その4 許さぬ
「ほら、どうかしら」レンガのオーブンから出した蜂蜜と棗のケーキをマティヤが皿に載せると、アミーナはのぞき込んで香りをかいだ。
「すばらしい出来だわ、マティヤ。なんていい匂い」
「二人でケーキを焼くなんて久しぶりね。まず味見して、おいしかったらもう一つ一緒に焼きましょうね。ラキード様へのお土産にするといいわ」
アミーナはふと顔を曇らせた。
「あと十日で、北の蛮族の討伐に出立なのね」
「ええ」
「お姉さまは不安じゃない? みな無事に帰ることができるかしら」
「もちろん、心配よ。でも一番厳しい思いをしているのは兵士たちと、戦いに行くわたしたちの夫だわ。一番大事なことは、そんなことを顔に出さず、笑顔で送って差し上げることよ」ケーキを皿に乗せながら、マティヤは言った。
「その通りだわ」アミーナは自分の未熟さを恥じた。「お腹に赤ちゃんがいるのに、お姉さまは冷静ね」
「そうするしかないじゃない。わたしたちには祈り、待つしかできることはないのよ」
召使に熱い茶とケーキの乗った盆を運ばせて、二人はテラスに出た。
「さあ、いただきましょう」
ケーキを口に入れてしばらくすると、アミーナは眉をしかめ、口元を押さえた。
「ああ、だめだわ。お水をちょうだい」
マティヤは水の入ったグラスをわたしながら言った。「どうしたの、口に合わなかった?」
「おいしいのよ。わたしの好きな味のはずなのに、急に吐き気がして。なにか、お水じゃなくて酸っぱいジュースがあれば……」
「酸っぱいジュース?」
「なんだか味覚が変わったみたいだわ」水をすすりながら、アミーナは答えた。その姿を見ながら、マティヤは言った。
「お医者様にみていただいたほうがいいかもしれないわね」
「わたしは病気かしら?」
「もしかしたらとても喜ばしい病気かもしれなくてよ」
意味ありげなマティヤの笑顔を見ながら、アミーナははっと以前の言葉を思い出した。
味覚が変わって吐き気がして、バオバブやハイビスカスのジュースがほしくなる……
「まあ」アミーナは口元を覆った。そしてマティヤの目を見ながら、おろおろと言った。
「どうしましょう。どうしましょう、こんな、もしもそうなら…… いえ、まず、どうしたらいいかしら」
驚きと喜びに顔を紅潮させる妹の肩をやさしく抱いて、マティヤは言った。
「落ち着いて。まだ何もわからないわ。とにかくお医者に診てもらいましょう。サダム医師は口の堅いかたよ。まずは事実をはっきりさせて、もしうれしいお話だったら、出立前に旦那様だけにそっと打ち明けるのよ。どれだけ戦いの励みになるかしれないわ」
「ええ。ええ、そうね。ありがとう、マティヤ」
アミーナは胸の奮えを抑え切れなかった。
ああ、もし本当にそうなら、どんなに嬉ばしいことだろう。
子どもを授かることで、わたしは、夫の愛が真実だとついに神様に証明していただけるのだわ……
夜遅く、帰宅したラキードが邸内の廊下を部屋に向かっていると、召使頭が背後から呼び止めた。
「ラキード様、こんなお時間に申しいわけがないのですが、見ていただきたいものがございます」
「何だ?」
「どうぞ、少しだけこちらへ」
召使頭は洗濯部屋に王子をいざなうと、そっと扉を閉めた。そうして、収納棚から真っ赤なバラの花束を取り出した。
「何だ、それは」
「今朝アミーナ様のお部屋をお掃除しに入りましたら、窓の内側にこれが落ちていました。おそらく外から投げ込まれたものと」
王子は花束を受け取ってしげしげと眺めた。花束は白い薄い紙を細く折ったもので帯のようにくくられていた。
「アミーナはこれを見たのか」
「いえ、わたくしがこの花束を見たのは奥方様が湯あみなさっているときで、すぐに預からせていただきました。この花については何もご存知ありません」
「……」
「おそれながら、その紙のリボンをといてご覧くださいませ」
王子は不審に思いながら、花をくくっている白い薄い紙のリボンを外し、細く折りたたまれたそれを広げて見た。そしてはっと口を開いた。
そこにはほぼ裸身の女神と見える美女が腕に極彩色の鳥をとまらせている絵が描かれてあった。誰が見ても、その顔はアミーナに間違いなかった。絵の下には特徴のある筆致で詩のような言葉が綴られていた。
月の女神よ、砂漠の美酒よ
あなたに孤独は似合わない
無垢なるアミーナ、純潔の姫
愛という光であなたの全身が輝くのなら、それを与える者に何の咎があろうか
ラキードはぐしゃりと紙を手元で握りつぶした。弟の絵の特徴とその腕前を一番よく知る兄であった。
氷のように表情を閉じたまま、ラキードは低い声で言った。
「これを投げ込んだものの姿は見ていないのだな」
「はい」
「誰かにこのことを話したか」
「いいえ、誰にも」
「よし。では、いいか、誰にも話すな。これを投げ込んだのは、警備のものに金貨を渡してこの庭にまで入ってくることができて、しかも高価なバラを隊商から購入することができる者だ。おそらく父王の臣下か高官に属するものが下らぬ横恋慕をしているのだろう。
妻に心を奪われているものが少なくないことは知っている。警備を厚くしよう。だが父王に余計な心配をかけたくない。決して誰にもこの件は口外せぬように。命に代えてもだ。わかったな」
「はい、誓って誰にも申しません」白髪交じりの召使頭は肉厚の体を曲げて王子の前で膝をついた。
ラキードの魂の中心をいま一つの名前がどす黒い色で染めていた。
だがまだその言葉を、その名を口にしたり憎しみの対象にすることは許されない。
大事なのは戦いだ、バッシャールの王国を継ぐ者として力を合わせて戦わねばならない。……力を合わせて。
けれど一つの疑念が黒雲のように頭をもたげてくるのはどうしようもなかった。
アミーナは果たして弟の思いを知っているのか。勘付いているのなら、どのようにそれを受け止め、対処しているのか……
いつも、おやすみだけを言いに入る寝室のドアの前でラキードがしばし戸惑っていると、中から軽やかな歌声が聞こえて来た。
まことの幸せはどこにある。まことの幸せは砂の上に、川の中に、砂漠の楼閣のあの方の心の中に……
ラキードははっと顔を上げ、ドアを押しあけた。
ろうそくの炎が揺らめく部屋の中では、窓辺の椅子に腰かけたアミーナが、出窓の柵にとまる極彩色の鳥の歌に聞き惚れていた。
「エローラか」
王子の声を聞いて、アミーナは振り返った。
「ええ、ここがよほど好きなようです。素敵な歌ですわね」
「辺境の小王国の出身であったぼくの母が、よく口ずさんでいました」
「まあ。故郷のお歌なのですか」
ラキードは静かに鳥に歩み寄った。エローラは首をめぐらせて王子を見上げた。
「砂漠で最初に拾った時もエローラはこの歌を歌っていたのです。あなたに聞かせたかった」
アミーナは一瞬言葉を失ったが、やがて俯いて言った。
「あの時は申し訳ございませんでした。あまりに羽が美しくて、それならここよりも空が似合うだろうと」
「いいのです。あなたらしい」ラキードは幽かに微笑みながら言った。
「目に見えぬ幸せを信じ、祈る女たちの切ない歌ですわね」アミーナはそこまで言うと、頬を染めて付け足した。「でもわたくしには、現実になった幸せです」
ラキードは複雑な顔で妻を見ると、側らにそっと座った。
「あなたに少し話がある」
「わたくしもですわ」
「よい話なら、あなたの話から先に聞こう。ぼくの話はあまり喜ばしいものではなさそうだ」
「では……」
アミーナは頬を染めて、夫を見上げた。
「お喜びくださいませ。神の祝福を得て、赤ちゃんを授かりました」
「……なに?」
ラキードは絶句して妻の顔を見た。
混乱する頭の中で、いくつもの問いが交差した。そのどれひとつとして、言葉にはならなかった。
アミーナの表情は無垢な喜びに輝いていた。
「あなた様が、わたくしを大事に愛してくださった証です。神様の下された、愛の結晶ですわ」
「医者に……」かすれた声で、ラキードは言った。「サダムに診てもらって、そう言われたのですか」
「ええ、もちろん。間違いないそうです。でも、あなた様に言うまで、そしてお許しが出るまで、公にはしないでとお願いしておきました」
「……」
「お喜びくださらないのですか?」
こちらを見つめる妻の目には一点の曇りもなかった。ラキードは眩暈を覚えながら、懸命に考えを巡らせた。
この自分が、アミーナを大事に愛した証拠……
確かにそう言った。
アミーナは心から腹の中の赤ん坊が自分の子だと信じて疑っていない。
だが自分と彼女との間に子などなせるはずがない。まともに考えれば彼女にもわかる話だ。だが、この様子からして、既成事実はすでに彼女にとって成立しているのだ。
既成事実……
誰を相手に?
もしも……
もしも夜陰に乗じて、自分になりすまし、この部屋に忍び込んで妻に愛を囁き、その腕に抱いたものがいたとしたら。自分が妻を避け、しょっちゅう砂漠に狩りに行っていたのは確かだ。ではその男は、妻にも見分けがつかぬほど、自分と似た人物でなければならないではないか。だとすれば、それはただ一人……
「ラキード様?」
不審そうにこちらを見上げるアミーナに問いかけられ、ラキードははっと妻の目を見下ろした。
ここは、今だけは、自分から事を荒立ててはいけない。泡立つ胸に鉛の碇を沈めながら、ラキードは慎重に言った。
「思ってもいなかった話に、一瞬我を忘れました。神に祝福されたぼくたちの子どもです、本当ならこれ以上うれしいことはない。だが、それは一人の医師のみに診てもらった結果ですね?」
「ええ」
「ならまだ、間違いということもある」
「そんな……」
思いもかけない夫からの言葉に、その暗い表情に、アミーナは言葉を失った。ラキードは妻の目を見ながら、真剣な口調で先を続けた。
「まだまだ確かなことは分からない時期です。そしてアミーナ、ぼくは反乱軍討伐のためにしばらくはここを留守にするしかない。よく聞いてください。後継ぎができたとするなら、それはこの上なくめでたい話ではあるが、王位継承権をめぐって、きな臭い話にならないとも限らない。現に滅ぼされた異教徒の国、スルヤ王国の血を引くぼくや弟よりも、同じバッシャールの王族の血筋の従兄弟を擁立しようという動きもあるらしい。弟に子ができたことも国の民にはまだ伏せている段階です。今は公表はなりません」
「ええ」神妙な面持ちでアミーナは頷いた。「それはよくわかりますわ」
「ですから、今は誰にも語らず、邸内で静かに過ごしてください。少なくとも、討伐を終えてぼくが帰るまでです。誰にも何も語ってはなりません。帰ったら、ぼくの信頼するお医者に診てもらいましょう」
「わかりましたわ」アミーナは深く頷いた。
「でも、戦いに赴く前に、せめて胎内のこの子に、父親からの祝福をお願いできませんか」
ラキードは一瞬躊躇したのち、震える手でアミーナの腹に手を当てた。
「ここに確かに宿るならば、わたしたちの愛の結晶に、とこしえに神のご加護のあらんことを」
アミーナは白い細い指をその上に添えた。
「生まれてきたこの子の双眸にうつる景色が、愛と平和に満ちた王国でありますように」
今この時に至って、ラキードは美しく素直な妻へのいとおしさと、同時に沸き起こるどす黒い憎しみを認めないわけにはいかなかった。
だが、憎しみを向けるべきは、目の前の妻であってはならない。自分は決して、父と同じ穴に落ちてはいけないのだ。
憎むべきは……
「それで、旦那様からのお話は何なのですか?」
アミーナの言葉に、ラキードははっと我に帰った。
「それはもういいのです。あなたの話に比べれば、ささいなことだ」
そう言ってラキードはアミーナの柔らかい髪を手の中で揉みしだいた。
―奥方を愛しているかい、本当の意味で。
―兄さんは大したものだ。ぼくならそんな愛し方はできない。
―愛という光であなたの全身が輝くのなら、それを与える者に何の咎があろうか。
目にし耳にした弟の言葉は今や千の矢となってラキードの胸を射た。
地獄の業火のような怒りは、もはやラキードの全身を焼き焦がさんばかりだった。
そうだ、愛する者の肌に触れずに来た自分が悪い。そうだとも、これ以上の馬鹿はいない。
だが。
見よ。自分のアミーナへの愛は少しも揺るがぬ。
ぼくは父、ハイサムとは違う。ハビール、お前とも違う。たとえこの身は重ねずとも、この女を心から愛する者は自分一人なのだ。アミーナが愛しているのはこのラキードだ。勝者は自分一人だ。アミーナを憎めば自分の負けだ。
しかし、それはそれ。
許さぬ。
この自分と同じ顔をし、同じ女に心奪われ、何食わぬ顔をしてこのラキードになり替わろうというのか。
あえてこの身から遠ざけていた手中の珠に、よくものうのうと。よくも、よくも……
腕の中に愛する妻のかぐわしい体を抱きながら、ラキードは窓の外の夜空を睨んだ。
……ハビール。
もしも自分の想像通りだとするなら、もはや、きさまの存在そのものを許しはせぬ。