7、I'm hooked on…….
イレギュラーな初訪問から一週間後、私は高屋さんに呼び出され、再びクアイエットゾーンの事務所を訪れていた。
「ごめんなさいね、わざわざ来て貰っちゃって。ここ、交通の便も悪いのに」
「いえ、自宅にいても家事しかしてませんし。少しでもお役に立てるなら嬉しいです」
まあ、と高屋さんは嬉しそうに頬を押さえる。笑顔になると、やっぱり董胡の妹なのだなと実感する。少し下がり気味の目尻が、なんとも言えず色っぽいのだ。
そうして彼女は、手持ちのファイルを私にずいと差し出した。
「これ、隣の部屋ね。終わったら、給湯室の掃除をお願い」
「はい、頑張ります」
本日は季節外れの事務所の大掃除。微力ながら、私もその、手伝い要員というわけだ。
肖衛は“歌ダビ”――つまり新曲のレコーディングがあるといって朝早くに家を出たから、私がここにいるとはゆめゆめ思っちゃいないだろう。
彼以外のシヴィールメンバーはというと、私が辿り着いたときにはすでに埃まみれになっていた。
普段、華やかに舞台を彩るロックスターには、およそ似つかわしくない格好だ。
「おい芹ちゃん、そういうことは軽々しく言わねェほうがいいぜ。美鈴は人を馬車馬のようにこきつかうからな」
事務室に顔を覗かせた董胡は、頭にタオルを巻いていて、一見とび職のお兄さんみたいだ。
ちなみに、美鈴というのが高屋さんの下の名前。夫であるマネージャーさんと区別するために、皆『美鈴さん』と呼んでいるらしい。
「ちょっと董胡、タバコふかしてないでそこの棚、壁際に移動しなさい」
「だそうだ。頼んだぞ叶」
「ええっ、もう無理だよぉ! 僕昨日のオケでへとへとなんだからあ」
単パン姿でへたりこむ叶が可愛くて、頬が緩んでしまう。
オケ、はオケ録りの略で、オケ録りというのはスタジオで伴奏の録音をすることなのだと、この間肖衛が教えてくれた。
その行程が終わってようやく、歌パートのレコーディングへ進めるというわけだ。
業界は専門用語が多いから、時々暗号みたいに聞こえる。
「へとへとォ? おまえ、まだ十六だろうが。俺が十六の頃っつったらなァ」
「昼まで寝てて、夜どおし暴走してたって母さんが言ってたわ」
「……くそっ、おふくろ……ボケたふりしてしっかり覚えてやがるぜ」
「グダグダ言わずに働きなさい。古ぼけたポンコツこそ、定期的に動かさないと錆び付いてあっという間に廃棄されるんだから」
「ポンコツかよ。せめてフリマで売ってくれ」
「あんたじゃ引き取りの業者に高いリサイクル料金を請求されるのがせいぜいだわ」
容赦ない。
苦笑う私達を横目に、柳は廊下でひとり黙々と段ボールを組み立てている。目が合うと、小さく会釈をしてくれた。
なるほど、と思った。
クアイエットゾーンをまとめあげているのが美鈴さん、縁の下の力持ちが柳さん、そして実質的に動かしているのが肖衛、という構図か。
自分にも何か出来ないかな、なんて思うのは、やはりあのことを知ってしまったからだろうか。
肖衛の両親と、弟さんのこと。
一人暮らしの肖衛がひとり、あれだけ大きな屋敷に住んでいること、不思議には思っていたけれど――家族を待っていたのなら、それも頷ける。
九年と言う長い歳月をひとりで過ごしてきた彼の背中は、私の目にいっそう細くうつった。
肖衛の役に立ちたいと、初めて思った。
だから今日こうして呼び出してもらえたのは、実際、願ったり叶ったりだったのだ。
***
「聞いたんだ? あいつの家族のこと」
背中から核心を突かれて、シンクを磨く手を止める。
振り返ると、董胡がいかにもサボタージュ真っ最中、といった体で缶コーヒーBOSSブラック無糖を傾けていた。
「肖衛がそう、言ってましたか」
「まあな。あいつ、スゲエ後悔してたぜ」
「後悔?」
「ああ。芹ちゃんに会って理由がわかった。モロに同情が顔に出てるから」
痛いところを指摘されたな、と思った。出していない、つもりだったのだけれど。
「で、どこまで聞いた?」
「ご両親が生死不明ってことと、弟さんが眠ったままだということだけ。董胡はもっと、深い事情を知ってるんですよ、ね」
「まあな」
「あの、私、お聞きしたいことが」
問うと、彼は顔の前で羽虫を払うように手を振って、敬語はやめてくれと言った。
「じゃあ、き、聞きたいんだ、けど」
「なに?」
「夏肖さんのこと。もしかして、ナツっていう芸名、そこから来てるんじゃないかなって」
意識して敬語を取るのは思いのほか難しい。
照れ隠しでうつむいたままクレンザーを振ったら、シンクの中は雪が降ったみたいになった。
「ああ、それは正解。元々、俺がバンドに誘ったのは夏肖のほうだからな」
「えっ」
「夏肖があんなことになって、もうシヴィールも終わりかと思ったとき、肖衛がふらっと訪ねて来て、自分が代わりをするって言い出したんだ」
「代わり……」
「そう。肖衛が歌ってやると、眠ったままの夏肖の唇がわずかに動くんだそうだ。自分が歌ってるみてェな気になるんじゃねえの」
要するにあいつは弟のために歌い始めたんだ、と董胡はタバコを一本くわえたものの、弄ぶだけで火をつけはしない。
「弟を目覚めさせるため。弟の夢を叶えるため。俺としてはそれ、ちょっと複雑だがな」
「そう、だよね。みんな、真剣だもんね」
「それだけじゃねえよ。いつか夏肖が目覚めたら、あいつは全てを弟に譲って、消えちまうんじゃねえかと思うから」
「消えるだなんて、そんな――」
強く否定はできなかった。
そういえば肖衛は言っていた。使い捨てにされるのは嫌だから大手レーベルからのデビューを断ったと。
あれほど経営についてこだわるのも、弟さんが目覚めるまでシヴィールの音楽活動を安定して継続させるため、なのかもしれない。
「ま、最近は杞憂だと思ってるけどな。芹ちゃんがいてくれてるし」
「私?」
「そう。君は最強だ。弟のダミーである“ナツ”に大勢が熱狂するなか、たったひとり、ほんものの肖衛をみつけたんだから」
すごいことだぜ、と董胡は色っぽく笑う。そして、大きな手で私の頭をくしゃくしゃっと撫でてくれた。
「だからあいつは、君に夢中になったんだ」
(そうだったのか……)
正直私は、例のバレンタインのことなんてちっとも覚えてない。肖衛扮するガードマンに出会った記憶すらない。
でも彼の立場になって考えてみれば、素のままの自分に『お疲れさま』と言われたようなもので、それは特別嬉しかっただろうと思う。
私はナツがわざわざダサい肖衛に変装するのを、ずっと変だと思っていたけれど逆だったんだ。肖衛が、ナツを演じていたんだ。
そして彼は私の前だからこそ、本当の自分でいたかったんだ……。
「どうしてそういうの、もっと早く言ってくれないかなぁ」
思わず零した本音に、董胡は半笑いで「だよな」と応える。
「でもさ、あいつ繊細だから。同情されるのは嫌だったんじゃねえかな。君からは、ちゃんとした愛情が欲しかったんだと思うぜ」
「……お金で買うような真似をしておいて?」
そのうえ、無理矢理あんなこともして。
「ま、そこは不器用ゆえだ。君を好きになった日も、あいつ相当動揺してたし」
「動揺? 想像できない」
「あんな若い子に本気になるなんて、犯罪だろー、ってさ。俺は速攻で口説けって言ったんだがな。君はナツのファンみたいだったし。でもあいつ、二の足踏んでさ」
「私、沢山怒鳴られたけど……おかげで肖衛のこと、大嫌いだったし」
不器用だからさぁ、と董胡は重ねていう。思わず笑ってしまった。
肖衛の恋愛下手は董胡のお墨付きだったのか。
「派手な夏肖とは対照的に、冴えねェガリ勉だったしな、肖衛は。女の子には縁がなくて」
「わかる気がする。あんなにダサければ、そりゃ敬遠されるよ。……ねえ、夏肖さんてどんな人だった?」
「夏肖? そうだなぁ、一言でいえば天才的なヴォーカリストだったよ」
董胡の目は、壁を通り越してもっと遠くを見ている。
「いつも人の真ん中にいてさ。カリスマ性もあったんだろうな。真人は特に、夏肖に惚れ込んでた。あれは崇拝に近かったかもしれねェな」
真人――かつてシヴィールでギターを担当していたメンバーだ。
董胡と同じくナツの親友で、年齢はナツと同じだから現在は三十八歳だったと思う。
「そういえば真人ってどうして脱退しちゃったの?」
「さあな。実は俺もよく分からねェんだ」
「仲間なのに?」
「それを言うなよ。今もどこにいるのか、行方が知れないんだ」
「えっ、それって失踪なんじゃ」
「かもな。……ああでも、直前に変なことを聞いたな」
なにそれ、と尋ねると、彼は難しい顔をして後ろ頭をガリガリかいた。
「このままじゃナツに――ひいては夏肖にも迷惑をかけるとか、やっぱり天罰はくだるんだとか」
天罰……?
どういう意味だろう。疑問に首を傾げると、
「あーっ、何やってんだよ董胡!」
突如初穂が給湯室に飛び込んできて、私は咄嗟に一歩あとずさった。びっくりした。
「俺の芹生を勝手に口説いてんじゃねえよ」
真ん中分けの鬼太郎みたいな銀髪は後ろでひとつに束ねられていて、顎のラインがすっきり見える。
姿が見えないと思っていたけれど、抱えている書類とはたきから察するに、外で埃でも払っていたのだろう。
「いつからおまえのものになったんだ。彼女はナツの奥さんだろうが」
「うるせえ。結婚なんて紙一枚のことじゃん。取るに足らねえよ。な、芹生」
「な、って言われても……」答えようがない。
「なんなら明日からでも俺が養うし。著作権を持ってるナツと比べたら稼ぎは足りねえかもしれないけどさ」
「おい初穂、お遊びはそのへんにしておけ。芹ちゃん、困ってるだろ」
両側から交互に肩を抱かれて、私は硬直した。何、この状況。
「放せよ董胡」
「嫌だね。ダチの女は俺にとっても大事な女なんでね」
「格好つけてんじゃねえよ、オッサン」
「ハッ、無節操なガキが」
ぶつかり合う視線は鋭くて、火花が散っているみたい。ああああ、どうしよう。
「あの、ふたりとも」落ち着いて、と言おうとした時、給湯室の入り口に黒くて大きな影が差し込んだ。
「アンタ達、私の前で堂々とサボるなんていい度胸じゃない」
「み、美鈴っ」
「キビキビ働きなさい! うちは経費節減で人員不足なんだからね!」
そんなことで、話は曖昧なままこの日は終わってしまったのだけれど。
***
「美鈴さんから聞いたよ。事務所の掃除、手伝ってくれたんだってね」
その晩二十二時を過ぎて帰宅した肖衛は上機嫌で、一日スタジオにこもりきりだったとは思えないほど元気だった。
「大したことはしてないよ。皆より先に帰ってきちゃったし」
「そんなことない。給湯室、すごく綺麗だったよ。董胡もいい奥さんだって褒めてた。本当にありがとう。鼻が高いよ」
「そ、そうかなあ」
董胡のことだから、肖衛を思って大げさに言ってくれたのだろうと思う。
実際は私の存在が初穂の労働意欲を削いでいたわけだから、ひたすら申し訳ない。
「でさ、レコーディングの打ち上げを明日するんだけど、セリもどうかな。それとも何か、予定でもある?」
「ううん、ないけど。いいの? 私までお邪魔しちゃって」
「もちろん。美鈴さんもぜひにって。それに、古い段ボールを整理してたら、昔の――初期シヴィールのデモテープも出てきてさ。董胡が、セリに聴かせたいらしいんだ」
「初期? ってことは、夏肖さんのころの」
言ってしまってからハッとして口を押さえた。これ、話しても良かったのかな。
しかし肖衛は「董胡から聞いたんだね」と穏やかに笑いかけてくれる。
「そう。シヴィールはメンバー構成だけで言うと、三期にわかれててね。十三年前、発足当時のヴォーカル『ナツ』は俺じゃなくて夏肖だったんだ。ベースも、初穂じゃなくて董胡の幼馴染みが担当してた」
十三年前、となると私が六歳の頃だ。小学校に上がったか上がらないかというころだから、知らなくて当然か。
「彼らの活動期間は約四年、夏肖が事故に遭うまでで、俺が加わったのはそれから三年後。今から六年前だね」
「あ、覚えてるよ、その頃のシヴィール。私、中学生だったんだけど、こっそり親戚のお姉さんにくっついて行ったライブハウスで観たの。確か、復活ライブって書いてあったなあ」
お姉ちゃん曰く『ナツの歌声が久々に聴けて幸せ』とのことだったから、夏肖さんが肖衛に入れ替わったことには気付かなかったのだと思う。
「へえ、それ、俺の初舞台だよ。初穂にとってもそうみたいだったな。そうか、その頃からセリは客席にいてくれたんだ」
「そういうことになるよね。全然知らなかった……」
運命的だねえ、と呟き漏らして肖衛はゴブレットからワインを一口飲む。
普段、私の前ではあまりお酒を飲まない彼だけれど、こうしてレコーディングを終えた日などは、労をねぎらう意味で私のほうからすすめている。
「で、そこからまた四年後かな。デビュー間近で真人が脱退して、叶が加入して、三期めに突入。今のシヴィールが完成したわけだ」
言って、ふと淋しそうな目をする。その表情には、自信なんてまるでなさそうに見える。
昼間の董胡の話を思い出し、私は急に不安になった。
いつか夏肖さんが意識を取り戻したら、という、あの。
「肖衛は……歌うの、好きじゃないの?」
問うと、彼は両目を丸くした。
「え、何、突然」
「ねえ、肖衛は夏肖さんの代わりになるためだけに歌ってるの? いつか、そのポジション、か……返すつもりなの?」
聞かずにはいられなかった。もし――。
もし将来、肖衛が私の前から消えてしまったらと思うと、いてもたってもいられなくて。
しかし彼の答えはというと
「……さあ、どうだろうね」
すごく曖昧で、私の不安はますます色濃くなるだけだった。
***
翌日、私と肖衛が事務所に到着したのは、昼も近い十一時半。
応接室には、ケータリングの業者によって、すでに食事の準備が整えられていた。
打ち上げと言うからには居酒屋にでも行くのだと思っていたのに、ドリンクはウーロン茶だけとかちょっと拍子抜けだ。
肖衛によると、叶が未成年だから、とのことだった。なるほど。
「お招きいただいてありがとうございます。これ、ちょっとしたものですけど、良かったら」
「まあ、春巻き! 美味しそうだわ。もしかして芹生ちゃん特製?」
「はい。今朝、ここで食事をするって聞いたから、急ぎで。あ、でも味は保証できませんよ」
「何言ってるの。パリッと綺麗に揚がってるじゃない。同じ主婦として頭が下がるわ」
感心したように息を吐いた美鈴さんの手元から、初穂はすかさずそれを一本奪って、口に入れる。
「ん、うま! マジでうまい」
フライングはやめなさい、と小突かれても悪びれもしない。そのうえ、
「僕も僕も、一本ちょうだい。うわ、揚げたてだぁ」
「こら叶、真似しないの!」
「細けぇこと言うな美鈴。どれ、俺にも」
「バカ董胡、汚い手で掴まないでっ」
「では、割り箸で失礼」
「柳まで。あんたたち、いいかげんにしなさいよ」
「いいじゃない美鈴さん。セリの料理は美味しいよ。よし、もうはじめよう」
「社長がそう言うなら……」
こうして乾杯もなく、食事はなし崩し的に始まってしまったのだった。
肖衛は輪の中にいる私を満足そうに眺めていたけれど、さりげなく初穂の視線を遮るように席をとった。
「何か食べる? 取ろうか」
「ううん、肖衛こそ食べるでしょ。私、取ってくる」
何がいいかな、と尋ねながら立ち上がったら、斜め後ろで柳さんがくすっと笑った。
「本当に仲がよろしいんですね。羨ましいです」
「え、いえ、そんなことは」
「今日はご相伴にあずかれて光栄です。いつも思っていたんですよ。ナツさんの愛妻弁当、本当に美味しそうだと」
ごちそうさまですと丁寧に頭を下げられて、私は慌てて背筋を伸ばした。
「とんでもないです。こんなに豪華な料理があるなら、家庭料理なんて持ち込まなかったんですけど」
「あら、私が食べたところ、業者さんには悪いけど芹生ちゃんの春巻きが一番おいしかったわ」
「美鈴さんまで……もう勘弁して下さい。私、まだまだ新米なんですから」
「年数なんて関係ないわよ。それにしても、なんだかわかっちゃったな、私」
「何がですか」
「肖衛くんのみならず初穂まで、揃ってあなたに夢中になっている理由」
美鈴さんはウーロン茶を片手に、優しい目で私を見下ろす。
「芹生ちゃんって、若いのにお母さんみたい」
首を傾げたら、もちろんいい意味よ、と焦ったように付け足された。
「肖衛くんの見立てかしら、服はお洒落なのに、爪は短く切りそろえてあったり、バッグがくたびれてたり、垢抜けていないところがすごくいい」
「えと……」全然いい意味には聞こえないんだけど。
「だからかしら。芹生ちゃんってすごくやわらかいの」
胸の前で手を交差させたら、察したのか「体型じゃなくて雰囲気のこと」とフォローが入った。
「独特の柔らかさがあって、一緒にいると安心感をおぼえるの。男性なら、きっとなおさらね」
その横で同意するように、肖衛が微笑んでくれる。咄嗟にうつむいてしまった。
私といると、安心する? だとしたら、どうしよう、嬉しい。
「あー、ちくしょう、俺の前でイチャイチャするんじゃねえ!」
割り箸をくわえたまま、初穂が歯ぎしりをした。
本音なのだろうが、動作がコミカルな所為か嫌味は全くない。
「イチャイチャした覚えはないよ?」
「したじゃねえか。目で、目で通じ合ってた!」
「それは否定しないけど」
「どうやったらそんなイイ娘と結婚できるんだよ。やっぱ財力か? 金なのかっ、おい芹生、ナツのどこが良かったんだよ」
「え」
「言ってみろって。俺、まだ納得できる答え、聞いてねえぞ」
答え。それは、先日のプロポーズもどきに対する返事をさすのだろうか。
それとも、お見合い会場に初穂がいたら、という話のほう?
どちらにせよ求められているのは、私が肖衛を選んだ理由、に違いない。
「それは……」
答えなんかあるわけがない。あの時は、借金さえ払ってくれれば、相手なんて誰だって良かったのだから。
だけど。でも。
と、困窮した私の前を董胡がおもむろに横切った。
「くだらねえ話は終わりにして、早速アレの鑑賞会をしようぜ」
部屋の隅に置いてあった、古いラジカセを拾い上げる。
おかげで初穂は、むっとして黙り込んでしまった。
「あ、初期シヴィールのデモテープ! 僕、それ楽しみにして来たんだっ」
「おう、おまえの大好きな真人兄ちゃんの演奏も入ってるぞ」
嬉々として席を立った叶の頭を、董胡は大きな手で撫でる。そうして、再生のボタンをガチンと入れた。
途端、楽器の音よりも早く、歌声が流れた。
初めて耳にする、夏肖さんの声。
それは男性にしては高く、澄み切っていて、伸びが良かった。でも肖衛の歌声とそっくりで、差なんてほとんどない。少し機械的かな、というくらい。
音源がテープだから、音が荒くて細部の差がわからないだけかもしれないけれど。
続いて、ドラムとギター、ベースが声を追いかける。
今のシヴィールより、わずかに重いように感じた。ねっとりしているというか。
ロックらしいといえばらしい。でも、夏肖さんの声質には若干、合っていないような。
「……凄い、けど、わたし……今のシヴィールのほうがいい」
叶がぱっとこっちを見た。
現在のシヴィールの楽曲は、ひとつひとつの音がもっと、小気味良く弾けている。
そうして、ナツの声をうまく引き立てているのだ。
つまり全体の調和がとれているから、ロックに馴染みがなくても、すんなり聴くことができるのかもしれない。
だから誰もが、魅了されずにはいられないのだ。
「今のメンバーのほうが、私、」
ずっと好き。口が勝手にそう動いていた。
だから歌い続けて、と、本当はそう、肖衛に言いたかったのだと思う。
私は――。
私にとってのナツは、肖衛ひとりだ。
本物だからといって、夏肖さんのほうがいいとは思えない。代わりでもいい。肖衛の歌を聴いていたい。
聴いていたいんだ。これからもずっと。
すると予期せず、ラジカセがバツンと再生ボタンを跳ね上げ停止してしまった。
「電池切れか?」
董胡がそれを持ち上げた瞬間だった。
私はラジカセの底からひとしずく、何かが滴るのを見た。
咄嗟に脳裏をよぎったのは、上の弟が古い玩具を弄っていた時のこと。
あれは。
「……触っちゃ駄目!」
電池カバーに触れようとした董胡の手を、払いのけるようにしてそれを奪い取る。
すると掌がぬるっと滑り、直後にラジカセを取り落としてしまった。
「セリ!」
肖衛が私の手を掴もうとしたけれど、そこを庇うように背を向ける。まずい、ピリピリしてきた。
「さ、触らないで。ラジカセにも、素手で触ったら駄目。電池、液漏れしてる、っ……」
言って給湯室に駆け込むと、蛇口をひねって掌を流水にさらした。
私にとって、こんな事故は初めてじゃあない。
弟が小さい頃、電池を四本入れる玩具を使っていて、同じようなことがあった。
三本を真新しいアルカリ乾電池、一本を外国製の古い乾電池にしたのがまずかった。
あとから聞いた話によると、その使い方では古い電池が過放電になり、液漏れを起こすことがあるらしい。
アルカリ乾電池には強いアルカリ性の液が充填されているから、触れれば化学やけどをする危険性がある。
「セリ、大丈夫」
追いかけて来た肖衛が、青い顔で私の手を掴んだ。袖口が水道水で濡れるのも気にせずに。
「あ、うん。すぐに洗い流したから」
「そう。でもちょっと変色してるね」
「医者に見せたほうがいいんじゃないか」
続けて姿を見せた董胡は、明らかに狼狽している。
「平気。大したことないから。董胡こそ、指、怪我してない?」
「え、あ、ああ」
「そっか、良かった。ギタリストが指を怪我したら、商売あがったりだもんね」
今回は防げたのかなあ、と思った。
あのときは両親の留守中に弟にやけどを負わせてしまって、酷く後悔したけれど。
「ホント、良かった」
シヴィールの音を護れて。
「芹生ちゃん……」
董胡の眉間に皺が寄る。
その表情は複雑そのもので、けれど真剣で、泣き出しそうにも見えた。
「ごめんな。痛くないか」
「ううん。気にしないで。液を触っちゃったのは私のミスだし」
「……この恩は必ず返すから」
「やだ、大げさだよ」
「そんなことねェよ。ありがとう。本当に、ありがとうな」
前回と同じように私の頭に触れようとした彼はしかし、不自然にその手を引っ込めた。
「肖衛、彼女の病院代、請求してくれ」
「そんなのいらないよ。董胡のせいじゃないだろ」
「いいから。そうでもしねェと、俺――」
「董胡?」
「いや、なんでもねえ。悪ィ」
その後、仕切り直した食事の席でも彼は、私に対してどこか他人行儀だった。
ううん、むしろ誰の呼びかけに対してもうわのそらで、何の音も耳に入っていないようだった。
申し訳なさから来ている態度なのかな、と、このときは思っていたのだけれど。
私がその本当の意味に気付くのは、もっとずっと先の話。
***
夕方、私は肖衛に無理矢理病院に連れて行かれ、だから帰宅したのはそれから。空は、綺麗な茜色に染まっていた。
ご丁寧にもガーゼを当てられた右手を庇いつつ、玄関をくぐる。途端、私の体はふわと浮いた。
「ちょ、な、何っ」
抱き上げられたのだ。いわゆる‘お姫様抱っこ’の状態で。
「怪我が治るまで、家事は禁止。今日の夕飯は俺がつくるから、セリは寝室でゆっくりしてて」
「そんな、大げさすぎるよ。お医者様にも軽い炎症だって言われたじゃない」
「うん、でも、念のため」
いいこだから言うことを聞いて、といつかのようにたしなめられて、黙るしかなかった。
運び込まれたのは寝室。彼は私をベッドに横たえるだけでなく、丁寧に布団までかけてくれる。
ここまで来たら強引に押し倒されるのがお決まりのパターンなのだけれど……。
「本でも読む? それとも音楽でも聴く?」
今日はそんなこと、ないみたいだ。
「えと、……音楽がいいな。でも、あの、本当にいいの? 私、こんなに楽して」
「俺がしてやりたいんだよ」
言うなりポケットから携帯音楽プレーヤーを取り出し、イヤホンを私の耳に差し入れてくれた。練習部屋でよく見かける、彼の愛用品だ。
いつも肖衛の耳の中にあるものが私の耳に入っているなんて、考えると変な感じ。
再生ボタンが押されると、流れ出した前奏は―― 大好きな“GRAVITY”だった。
「他の男のために怪我をするなんて、本当なら許し難いことだよ」
抱き寄せるようにして、髪の上から頭にキスをされる。
あまりにも優しい行為だったから、ビク、と肩がふるえてしまった。
「本当はこのまま、君がもっと痛がることをしてやりたい気分だけど……相手は董胡だし、今回だけは特別に見逃してあげる」
微笑んで、オデコにもキス。
「そのかわり、明日は一日中俺だけのものでいてもらうから」
唇をそっと重ねて、続けて、斜めにやわらかく塞がれる。
同時に、彼の歌声が両耳から流れ込んで来たら、どうしようもなくクラクラした。
もう、頭の奥がショートしそう。
ヤバいよ。私、こういうの、……中毒になってる気がする……。
「デートしよう、セリ」
「……っえ?」
「そういう当たり前のこと、まだしたことがなかっただろ、俺達」
明日は一日恋人同士として過ごそう、と彼は言って、部屋を出て行った。
デート……肖衛と、私が?




