8、Speak of the devil.(a)
「もしもし、未知、私だけど。ごめん、今、仕事中だよね……」
『うん、まあそうだけど。どうした、こんな時間に。なにかあった?』
「あのさ、聞きたいことがあるんだ。手短に済ませるから教えてくれるかな」
『おう、何だよ、早く言いなよ。あ、でも離婚手続きのことなら専門家に聞いたほうがいいぞ』
「そうじゃないって。あのね、は、初デートに関してなんだけど」
遠慮がちに本題を切り出すと、予想通り未知は『はあ?』と素っ頓狂な声を発して驚いてくれた。
いや、驚くというよりはあっけにとられたというべきかもしれない。なんだか、そんな響きだった。
『なんだ、突然。もしかアレか、早速不倫か』
「どうしてそういちいち発想が昼ドラ寄りかな。相手は肖衛だよ。れっきとした戸籍上の夫ですよ」
『え、マジで』
肖衛が部屋を出て行ってから約三十分をただ茫然と過ごした私は、我を取り戻して真っ先に思った。
これは――もしや初デートではと。
だとしたら、一大事だ。
何を着ていったらいいんだ。靴は? 髪型は? というか、そもそもデートって何をしたらいいの。
と、私のデートに関する知識なんてこんな、悲しいくらいお粗末なもので、いよいよ困り果てた挙げ句、現在彼氏持ちである未知に教えを乞うたわけだ。
ちなみに現在地は二階のトイレ。
肖衛には絶対に聞かれたくない内容だから、こっそり携帯電話を持ってここにこもったのだけれど、俯瞰して考えるとおかしな状況だ。トイレでデートの話題って。
「こんなの初めてでしょ。だから私、どうしたらいいのかわからなくて」
『初めてじゃないじゃん。例の強姦未遂のときだって、嫌々行ってたし』
「それとこれとはわけが違うよ」
『どこが』
「それは」
それは。ええと。なんだ。
『違わないっしょ。好きでもない男の誘いに、嫌々つきあうわけだから』
「別に嫌々、ってわけじゃ」
『じゃあ嬉しいの? 坂口肖衛のこと、あれだけ嫌ってたのに。まさか何度も抱かれるうちに体ごとほだされたってわけ。それとも情でもうつった?』
「ち、違っ、そんなことないし!」
『ならさ、テキトーでいいじゃん、服なんて』
「そういうわけにもいかないから困ってるんだよ!」
だって初めてのデートなんだもん。
声をひそめたまま荒げると、電話の向こうで未知がおもむろに息を吐いたのが聞こえた。
『アンタさあ……』
意味深に濁された語尾は、マイクの向こうの風音にかき消されて消える。
『……まあいいけど。あたしなら、デートと言えば動きやすいミニ丈が基本かな。行き先にもよるけど』
「ミニね、うん、わかった」
『あ、でも、あたしの友達で主婦やってる子は、旦那とのデートには上品にキメるって言ってたよ』
「上品?」
『うん。ツインニットに膝丈スカートとか。ほら、旦那の会社の人にばったり遇ったとき、恥をかかせないためじゃん』
なるほど。
『あとは普段じゃ着ないタイプの服を選ぶって言ってたかな。いつもスカートならパンツにする、みたいな。あたし、結婚してないから主婦のデート事情はこのくらいしかわかんないよ』
「ううん、貴重な話をありがと。参考にする」
『そう? ま、気合い入れて頑張れよ』
「うん」
『即答かよ』
「え、だめかな」
『駄目じゃないけど。でもそれってさぁ……』
未知はやはり何かを言いたげにしていたけれど、突如切り替えるようにして声のトーンを上げた。
『ところで、結婚してから実家には帰ってんの?』
耳に痛い話題だなあ、と思った。
「……実はまだなんだ。勇気がなくて」
『勇気ぃ?』
「嫁ぐ時、皆、泣いてたから。今度会っても、そんな顔をされるかなって思ったら……なんだか尻込みしちゃって」
だから電話をかけたこともない。
番号を教えていないから、あちらからかかってきたこともない。
心のどこかで、常に引っかかってはいるのだけれど、それでもどうしようもない、というのが現状だ。
この親不孝ものめ、と罵られるかと思いきや意外なことに、そうか、と反応はやけに神妙だった。
『今度あたしが様子見に行ってやるよ。そしたら報告するから』
「未知……」
なんていい奴なんだろう。じんと心が熱くなる。
「ありがと。未知こそ、困ったことがあったらいつでも私に相談してよ」
『……おう』
どこか、躊躇ったような返答。気付いていたのに、私はこのとき自分のことで頭がいっぱいで、追求することを怠ってしまった。
やり過ごしてしまった。
翌日、このことを深く後悔する羽目になるなんて、つゆほども思わずに。
『また遊ぼうぜ』
「うん。次は渋谷以外のところでね」
ありがとう、ともう一度お礼を言って電話を切る。
廊下に肖衛がいないか確かめてから、私は寝室まで駆け戻った。その足で、部屋の奥に備え付けられたウォークインクローゼットに飛び込む。
――上品な服。上品な服ってどれだ。
片っ端からハンガーを引っ張り出し、鏡の前で胸に当てて確かめる。
肖衛がくれた服はほとんどがヴィヴィアン・ウエストウッドで、ちらほら別ブランドものも混じっている。h.NAOTOとか、MILKとか。こういうの、大好きだけど上品かというとちょっと違う。
唸りながら布の海をかき分けたら、奥の奥に、ゆったりとしたスモック型のシフォンワンピースを発見した。
紺色の地に、ランダムに散った細かな星柄が可愛い。夜空みたいだ。
他の服に比べ妙にシンプルだし、異質に見えるけれど、これも肖衛のセレクトなのだろうか。
「よし、これに決めた」
私はそれをクローゼットの一番手前に引っ掛けると、何事もなかったかのようにベッドへ戻り、イヤホンを耳に入れたのだった。
夕飯は肖衛特製の炒飯。これがなんと、驚くほど美味しかった。
聞けば、彼は貧乏バンドマン時代にラーメン屋でアルバイトをしていたらしく、中華料理なら得意とのこと。
「き、聞いてないよ」
「うん、だって聞かれなかったから」
「聞かれなくても言おうよ!」
完全に敗北した気分だ。
こんなに料理上手なのに、黙って私の家庭料理を食べていたなんて卑怯だと思う。
「今日はよく食べるね。おかわりは?」
「いる」
「ん、じゃあちょっと待ってて」
キッチンへと向かう彼の背中を、私はここぞとばかりに睨みつけた。
この味、覚えておいて絶対に超えてやる!
***
翌朝、まだ眠っている肖衛をベッドに残し、私はウォークインクローゼットの中で例の星空ワンピースに着替えた。サイズもぴったりだ。
毛先をホットカーラーで巻いて、ゴムの入った袖口をすこし捲って、手首に華奢なブレスレットを付けたら、まるでディスプレイ用のマネキンみたいにしっくりきた。
(うん、我ながら上出来)
しかし、メイクを済ませてから寝室を後にすると、肖衛の姿は屋敷内のどこにもなかった。
私は慌てて玄関を出る。小走りで庭を回り込むと、車庫の前に細い背中をみつけた。
「ここにいたんだ。待った?」
声をかけたら、彼は体ごと振り返った。途端、その顔に、ぱっと広がる驚きの色。
半開きになった唇からは、短い声でさえ発せられる様子がない。
あれ、もしかして私、ハズした?
「変かな」
心配になって尋ねると、
「ううん、凄く可愛い。いや、そうじゃなくてさ、……あ、違う、今のは可愛くないっていう意味じゃなくて――」
肖衛はそこで一旦息を溜め、次にそれを吐き出しながら口元を覆い、うなだれた。
頬はほんのり赤いし、黒目なんて完全に泳いでいる。
「……ごめん、ちょっと待って」
いつもどこか飄々としている彼の、珍しく狼狽したさまに、私は目を見張った。
あ、もしかしてこれ、照れてるとか……?
「それ、どこで見つけたのか、聞いてもいいかい」
「それ、ってワンピースのこと?なら、クローゼットに入ってたけど」
「ええ……そうだったっけ……。実はそれ、俺がセリのために、初めて買った服……」
「うそっ」
「本当。ホワイトデーに渡そうと思ってたんだけど」
「え。じゃあ、結婚が決まるずっと前だ」
「そういうことになるね。でも董胡に、服のプレゼントはサイズを間違えると取り返しのつかないことになるって言われて、葬ったつもりでいたんだ」
「奥のほうにちゃんとあったよ。しかも、ぴったり」
「うん。まさか、着てもらえる日が来るなんて――」
動揺してるよ、と彼はストレートに言う。そうして、私の全身を食い入るように見つめた。
やめてほしい。くすぐったくて、走り出したい気分になってしまうから。
「しょ、肖衛こそ、いつもとちがう人みたいだよ」
「俺? そうかなあ」
そうだよ。
グレーのデニムの上に白いシャツをさらりと一枚、なんてさわやかな服装、今まで見たことがない。
眼鏡も社長室にあった銀縁のものだし、ウィッグもぼさぼさじゃないやつだ。
だからかな、顔の精悍さがよくわかる。
正直、こんな人が街中にいたら二度見すると思う。
「センス、ないわけじゃないんだ……」
「何か言った?」
「べつに」
いつもそんなふうならいいのに。
そんなことを思ってしまった所為か、私は助手席に乗ってからもなんとなく彼を直視できずにいた。
対して肖衛は上機嫌。カーステレオから流れる音に合わせ、鼻歌まで披露してくれた。シヴィールの曲のみならず、巷で流行中のJ-POPまで。
やっぱり上手いな、と思う。
董胡は夏肖さんを天才的なヴォーカルだと言っていたけれど、私は肖衛こそ本物だと思う。
「じゃ、行こうか」
パーキングに車を入れると、肖衛は私の手を取った。
その手を握り返す余裕もなく、ぎくしゃくした動作でぎこちなく歩き出す。
肖衛はというと、リードをするようにさりげなく半歩先を行ってくれて、いつになく紳士的だった。
すれ違ったカップル達が同じように手を繋いでいるのを見たら、顔面が一気にあつくなった。
端から見たら私達、多分あんなだ。
「ど、ど、どど、どこ、いいい行くの」
「なにどもってんの。さては男と手を繋ぐの、初めてとか」
「は、初めてじゃないもんっ」
「ふうん。まさかとは思うけどその経験、体育祭のフォークダンスとか言わないよね」
「……」正確には運動会、だ。
「図星かあ、かわいいなあセリは。ところで目的地はここ。もう着いてるよ」
言われて、はっとしてあたりを見渡すと、そこは浅草駅前の商店街だった。
気付いた途端、高齢者と外国人ばかりがやけに目につき始める。全体の街並は、まさに下町とでもいおうか。
ごみごみしているし綺麗とは言い難いけれど、すごくあったかい雰囲気だ。こういうの、嫌いじゃないけど。
「ここでデート?」
「そう、いいだろ。商店街と仲見世をぶらぶらして、雷門と浅草寺を見学するんだ」
「……渋いなあ」
流石は四十路間際の発想、って言ったら怒られるかな。
苦笑う私を人混みから庇いつつ、肖衛は得意げな笑みを見せる。
「だってこの辺、美味しい和菓子屋が多いから」
(あ……!)
あれは結婚した翌日のこと。いちご大福をもらった私が、肖衛に言った一言。
“私、和菓子好きなんだ”
覚えててくれたんだ。
「さて、定番はあげまんじゅうの食べ歩きだけど、どうする?」
「たべるっ」
「ふふ、そう来なきゃ。帰りの手みやげは舟和の芋ようかんでどうかな」
「うん! 芋ようかん大好き」
空腹時なら一箱は軽い。
思わずスキップで彼を追い越したら、いさめるように腕を引かれ、隣に戻されてしまった。
ここが今日の私の定位置ということなのだろう。
「そう。俺はセリのことが大好きだけどね」
人混みで言う台詞じゃあない。でも、今日だけは見逃さないと駄目かなあと思った。
恋人同士でいるのが今日一日の決まり、だもんね。
***
揚げ饅頭というのはその名の通り、饅頭に衣をつけてからっと揚げた、あつあつの絶品和菓子だ。
浅草に来るのは数年ぶりだけれど、前回もしっかり頂いた記憶がある。
店先で揚げているのを見ると、どうしたって素通りは出来ない。あれはもう、魔力かな。
肖衛は焼きたてのごま煎餅を齧っていたけれど、最後の一欠片を「口直し」と言って私にくれた。
これは間接キスと言うのかな。間接食べ? いやいや。
照れ隠しで、俯いたまま一口で頬張った。味なんて、わからなかった。
そんなことをしているうちに私達はいつの間にか、浅草寺の目の前にいた。
「はー、もうお腹いっぱい。ってこれ、参拝しながら言っていい台詞かな」
「まあ失礼には当たらないだろ。ところでセリ、お昼ご飯は何が食べたい―― って、この話題のほうがよほど拙いような気がする」
「確かに、これから神仏に祈ろうっていう人間が、退散してからの計画をするのは失礼かも」
各々、五円玉を賽銭箱に投げ入れてしばし合掌。
(家族が健康でありますように)
祈ってから目を開くと、肖衛はまだ、熱心に頭を垂れていた。
何を祈っているのだろう。
夏肖さんのこと? それともご両親の?
どちらにせよ、気軽には尋ねられそうにないな。なんて思っていたら、肖衛はぱっと顔を上げて
「安産祈願しておいたから」とすがすがしく笑った。
「はっ!?」
「今はまだでも、三日後はわからないじゃない? だからさ、母子ともに健康で、そして第二子も無事に産まれることを祈ってだね」
第二子って。
気が早いというか、それはもはや捕らぬ狸のなんとかなんじゃないかと思う。
気を遣って損した。
「五円でそこまで聞き届けてくれるほど、気のいい神さまなんていないよ」
「そうか。わかった、じゃ、手付金程度だけでも――」
「あのね、今日は夫婦じゃなくて恋人としてのデートなんでしょ。だからそういう、家族計画の話はなし」
人混みを抜け出してから、そう言って睨みつけた私を、彼は恍惚とした笑みで見下ろした。
「ああ嬉しいよセリ。認めてくれてたんだね。俺達が相思相愛の恋人同士だって」
私は窮して短く唸る。ああ、またやってしまった。
どうしてこうも毎回、迂闊な発言ばかりを繰り返してしまうのだろう。くやしい。
「……お腹空いた」
「あれ、いっぱいだったんじゃないの」
「肖衛と会話をするにはそれなりのカロリーが必要なんだよ」
どうして、と肖衛は首をひねる。わざとだろうなこれ。
「じゃあランチにしようか。あ、この近くに昨日話したラーメン屋があるんだけど、挨拶だけさせてもらってもいいかな」
「ラーメン?」
ああ、あの炒飯の。
「ね、それをお昼にするわけにはいかないの」
「いかないわけじゃないけど。いいの、デートの昼食がラーメンで」
「なんで。ラーメン好きだよ私」
「……俺、セリのそういうところ、好きだなあ」
眉尻を下げて笑って、私の頭にぽんと掌を乗せる。
ほんの少し感心したような呆れたような、いつもとは違う表情に、私は息を呑んで見蕩れた。
(どうしよう、今日の肖衛、別人みたい)
と、私と同じように彼に見蕩れているとおぼしきOLさんがひとり、うっとりした顔ですぐ横を過ぎた。
途端に胸の奥がざわざわしはじめる。正直、いい気分とは言い難い。
なんだろ、これ。いやだ。……すごく、嫌だ。
私は肖衛の手の感触に、これまでにはない戸惑いを覚えはじめていた。