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クランクイン ver.A


本能的な部分が、きっと最初から知っていた。



湿った匂いと、ぬるい風に包まれる午後。

初夏の小雨はどうも気が滅入る。雨がアスファルトを濡らす匂いは胸焼けがするから、この時期だけは鼻が利くことを呪わずにいられない。


バイト先のカフェバーで、ステンレス製のトレイを磨きながら思わずため息をついた。



「君は本当に雨が嫌いだねえ」

「…じめじめは嫌なんです」

「フィクションの吸血鬼は山奥の古城にいるものだけど、陽介くんはきっと一日も住めないね」

「ですねー…それに俺ハウスダストとか埃っぽいの全然ダメだし」

「それは大変だ。…ああ、カウンターを拭いておいてくれるかい?今日は久しぶりの常連さんが来るんだ」

「はーい」



生憎の雨で、今日はお客がいない。なのにこんな日でも連絡入れてまで来る人いるんだなぁ…


濡らして絞った布巾を木製のカウンターに滑らせる。くるくると円を書くように拭いていけば、角の取れた甘いニスの香りがした。

この店に染み付いた優しい雰囲気が、いくらか雨で憂うつな気分を紛らわせてくれている。それが如何に恵まれてることなのか、ちょっと前までは分かってなかった。

…俺もまだまだ青い。年齢はもうすぐ三桁になるところだけど、結構今になって色んなことを気付かされたりする。



カランカラン、


「いらっしゃいませー」



ドアベルが軽快な音を鳴らす。声をかけながら振り返った先には一人の女性が立っていた。見た目、二十代中盤かな。わりと綺麗めな顔立ちをしてる。この雨の中を徒歩で来たらしく、羽織っていたベージュの上着が所々濡れて変色していた。


ハンカチでカバンに付いた水滴を拭いていた女性は、俺に気付くと驚いた顔をしてから恐る恐る近付いて口を開いた。



「あの、マスターにいつもの席でお願いしていたんですけど」



その言葉に、ああ、と合点がいく。さっきまで俺が拭いていたカウンター席は彼女のための席だったわけか。なるほど。

どうぞ、と案内すればホッとしたように笑って、俺の後に続く。そして慣れたようにスツールに腰掛け、雨で湿った上着を脱いだ。


それと同じタイミングで、裏からマスターが顔を出す。



「日和ちゃん、いらっしゃい」

「お久しぶりです!お変わりないですか?」

「おかげさまでね。日和ちゃんはどうだい?」

「色々あってもうヘロヘロですよー…」

「そうなの?日和ちゃんにしては珍しいじゃないか。とりあえずゆっくりしていって」

「ありがとうございます」



親しい、と分かる距離感で交わされる会話になんとなく耳をそばだてる。とりあえずメニュー表取りにいかないと、



「陽介くん、彼女に出すメニューは決まっているから大丈夫だよ。それよりアールグレイのホットをストレートでお願い」

「わかりましたー」



よく言う"いつものやつ"ってのか。

出しかけたメニュー表を戻して、紅茶の茶葉を出す。



「マスターがバイトさんを雇うなんて、珍しいですね。さっき迎えてくれた時びっくりしちゃった」

「彼はちょっとワケありでね。それに僕もいい歳になってきたから、丁度お手伝いさんも欲しかったところなんだ」

「やだ、そんなこと言って…マスターはまだまだお若いでしょうに」

「そう言ってくれると嬉しいよ。ああ、そうそう。陽介くんはなかなか筋がいいんだ。紅茶も期待してるといいよ」



ちょっと待ってくれマスター、なんでいきなりハードルぶち上げてるんだ。


俺に聞こえてるの知ってて言ったよね?今。あーもう…お茶目すぎるっていうか、悪戯好きっていうか、とりあえず無茶振りなんて困るのに。

その後の俺の紅茶を淹れる手つきが慎重になったのは言うまでもなく。いや、いつもは集中してないとかそういうわけじゃないんだけど。そんな俺の真心を込めた(込めさせられた、とも言う)紅茶がなんとか完成したので、二人の元へ運んだ。



「どうぞ」

「ありがとうございます」



カップを置いた俺の方を一度見て笑う。あ、今の表情結構好きかも。…ってアホか、お客様だろうが。お客様は神。つまり彼女は(今だけは)俺の紅茶を査定してくれる神様だ。邪な目で見てはならぬ。


俺の内心での悪ふざけをよそに、彼女は紅茶を一口含んだ。



「…美味しいです。マスターより優しい味です」

「おや、私のより美味しいのかい?」

「みんな違ってみんないい、ですよ」



拗ねたようなマスターにぷっと噴き出した彼女は、この店によく似合う優しい雰囲気を纏っていた。




***




マスターの何時もの料理を食べた彼女は、食後のデザートもコーヒーもしっかりと楽しんだ。


雨のせいで少なかった客足が幸いしたのか、マスターと俺とで彼女の話に付き合ったりして。専ら仕事関係の話だったけど、なかなか苦労してるようだった。でもそれも、マスターと俺が相槌を打つことでスッキリしたという。ずっと誰かに…というか、仲のいいマスターに聞いてもらいたかったのかもしれない。今の社会ってのは大変だ。

そんなこんなで時間は過ぎ、彼女が腰を上げたのはとっぷりと日が暮れた頃だった。



「長々と居座ってごめんなさい」

「気にしなくていいんだよ、日和ちゃんは大事なお客様なんだから。…そうだ、今日出したデザート、もう1ピース残ってるんだけど、よかったら持って行かない?」

「い、いいんですか?あんな美味しいケーキ…!」

「サービスだよ。陽介くん、先にお会計してあげて」



ウインクが似合うマスターは本当にダンディズムに溢れていると思う。

マスターは厨房に戻って行き、俺は代わりにレジを打った。告げた金額の中に、持ち帰りケーキの分も含まれてないことが彼女の腑に落ちないみたいだけど、マスターの方針だから我慢してもらうとして。


丁度のお金を預かって、後はマスター待ちになる。その間も彼女とお喋りに花を咲かせた。



「そういえば、陽介さんの名字は何ていうんですか?ずっと下の名前で呼んでて失礼じゃないかと」

「その辺は気にしないで、陽介って呼んでください。名字は…あー、ちょっと古いんですけど、(ひのえ)って言います」



まあ年寄りですからねえ。俺も。由来は…なんだったかな、思い出せない。

考え込んでいると、彼女がへえ、と声を洩らした。



「中国の十干…日本で言う干支みたいな、暦とかにも使われてる字ですよね。"火の兄"って書いたり。陽介ってお名前とよく合ってると思います」



素敵ですね、なんて笑う彼女に驚いた。

そんな俺の胸中を見抜いたのか、出版社勤めを甘く見てはいけませんよ、とにやりと笑われてしまった。どうやら、わりとどの分野にも精通して勉強をしているらしい。


…いや、それ以前に、さりげなく呼び捨てされたことにちょっとドキッとした。



「丙陽介さん、かぁ。かっこいいですね。私なんか吉野日和ですもん、平々凡々ですし」

「日和さんの雰囲気に合う、優しい名前だと思います」

「あら、お上手。ありがとうございます」



おどけて笑う彼女に笑い返していれば、マスターがケーキボックスを持ってようやく出てきた。受け取った彼女は申し訳なさそうに、でも嬉しそうに頭を下げる。


出口まで見送りに行くと、雨はもう止んでいた。




****




「この時…というか最初からなんとなく、日和のことが好きだったんだよね。好きになりそうな予感はしてたし」

「へえ…そうなんだ」

「なんか、その子の周りだけ輝いて見えたっていうフィルターっぽい感じじゃなくて、こう、漠然と、この子と一緒に居たいなっていう居心地の良さからの好きっていうか」

「ほうほう、なるほど。それで?」

「それで…ってコラ。何喋らせようとしてんの」

「いやぁ、だって好きになったきっかけとかそういうのって聞いておきたいものじゃない?」

「そりゃまあそうだけど…そうなると日和さんにも話してもらうことになりますが」

「黙秘します」

「許しません」


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