プロローグ
カツ、カツ、と細いヒールから高い音が発せられる度、男は恐怖に心が支配された。
肥えた腹を震わせ、足をもつらせながら不様に廊下を走る。恐怖と焦りからか自分が何処を走っているのか、自分の館なのに分からなくなりながら。
自分を守る為の私兵や雇い入れていたならず者たちの怒号よりも、響き渡るカツ、カツ、と緩やかに床を蹴る音がいやに恐ろしくて仕方ない。
屋敷の侍女たちが日々、磨き上げた床板に黒い光沢のある革のブーツの爪先が自分を守る為に立ち上がった男たちの間から見え隠れする。
「嫌ねぇ、嫌ねぇ。無粋よね。何なのかしら?」
男たちの怒り声の間に、それでも聞こえる声は、何でもないようなまるで世間話しでもしているかのような声色だった。
「マム、お下がりくださいませ。御御足が汚れてしまいましてよ」
少女の高い声が響き、喉を切り裂かれた男の空気が抜けるような悲鳴が上がった。血飛沫が飛ぶ。
輝かんばかりの金のウェーブの入った髪を持った少女は返り血を軽く身体に浴びながらも心配そうに吊り上がり気味の紅い瞳を瞬かせた。
胸倉が大きく開いた服から見える、白乳色のデコルテに散った赤はどろりと流れ、服と肌を染める。
「汚れても良いのよ。私は今とても怒っているの。あらやだ!ちょっと、アンジェラったら、そんなに汚して!洗濯するの大変なのに!!」
怒号よりも戸惑いと恐怖の声を滲ませた男たちの声に、再び悲鳴が上がった。
「マーチ、お怒りはご尤もだが、そんなに先を急がなくとも彼らに残された道は一つだ」
白銀の真っ直ぐな髪をサラリと腰まで流し、蒼の瞳を鋭く研ぎ澄ませながら無表情の少女は、鈍色のガントレットを装備した拳を頭上から振り下ろす。ひゅ、と口笛のような吐息を吐きながら目の前の男を、その男が彼女に向けていた剣ごと殴り付ける。
金属と金属のせめぎ合いは一瞬で終わり、不幸な男は驚きに目を見開きながら自分の頭がひしゃげる音を聞いた。
べしゃりと音を立て、肉塊は床へ落ちる。
「ええ、ええ、もちろんよ。スヴィトラーナ、彼らに残された道は一つよ。何しろ今回はどうしても皆殺ししないといけないのよ、全くもう!面倒だわ!」
カツ、カツ
どしゃ
カツ、カツ
びしゃ
「ひいいぃぃ!!!!」
信じられない光景だった。
私兵も雇った男たちも、自分の手足となり望むままに動けるような手練れだった筈なのに。
何が。何が起きている。
蹂躙し犯す対象の若い娘によって虫けらのように簡単に、強靭な男たちは捻り潰され、その命を落としていく。
廊下を蹴る靴音と付随する殺戮の音に、男は自らの年齢も立場も考えられず、這うように廊下を逃げ惑った。
その姿に徐々に少なくなっていた私兵も雇った者も、我先にとある者は背を向け、ある者は他の廊下へとバラバラに走り出す。
ふん、と鼻で笑ったのはどちらかか。
背を向けた一人へと軽やかに肉薄し、髪を掴みその首を後ろから掻き切ったアンジェラか。
他の廊下へと逃げようとした一人の肩を握り潰すように掴み、壁へと叩きつけた後に首の骨を折ったスヴィトラーナか。
それとも、もう一つの廊下へ逃げた一人へと二十センチほどの鉄針を投げ刺した彼女か。
「マーマ、他の隠れてた兵士を殲滅したよー。んー、時間が無くて即死できるお薬を作れなかったのは本当に残念だー」
頭の両サイドにお団子を携えた黒髪黒目の少女は、にこにこと愛敬のある笑みを浮かべながら指と指の間に鉄針を携える。
かひゅ、と男が呼吸を取り戻そうとして失敗し、身体を震わせ苦悶に満ちた表情で倒れる。窒息する様を細目に眺めながら少女はぽりぽりと頬を掻いた。
「鈴玉、お疲れ様。ごめんなさいねぇ、いつも貴方に逃げた奴らを任せっぱなしで。落ち着いたら可愛い衣服でもあつらえてあげるわ」
三人の娘たちに労わるように優しげな視線を送り、『母』と呼ばれた者は再び歩き出した。
その歩みを阻む者はもう既にいない。
何が、何が起きている。
全て上手くいっていた筈なのに。
他の貴族や役員共を金や色や力で囲い込み、この強大な国での地位を強固なものにした。
そして、あの厄介な清廉潔白な王の血縁だからと、こちらの思惑を潰してきていたあの男を暗殺してこれからこの帝国をもっと裏から操れる筈だったのに。
「ひっ、ひいっ…たす…助け」
恐怖による汗を流しながらも、助けを求める為に外へと繋がる扉へとようやく辿り着く。
ひゅうひゅうと肺から息を吐き、普段運動をしない所為で痛み出した脇腹を抑えながらも外へと飛び出そうとノブに手をかけた。
これで外へと助けを求めれば良い。
帝都には所々に巡回する衛兵もいるし、隣の屋敷へ逃げ込んでも良い。
安堵の溜息を吐きながらドアノブを捻り、開けようとするが。
「なっ、何だこれは!…うわっ!」
僅かな隙間しかその扉は開くことを許さなかった。
しかも、その隙間からは血がどろりと流れ、床を侵食するように濡らす。
何度もガチャガチャとドアを揺らすと、何かが外で引っ掛かっているのが分かった。
闇夜の中、廊下の燭台による灯のみを頼りに何が引っ掛かっているのかじっと見つめ、それが外にいた私兵の遺体だと分かると男は悲鳴を上げて座り込んだ。
「無粋だし、無様だわ。最悪よ、どうしてこんな奴に殺されたのかしらね。教育が悪かったのかしら」
「ひっ!!!!」
カツンと、靴音が響いた。
恐る恐る後ろを振り向いた男が見たのは、自分へと向けられた三人の娘たちの殺意と銃口だった。
パクパクと魚の様に口を開閉させながら男は絞り出すように言葉を吐き出した。
「わ、私を、貴族院のトップである私を殺したら確実に極刑だぞ!」
「そうね、でも既に私は王弟の嫡男を殺害した容疑をかけられているのよ?仕組んだ貴方が一番分かってると思うけど?貴方を今殺さなくても極刑よね?」
「!?」
柔和に紫の瞳が、口元が、三日月を模る。
手にした銃身は綺麗な細工が施され、殺傷物というよりも美術品としての価値のが高そうに伺えた。
「『どうして一介の酒場の主人がその事を知ってるのか?』って?ねぇ、どうしてかしらね?どうしてだと思う?」
軽く首を傾げると一括りに結わかれた絹糸のような漆黒の髪がゆるりと揺れる。それに合わせて首飾りが揺らめいた。
透明な石が嵌め込まれたそれを黒に塗られた長い爪が引っ掻くように触れる。
「知らなくて良いわよ?どうせ貴方はもうお終いだから」
「こっ、殺さないでくれっ!何でも望みを聞こう!罪に問われないように動きし私には金もある!お前は金で動く情報屋だろう!金ならあるんだ!」
にぃっと紅を引いた唇が歪む。
ドンッと発砲音が静かな屋敷に響いた。
「こっ…この男女めっ…」
「最悪だわ」
男の胸元に空いた穴を見下ろして、バサリと身を翻し、黒衣の『母』は娘たちを見た。
「マム、それでどう致しますの?この国にはいれませんが隣国にでも?」
「マーチが行く所ならば私は何処でも付いて行こう」
「マーマ、引っ越し?引っ越し?」
彼は少しだけ哀しそうな顔をして、娘たちの頭を一人ずつ、ぐりぐりと撫で回す。
「ええ、まぁ『亡命』するわよ、『亡命』」