しなければならないのか!」
「そんなことはしてはいけない、絶対に」
「だろうな、そう言うだろうとも、お前の子だからだ!」
「違う、違う、兄さん」
「アミーナはこのラキード一人のものだ。彼女を愛しているのはこのラキード一人だ、お前に汚されるぐらいならこの手で」
狂気に奪われた兄の表情は、ああ、なんと父王にそっくりなことかとハビールは思った。あの無情な父も、その苦しみから魔に捕らわれたのか。苦しみから逃げたくて、母上を……
瞬間、バランスを崩した二人の足は同時に滑り、どうと音を立てて砂の上に倒れた。仰向けに倒れたのはラキード、その上にのしかかったのはハビール。二人とも、何が起きたのか一瞬わからなかった。
ハビールはただ瞳を広げて、兄の胸元に広がってゆく血の朱色を見つめていた。
ラキードの胸に、自分の剣先が深々と刺さっていた。
声にならない声でうめくと、ハビールは剣を抜いて放り投げ、兄の胸に両手を当てて溢れる血をとどめようとした。だが指の間から泉のように血は湧き出てくる。ハビールは天を仰ぎ、神への祈りの言葉をむなしく繰り返した。
神よ助け給え、御恵みを垂れ給え。
ラキードは白くなっていく顔をあお向けたまま、途方に暮れたように虚空を仰ぎ見ていた。
「兄さん、兄さん……ああ、こんなつもりじゃなかった、こんなバカな!」兄に覆いかぶさったまま、ハビールの瞳には涙があふれた。「ぼくは兄さんが、好きだった。小さいころから、なんでも兄さんのまねをした。あこがれだった。な、なぜ、こんな……」
ラキードは泣きむせぶ弟の頬に震える手をようよう伸ばし、指先で触れた。ハビールはその手の上に血だらけの右手を重ね、叫ぶように言った。
「死なないで、兄さん。だめだ、ぼくを、ぼくを憎んだまま死なないでくれ。ぼくとアミーナの間には何もない。ぼくは兄さんを裏切っていない、こんな……こんなのはいやだ!」
兄は唇をわななかせながら、囁くように弟に語り掛けた。
「……すべて、話した。お前は、すべて、聞いた。そう、だな」
ハビールは言葉もなく、ただ何度も頷いた。
「それでは、……お前に託す。いいか」ラキードはかっと目を見開き、眼前のハビールの充血した目におのれの視線を釘づけた。
「お前は、聞いた。このラキードの、苦しみも、憎しみも、あ、愛も、みな、お前に託す。
お前は、ぼくだ。ぼくは、お前だ。
ぼくはお前のその、そのからだとひとつになって、生きる。それならば、……死は、ない。ひとつの、生しか。ラキードは、今、借り物の服を、ぬ、脱ぎ捨てるだけだ」
「兄さん、ぼくを信じてくれ。頼む、信じると言ってくれ」
「信じる」
ああ、と呻いたハビールの目からは新たな涙が滝のようにあふれ出した。ラキードは弟の手にしがみつくようにして、続けて言った。
「アミーナの、は、腹の子は、神の子だ。大事に、大事に、育てるんだ。ぼくらは父とは違う。愛するんだ。ハビール、愛するんだ」
「わかった。……わかった。兄さん、わかった」
そのときはるか頭上から、天のもののような歌声が聞こえて来た。
まことの幸せはどこにある。
まことの幸せは砂の上に、川の中に、砂漠の楼閣のあの方の心の中に……
「アミーナ……」
そう呟いてわずかに微笑むと、兄は虚空に目を薄く向けたまま呼吸を止め、動かなくなった。
ハビールは茫然と夜空を見上げた。天空のかなたに、羽ばたく鳥の姿が白く見えたような気がした。
その刹那、天と地を突き通すように、その身のうちを何かの意志が刺し貫いた。奔流のように自分の中に流れ込む何か、そして自分から出て行こうとする何かは渦になってわが身を取り巻き、ぐるぐると縛り上げると、ハビールの身を白い闇に閉じ込め、そして同時に途方もない無限に向かって放り出した。
弟の体はぐらりとかしいで兄の体の上に倒れ、
やがて黒い一つの塊となり、星月夜のもとに沈黙した。