その3 愛のあかし
中庭を散歩していたハビールは、背の高いアルガンツリーのてっぺんに鮮やかな鳥を見つけて立ち止まった。
「あれは、兄さんがとらえたエローラじゃないか? アミーナ妃へのプレゼントにすると言っていたのに、なぜこんなところに」
そろりそろりと近寄ると、木のてっぺんでエローラは節をつけて高く声を上げた。
ほんとうにおやさしいかたですわ……おやさしいかたですわ……
すると木の下から鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
「やめてちょうだい、恥ずかしいわ。お願いだから、歌わないで」
レンガ造りのベンチに片足をかけて、妻の妹、アミーナが極彩色の鳥に語り掛けている。
青空色の衣を身にまとい、白いレース編みのベールで髪を覆ったアミーナの姿は、さながら蒼穹から舞い降りた幻の鳥のようだった。
「ぼくがとらえて差し上げましょうか」
突然話しかけられたアミーナはハビールの顔を見ると、さっと白いベールで鼻から下を覆い、頭を下げた。
「お姿に気付かず、ご無礼をいたしました。ご在宅と思わずこのような」
「なるほど、すぐにぼくと兄が見分けられるのですね。大したものです」
ハビールは、臣下が間違うほどに双子の兄とよく似ていた。
「妻のところに遊びにいらしたのですか」
「はい、見慣れない鳥がいるから見にいらっしゃいと言われて。今朝がた逃がした鳥が、この庭に逃げ込んでいるなど思いもしませんでした」
「なぜ逃がしたのですか。兄からあなたへの贈り物だったはずだが」
「鳥は空に棲むものだからですわ」
歌でも歌うようにアミーナは軽やかに答えた。
そこに、マティヤがお茶菓子を持った召使とともに現れた。マティヤは夫の姿に目を留めると言った。
「あら、お早いお帰りでしたのね」
「陽射しがきついので軍の訓練を早めに切り上げた」ハビールは投げやりに答えた。
「そんなに暑いかしら。軍全体がお休みに入ったのですか」
「わたしがだ。昨日から体調が悪い」
「毎晩お酒を召し上がりすぎるからでしょう」
「お前が口を出すことではない」
「確かに今日の陽射しはたいそうきついですもの、お大事になさいませ」
アミーナがするりと言葉を挟むとハビールは間が悪そうに笑い、
「どうぞごゆっくり」と声をかけて邸内に引っ込んだ。
「せっかくプレゼントしてもらった珍しい鳥を逃がしてしまって、ご主人は何も言わないの」
明るい庭の見える客間で、召使が注いだバオバブのジュースを口にしながら、マティヤは妹に聞いた。「わたしなら宝物にするわ」
「怒られても当然だと思っていたの。でも何も言われなかったわ」
「お優しいのね。愛されているのね」
「お優しいかたなのは確かだわ」
「エローラもそう歌っていたしね」
「まあ、やめて」アミーナは赤くなって頬を押さえたが、ふと表情を曇らせた。
「でもわたしのほうが何ひとつ、妻らしいことができていないのが悩みなの」
「愛されているのでしょう。早く子どもを作ればいいのよ、それが一番の務めだわ」マティヤは視線を落とすと、ドレスの上から自分の腹にそっと触れた。
「実はね、誰にも言っていないけれど、わたし、もしかしたら赤ちゃんができたかもしれないのよ」
「まあ、お姉さま」
思わず手を取ったアミーナを制して、マティヤは言った。
「まだ確かじゃないのよ、でも近いうちお医者様に診断していただこうと思っているの」
「どうしてわかるの」
「月のものがなくなって、味覚が変わって吐き気がして、バオバブやハイビスカスのジュースがほしくなるのよ」
「本当だったらおめでたいお話だわ、ハビール様もお喜びでしょうね」
「さあ、どうかしら」マティヤは複雑な表情を見せた。「王子が生まれれば喜ぶでしょうけれど」
「愛のあかしですもの、女の子でもきっと喜んでくださるわ」
「あなたはどう、アミーナ」マティヤは真顔になって妹を見た。「毎晩愛されているのでしょう?」
アミーナは頬を染めて答えた。
「ええ、それはもう。
おやすみの挨拶は欠かさずしてくださるし、寝室はいつも花でいっぱいだわ。そしてわたしの眠りの邪魔をしないように、いつも一人にしてくださるの。
たまに子守唄代わりに竪琴を聞かせてくださるのよ」
マティヤは首をかしげて妹を見た。
「あなた、いつも一人で眠っているの?」
「ええ。ここに来てからずっと、一人でなかった夜はないわ。おかげでよく眠れるのよ。あのかたの思いやりにお応えして、早く赤ちゃんを産んでさし上げたいわ」
「……アミーナ。あなた、赤ちゃんがどこから来るか知っている?」
まさかと思いながら、マティヤはおずおずと問うた。アミーナはにこやかに答えた。
「それはもちろん神様の思し召しよ。神様のもとでとこしえの愛を誓い、誠実さとつつましさを持って夫にお仕えしていれば、自然と天から授かるものとお母様は昔、言っていたわよね」そして無邪気に付け足した。
「でもね。お食事も身の回りのお世話も召使がしてしまうし、あのかたがわたしに求めるものはこれと言ってないし、いったいどうやって旦那様のお役に立てばいいのか、それが分からないのよ。
お姉さま、妻の一番大事なお務めって、具体的に言って何なのかしら」
「まあ、アミーナ……」
マティヤは言葉を失った。
そして邸内のドアの向こうで、マティヤの夫ハビールもまた、自分の口を押さえていた。
ほどなくしてマティヤの懐妊が確定した。王はたいそう喜んだ。
「悪い魔物に憑かれぬよう強力な術師をやとわねばならぬ。よき精霊を招くのだ。子は何としても男児でなければならぬ。とにかく栄養のあるものをたくさん食べさせよう。良質な干し棗と砂牛の干し肉、それとそうだな、ダチョウの卵を取り寄せよ」
祝福の宴は砂漠の魔物の耳に入らぬよう、内輪で行われた。
美しい服や珍しい果物や肉、乳香や没薬が王からマティヤに贈られ、神官が祝福の祈りをささげた。婚姻の時に歌われた夫婦の祝い唄を、楽師たちが奏で、女たちが歌った。
マティヤは微笑み、アミーナも手拍子を打って声を合わせた。今まで見たことがないほど、マティヤの顔は誇らしさに輝いていた。
砂糖菓子を手に宴を眺める宮廷医、サダム医師の隣にアミーナが来て、そっと語り掛けた。
「わたくしにも姉と同じ恵みが訪れるといいのですけど、こればかりは神様の思し召しですわね」
サダム医師は無邪気な若妻の言葉に、微笑みながら答えた。
「妃殿下は健康であらせられる。必ずや同じ幸せに恵まれることでしょう」
だが内心は暗く淀んでいた。
宮廷医のひとりとしてマティヤの腹の中の赤子に対する責任を重く背負わされていたサダムは、もしも赤子が無事に生まれなければ、それこそ医師生命でなく自分自身の命にかかわることを知っていた。
無事男子が生まれれば溢れるほどの金銀が与えられ、
もしも出産に至らないようなことがあれば、すべてが奪われることだろう。
ヤシ酒の酔いをさましにラキードがテラスに出ると、ハビールがひとりぽつんと月を眺めていた。
「今夜のマティヤは美しいな」背後からラキードは弟に声をかけた。
「母となる誇りは女性を美しく輝かせるとみえる」
こちらを一瞥すると月に視線を戻し、にべもなくハビールは答えた。
「気のせいだ。兄さんの妻とは比べ物にならないよ」
「そんなことを言うものじゃない」ラキードは顔をしかめた。弟は構わず続けた。
「いやなお役目はさっさと済ませるに限る。男児であればいいと思うよ」
ラキードはテラスの手すりに寄りかかって酒をあおる弟の隣に身を寄せた。そして、銀の杯をその手から取り上げた。
「悪酔いしているな、ハビール。水でも飲んで頭を冷やせ」
ハビールは酔眼を兄の上にひたと止め、呟くように言った。
「兄さんは……」
「ん?」
「兄さんは幸せかい」
「どういう意味だ、それは」
「奥方を愛しているかい。ほんとうの意味で」
少し躊躇したのち、兄は答えた。
「神の定めた存在だ、妻への愛もまた神への忠誠と同じだ」
弟はじっと兄の黒い瞳を見た。
「兄さんは大したものだ。ぼくならそんな愛し方はできない」
何か言いかけた兄から銀の杯を奪い返し、ハビールは酒をあおりながら邸内に戻っていった。
ハビールは翌日から妻と食卓をともにするのをやめた。
臭いのあるものを、つわりのひどい妻の目の前で食べられないから、というのが理由だった。
お茶と果物と薄いパンしか食べず、痩せて口数も少なくなり、公務以外では部屋に籠るようになった。一人で本を読み、砂漠や鳥の絵ばかり描いては、しきりにため息をついた。
ハイサム王は王子の身を案じ、宮廷医サダムに相談した。王子を軽く問診したのち、サダムは王にこう告げた。
「妊娠中の奥様のつわりが夫にうつる例もございます。ハビール様はお優しいがゆえに心身ともにお苦しみになっていらっしゃるのでしょう。これと言ってお体にお悪いところはございませぬ。ただお優しさのみが、病でございます」
「なんと軟弱なやつだ。わが息子とも思えぬ」
王は両手を広げて苦笑いした。
ハビールの不在中、夫専用の書斎でマティヤが読みかけの本をめくっていた時、ページの間からそれははらりと落ちてきた。
上等な漉き紙に羽根ペンで描かれた、女神の絵。
豊かな黒髪の、薄い衣の、白い腕に鮮やかな鳥をとまらせた、……
どうみてもそれは、アミーナの肖像画だった。
その横には乱れた文字が書き綴られていた。
月の女神よ、砂漠の美酒よ
あなたに孤独は似合わない
無垢なるアミーナ、純潔の姫
愛という光であなたの全身が輝くのなら
それを与える者に何の咎があろうか
マティヤは唇をかみしめると、漉き紙を持つ手をぶるぶると震わせた。
ラキードとハビールはある日、揃って父王に呼び出された。
ハイサムは窓辺に立ち、重々しい口調で二人の息子に告げた。
「由々しき事態が起きている。北方の蛮族どもがラナのオアシス地帯に基地を置いて都を狙っているようだ。早速兵を率いて討伐に向かわねばならない」
「北方の蛮族……」呟いたハビールに、王は声を一層低くして言った。
「我が国は周辺の様々な小国を統合して大きく成長してきた。だが反乱分子が辺境の地で勢力を結集しつつあるという事だ」
「スルヤも、……でしょうか」ラキードは隣で声を上げた。その名は一種の禁忌だった。
「そうだ」
王は一言で答えた。王子は二人とも声を失った。
「お前たちの言いたいことはわかっている。これから討伐する部族には、お前たちの血縁の者たちもいるかもしれぬ。だがお前たちはすでにこの国の王座を継ぐ身だ。国民たちに教えてやるのだ。どこの地のものであれ、バッシャールの王子はこの国を奪おうとする者に対しては容赦しないと」
「……」
「わしの血を引く男は勇猛果敢でなくてはならぬ。ディディの族長、ゴラン殿も兵士とともに同行してくださるとのお話だ。王家を継ぐ者が真っ先に身を危険にさらしてこそ国民の信頼を得ることもできる。迷いはないな?」
「はい」
「返事が小さい!」
「はい!」
王子たちに、それ以外の返事が許されるはずもなかった。
「お前はどう思う」廊下を歩きながらラキードは弟に問うた。
「本当に迷いはないか。心の底から、この戦いについて」
「そんなものを含んでいては戦えないだろう」兄の目を見ずに、ハビールは答えた。
「この都を侵すというなら、それがどんな相手であれ戦うしかない」
「血のつながったものと刃を交えることになるかもしれないのだぞ」ラキードは問いを重ねた。
「敵ならば仕方がない。亡き母上も、今はこの王国の安定のみを願っておられるはずだ。父上のお話ではゴラン殿も力を貸してくださるということじゃないか。負けるわけがない」
「ゴラン……」
その名を思うだけでラキードの胸の奥に紅蓮の炎が燃え上がった。弟には、母はならず者に身を汚されて心を病み、自害したとしか伝わってはいないのだ。
「お前は何も知らないからな」
吐き捨てるようにラキードは言った。ハビールは立ち止まり、兄の顔を睨んだ。
「ぼくが何を知らないというんだ」
「お前の知らないことをさ」
バカにしたような返答に、ハビールは決心したように口を開いた。
「そうだな。ぼくには知らないことがたくさんあるのだろうし、兄さんのこともよくわからない。
たとえばあの美しい人を、どうしてそんな風に放っておけるのかも」
「なんだと? どういう意味だ」
「だが、戦う時は力を合わせるしかない。愛するものを守るために。
わかっているよね、兄さん」
ラキードはこちらをまっすぐに見る弟の視線を、同じぐらいの力を込めて見つめ返し、唸るように言った。
「……わかっている」
兵をまとめての出立はその二週間後と決められた。