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常世の長鳴き鳥  作者: pinkmint
10/10

その10 伝説

 宮殿の裏手に続く椰子の並木が途切れれば、もう砂漠だった。

 駱駝と乙女と鳥は、波打つ砂の海に向かって駆け出した。

 砂漠で育ったアミーナには、駱駝の手綱を取るのは容易なことだった。

 人の手によるあかりはひとつとてなく、視界の果て、星々のきらめきが途切れる場所が地平だった。月と星が白く輝いてしゃらしゃらと夜の歌を歌った。

 頭上を行くエローラも、呼応するように声を上げた。


 フルルルルル、ルルルフルルルルル。ラララララ、ララララララ……


 不思議な節だった。聞くだけで湧き上がるなつかしいような愛しいような思い、命のぬくもりを感じる声。星空の元、命尽きるまで駆け続けたなら、その先にこの歌を歌うものたちがいるような気がして、アミーナは目を閉じて頭上を振り仰いだ。

 

 砂漠の夜の寒さは厳しく、夜が更けるにつれて気温は下がり、凍てつく風が容赦なく吹き付けた。

 どれぐらい駆け続けたか、次第に寒さと眠気がアミーナの意識を奪っていった。

 朦朧としながらも、駱駝がどんどん下り坂を降りているのが感じられた。砂漠はいつか砂岩地帯になり、岩と岩の間を駱駝は速度を緩めて降りていく。

 すでに、谷底と言えるぐらいの位置についたようだ。駱駝は足を緩めた。

 うっすら瞼を開けたアミーナの視界にはごつごつした岩山の影ばかりが映った。

 星屑を散らしたような空を先導していたエローラのシルエットが、尖った岩の群れの一つの中に、すっと降下した。アミーナははっと目を凝らし、気力を振り絞って駱駝を走らせ、その岩のあたりを目指した。

 やがて龍の牙のような形の丈高い岩の群れの中にさまよいこむと、星空は狭くなり、さらに深い闇が迫ってきた。

 もはや駱駝では通れない。

 と、目の前の岩と岩の隙間からぼんやりした灯りが漏れているのをアミーナは認めた。

「ここで待っていてね」

 アミーナは駱駝を降りて、凍える身体を励ましながら、おそるおそる岩の隙間を覗き込んだ。

 四方を灰色の岩に囲まれた、洞窟のような空間がそこにあった。 

 大人三十人ほどが車座になれるほどの広さの砂地の中央に、こんもりと砂を盛りあげられた塚がある。

 その上には枯れかけた花々が添えられ、そのすべてを空間の隅のたき火が照らし出している。

 火のにおいに重ねて知らない香の香りが満ちている。

 見上げた先、岩の天辺にエローラがとまってこちらを見下ろしていた。


『目覚めれば、目の前にはたき火が燃え、そこは知らない景色で、丈高い岩々に囲まれた空間で、黒い影たちが何かを埋め、砂を盛り、塚を築き、花を添え、香油をまき、……』


 少年兵の言葉を思い出して、アミーナは塚に駆け寄ると夢中で砂を掘った。手ではまだるっこしいとなると、たき火から燃えさしの木切れを持ってきてそれで掘った。やがて、手にあたるものがあった。さらに砂をかきどけると、破れた水色のスカーフが見えた。


「……あなた!」

 

 アミーナは夢中で砂を払いのけた。やがて、頭部を水色のスカーフでぐるぐる巻きにされた男の体の一部が現れた。スカーフの間に、あの日アミーナが手渡したジャスミンの花が茶色く変色して挟んであった。

 短く悲鳴のような声を上げ、全身を震わせながらも、アミーナは顔を確認するためにスカーフを外そうとした。だが、香油と油で固められたスカーフとその下の布は容易にほどけない。アミーナは布の一部に爪を立てて懸命に引きはがした。

 やがて顔の上半分が現れた。

 片目は長い睫をそろえて閉じられ、もう片目は砂サソリに食われて無残にも暗いがらんどうとなっていた。

 アミーナはその体の上に身を投げ出すと、両手で夫の体を抱きしめた。


「あなた、あなた、アミーナです。ああ、すべてを捨ててここまでまいりましたのに……」


 激しく慟哭するアミーナの声は狭い空間に響き渡った。

 

 背を波打たせて嘆き悲しむその背に、突如ふわりと誰かの手が置かれた。

 アミーナは振り向いた。

 

 月あかりの下に立つものは、その背の高い戦士は、

 あの日見送った夫……美しく健やかな夫の姿、服装、そのままだった。


 男はかがみこむと、呆然としているアミーナの目の前で遺体を包んでいた布を元通りにし、砂を集め、遺体を埋め戻し始めた。丁寧に砂を盛りあげ終えると新しい花を添え、香油をその上にまいた。下を向いたまま、男は言った。


「やがてきちんとした墓を作りましょう。だが、それまで無事な姿でもいられまい。

 片目だけでも以前通りの様子をあなたに見てもらえてよかった」


 アミーナは隣に座り込んでその顔を凝視した。そして、両手で男の胸元をつかみ、さらに顔を近づけた。その拍子に、男の胸元から黄色い花がこぼれて落ちた。

 姉のマティヤが渡した、黄色コスモスだった。

 男は花を拾った。


「よくぞここまでお出でになりました。万難を排してでも、あなたのもとへ忍んでいく覚悟でいました。エローラが導いたのだとすれば、あれこそは神の鳥です」

 

 彫刻のように端正なその顔を、アミーナは少し顔を離して凝視した。そして、首を振った。


「わからない……」

 

 男は幽かに微笑むとアミーナの手を取って立ち上がり、腰に下げていた幅の広い短刀を鞘から抜いた。そして刃をおのれに向けてアミーナに差し出した。


「あなたに差し上げます。どうかお取りください。ぼくがこれから話すことをお聞きになり、そのうえで兄の仇を取ろうとお思いになるなら、どうぞ使ってください。もし使われないというなら、あなたのために、失われた民が王国を用意して待っています」

「ハビール、……殿下。あなたは、ハビール殿下ですね?」

「はい」

 アミーナは苦し気に首を振った。

「そうであろうと思うのです。似てはいるけれど、わたくしの夫ではない。でも、でも。 

 ……そこにいらっしゃる。わたくしの、ラキード様が。そう思えてなりません」

 

 焚火の揺らめきにその優しい顔貌を揺らしながら、男は言った。


「彼は失われてはいません。ここにいます。そして魂がちぎれるほどに、あなたをこの手に抱きたがっている。だが、現世のこのハビールの手は、罪に塗れています」

「……」

「自分の愛も、憎しみも、このぼくに預けると、兄はそう言いました。ぼくのこのからだとひとつになって、生きる。それならば死は、ない。ひとつの、生しか。そう言って、天へと旅立ったのです。信じられないかもしれませんが、ラキードは、今このからだとともにいるのです」

 

 アミーナは茫然と男の瞳を見つめ、そして問うた。


「あなたが、……ハビール様のその手が、わが夫を殺したのですか」


「……そうです」


「そして、父の安否は……」

「お父上も、わたしが手にかけました」

 

 アミーナはハビールに渡された剣を握り直した。そしてじっとその刃を見つめると、瞳を閉じて、渡されたときとは逆に刃を自分の身に向けて持ち直した。

 ハビールは手を上げて、急き込むように語り掛けた。


「アミーナ姫、どうかお願いです。あなたがご自分の体を鞘にしようと、それでラキードと同じところに行けるわけではない。時間はいくらでもあるのです。死など、望めばいつでも手にすることができる。けれど、後戻りはできません。どうか今までのことをこの口から語らせてください」

 

 アミーナは目を開けると、柄を両手で持ち、そのまますっと剣をハビールに差し出した。


「わたくしには必要のないものです。お返ししますわ」


 ハビールは震える手で渡された剣を受け取った。そして、そのまま腰の鞘におさめると、安堵の長いため息をついた。


「では、ラキードとハビールの、長い物語を聞いてくださいますか」

「わたくしからも、お話しなければならないことがたくさんあります。でもその前に、あなた様の心臓の音を聞かせてくださいませんか」

「……心臓の?」

「わたくしの音も聞いてくださいませ。どうか、その腕の中で」


 真上から風がついと吹き下ろしてきて、焚火の炎が揺らいで消えた。

 空間全体を闇が飲み込んだ。

 二人は暗闇の中、互いに一歩ずつ歩み寄ると、互いの手を背に回し、強く抱きあった。そして、凍てつく星月夜の元、今生きてある互いの肉の温度とその鼓動を伝えあった。

 甘い声が、闇に響いた。


「あなた……」

 

 そして、嗚咽がそれに続いた。


「たしかにここにいらっしゃる。ああ、ああ、ようやく、お会いできました……」


 闇の中で、男の声が優しく答えた。


「この世の軛をすべて離れて、あなたを、この肉と心すべてをもって愛したい。

 罪深いわたしを、受け入れてくださいますか」

 

 燃え残りのたき火が、ぱちぱちと静かな音を立ててはぜた。清流を転がる鈴のような声で、アミーナは答えた。


「どうぞ、あなたの愛と罪のすべてをこの身に刻印してくださいませ。

 今はじめて出会ったかたとして、アミーナはあなた様のすべてを受け入れましょう。

 けれど、わたくしという器はまだまだ小さくもろいのです。命がどこから来るか、愛がどのように産まれるものか、わたくしにはまだなにもわかりません。

 どうか少しずつ、少しずつ、雫を垂らすように、このわたくしを満たしてくださいませ」


 フルルルルル、ルルルフルルルルル。ラララララ、ララララララ。

 

 妙なる歌があたりに反響した。それは長い年月のうちにこの岩山に籠った女たちの祈りが、水を与えられた花のように咲きほころんだかのようだった。

 幻の花は限りなく咲き続け、歌はあたりの岩山に反響してとめどなく響き続けた。


 やがて、砂漠をゆく孤独な旅人がいたなら、見ただろう。

 夜明けの空の下、花々と鈴で飾り立てられた一頭の駱駝に乗る若い王子と花冠の姫を先頭にして進む、異国の兵士と異国の女たちの長い長い隊列を。

 その頭上には色鮮やかな鳥が飛んでいただろう。

 長く尾を引くその鳴き声とともに、女たちの歌も聞いただろう。


 まことの幸せはどこにある。

 まことの幸せは砂の上に、川の中に、砂漠の楼閣のあの方の心の中に。

 ハビール・イル・スルヤ。ラキード・イル・スルヤ。

 アミーナ・イル・スルヤ……



 バッシャールはその後、マティヤの産んだ男児を跡取りとし、王家は継続したという。

 しかし、砂漠に消えたスルヤの幻の隊列が、その後どこに行きついたかは、誰も知らない。

 

 ただ波打つ砂漠の果てに、誰も届かない常世の都があり、

 スルヤの王子がいと美しき姫と民衆を伴って凱旋し、可愛い子どもたちを授かって末永く平和に暮らしたと、

 伝説の鳥の歌が伝えるばかりだ。



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