5、Look before you leap.(b)
「は、は、放し、」
情けない。こういったことに慣れていない私は、あっという間に指先が痺れて、コップを落としてしまいそうになる。
「やだ。……なあ、ナツと離婚して俺のところに来いよ」
「はっ? じょ、冗談」
「いや、案外本気。芸能人の離婚なんてよくある話じゃん。俺、芹生ならバツイチでも全然かまわねえし」
「や、あの、初穂さん、噂になってる彼女、いっぱいいるじゃないですかっ」
「全部切る。芹生が手に入るなら、惜しくねえもん」
言い返す言葉が無くなって、私は大いに青ざめた。
さっきは、おふくろかよ、なんて言っていたくせに何が琴線に触れたというのだろう。理解できない。
後ずさろうとすると、辛うじて足先がつく程度の高さまで抱き上げられてしまった。
「……ナツとはお見合い結婚だったんだろ」
つむじに押し付けられていた唇が、髪を滑り落ちるようにして耳殻へと到達する。
鳥肌が――立つ。
なんだろう、この……違和感。
「それ、相手が俺だったら断った?」
「え」
お見合い相手が肖衛ではなくて、初穂だったら?
あの場所で初穂が待っていたら。そう、想像してみる。
……狂喜乱舞したかもしれない、と思った。
少なくとも、襖を開けて肖衛を目にしたときのようなショックは受けなかっただろうし、抵抗もしなかっただろう。
何故なら彼は、私が中学生のころから憧れ続けたシヴィールの、ベース奏者なのだから。
「ナツじゃないと、どうしても駄目か?」
「だ、だめ、って」
そんなことはわからない。比べろと言われても突然すぎて。
まず、ナツのことは大ファンだったけれど、夫が彼でないといけない理由なんてないし、逆に初穂ではいけない理由もない。
それでも離婚しようなんて考えには、ただの一度も、及ばなかったんだ。
「はな……して」
喉の奥よりもっと下のほう、胸の奥がもやもやする。
肖衛の知らないところで、別の男に抱き締められているということが、無性に後ろめたい。
後ろめたくて――怖かった。
「芹……」
「や!」
耐えきれず、初穂の胸を突き飛ばす。
コップの中身は半分以上、床に零れてフローリングを豪快に濡らした。
のみならず、溢れた水滴は袖口の隙間から肘まで入り込んでくる。
違和感? 違う。
これは恐らく、罪悪感だ。
まばたきをするたび、そこに肖衛の顔が浮かぶ。
裏切れない。裏切れそうにない。
「私は……」
――私は。
何が言いたかったわけでもない。ただそれだけが、咄嗟に口をついて出た。
すると玄関から突如、騒々しい音が聞こえた。どかどかっと足を踏み鳴らして、まるで借金取りが押し入ってくるような。
私達は同時にそちらへと視線を振って、直後に凍り付いた。
そこに姿を現したのが、他ならぬナツだったからだ。
「初穂、急いで」
荒い息でそう言うと、彼は初穂にバイクのヘルメットを投げて渡す。
どうしてここに。――もしやバイクで迎えに?
あっけにとられている私の首にネックストラップを素早くかけ、ナツは踵を返す。
「タレコミがあったんだ。ここのマンション、今、記者が張り込んでるらしい」
見れば、ストラップの先にはシヴィールの所属事務所の社員証がさがっている。
恋人と間違えられないよう、社員を装ってここを出ろと言いたいのだろう。
でも、初穂のスキャンダルなんていつものことだ。どうして今回に限って、本番前にわざわざバイクで駆けつける必要が?
そんなことを考えつつ玄関を出たときには、すでに彼らの姿はなかった。
だから気付けなかったのだ。
このときナツが、一度も私の目を見なかったこと。
***
ふたりはその後、バイクでスタジオに乗り付けて、どうにか収録に間に合ったとのことだった。
董胡がわざわざ電話で教えてくれた。そのバイクが実は董胡の愛車だったという話もだ。
私の携帯番号はナツから聞いたと言っていた。シヴィールのメンバーにだけ、緊急用にと教えたのだとか。
その直後、柳さんからも丁寧な「よろしくお願いします」という挨拶があった。彼はドラムスティックを手放すと驚くほど腰が低いから恐縮してしまう。
何はともあれ私はスーパーに寄ってから帰宅して、夕食の支度をしながら肖衛の帰りを待っていた。
今晩は煮込みハンバーグだ。明日のお弁当に入れてあげようと、小さめのものもふたつ作っておいた。我ながらマメな主婦だ。
「……遅いなあ」
時刻はもう二十二時をまわっている。朝、出かけるときには『二十時には帰ってくる』と言っていたのに、どうしたのだろう。
何かあったのだろうか。仕事が長引いているのだろうか。
(おなか、空いてないかなあ)
他にすることもなくてテレビをつけたら、音が出た途端にシヴィールの曲が流れて、どきっとしてしまった。
これは最近オンエアが始まったばかりの、チョコレートのCMだ。
畳と見紛う大きさの画面に五人のライブ風景が映し出されて、シークレットライブにご招待!なんてキャンペーンのナレーションが入る。
実はこっそり応募した、と言ったら笑われるだろうか。かといって、チケットが欲しいなんて厚かましくて言えそうにない。
CMが終わってからチャンネルを変えて、ニュースを観ながらソファーに転げたら、私はいつの間にか眠ってしまっていた。
目を覚ましたのは二時間後だ。階上から、椅子を引く音がしたからだった。
「ん……?」
肖衛が帰宅したのだろうか。それとももしや不法侵入?
恐る恐る二階を覗いてみれば、すでに着替えを済ませた彼が、書斎のデスクに向かっていた。
「おかえり肖衛、帰ってたんだ。ごめん、私、ちょっとうとうとしてて、気付かなかった」
スツールに放り出してあった、変装用のスーツをハンガーに引っ掛ける。
「今日はハンバーグだよ。お豆腐が入ってるやつ。肖衛、好きでしょ」
返答どころか振り返りもしない彼の、かたくなな様子に気付いたのはそのときだった。
いつもならただいまと言って、笑顔で差し出してくれるお弁当箱が足下に置かれていた。
「肖衛……?」
具合でも悪いのかとその顔を覗きこんだら、予想外の冷たい視線を返されて、心臓が凍り付きそうになった。
「……君のそういう行為は、一切が対象を選ばない無償奉仕だったんだね」
「は?」
「俺はてっきり君が、借金を負い目に感じて家政婦の真似事をしているんだと思っていたんだけど」
違ったみたいだね、と彼は口元だけで笑う。何?
「それ、どういう」
「考えもしないで聞き返すの? 君は本当に――慈悲深いわりに残虐だよね」
何を言われているのだろう。
「それとも聖母にでもなったつもりなのかな。哀れな人間を見つけたら、慇懃な施しをするのが君のライフワークってわけだ」
早く打つ脈が、体の内側を痛くする。まさか。
「初穂の……家で、家事したこと言ってるの」
「他にも心当たりがあるのかい」
やっぱり。
肖衛の台詞はいつもよりずっと穿っていて、そのうえ揶揄的だ。
こんなふうに責めたてられたのは初めてで、正直、ショックだった。
「ないよ。どうしてそんな皮肉めいたこと、言うの」
わけがわからない。
だけど一番わからないのは、今更他人行儀な呼びかたをされていることだった。
いつもなら‘セリ’と呼ぶのに、今日に限って君、だなんて……まるで突き放されているみたいだ。
なんで。
なんでこんな些細なことに胸を痛めているのだろう、私。
「初穂を迎えに行けって言ったの、ナツだよ。肖衛だよ」
「そうだね。それは俺も、迂闊だったかな。いや、愚かだったよ。君があそこまで、他の男に尽くすとは思わなくて」
「尽く……」したつもりなんてない。だってあれは。
あれは、初穂にしてあげたくてしたことじゃ。
絶句した私に、彼は背を向ける。そうして、ぽつり、乾いた声で零した。
「……別に良かったんだ。今はまだ、負い目から家事をしてくれているのでも。それが、俺だけに与えられた特権なら……」
え?
途端に、ぼさぼさの後頭部が淋しそうに見えた。
「毎日、それだけでもう、充分幸せだと思ってたのに……」
つまりはこれが本音だったのだろう。
私そのものだけでなく、私の労力も、手料理も、すべてを独占していたいと。
他の誰にも渡すつもりはないのだと。
それだけのことを、主張したかったのだろう。
となると、わざわざバイクで駆けつけて来たのも、私が初穂の相手としてマスコミに認識されるのが嫌だったから、なのかな。
なんて不器用なひとなんだ、と思った。遠回しすぎるよ。意地悪だし。
いや、最初からわかっていたことだけれど。
「馬鹿」
ばかだよ、肖衛。
「なんで妬く必要があるの。私が、誰のためにあそこまでしたと思っ……」
言ってしまってから、はっとして口を押さえた。
と、目を丸くして振り返った肖衛と、ばっちり視線が交差してしまった。
「今、何て」
「いやっ、何も」
「言っただろ、全部俺のためだったって」
「そこまでは言ってない!」
ドツボだ。これじゃ、肯定したも同じじゃない。一気に冷や汗が噴き出した。
卒倒しかけた私の手を取り、肖衛は泣き出しそうな顔で笑うと、
「……ねえ、今でも俺のこと、大嫌い?」
手の甲に軽いキスをひとつ寄越した。
挨拶程度のそれに、私の心臓がどれだけ暴れたのかは、悔しいから言わないでおこうと思う。
思えばこれが私達の、初めての夫婦喧嘩だった。
ほんの少しの言い合いだったけれど、私は彼の本質を垣間見た気がして、不覚にも嬉しいと思ってしまったのだった。
だから夕食後、寝室に運び込まれても、いつものように抵抗する気はおきなかった。
「ごめんね、さっきは」
ベッドサイドに腰掛けて、私を膝の上にのせると、後ろからぎゅっと抱き締めてくる。
もういいよ、と答えたら、その手は私のパジャマのボタンをひとつ、外した。
節の張った指が月光に浮かび上がって、きれいだ。
「初穂に、セリを譲れなんて言われたらつい」
そんなことを言ったのか。大胆すぎるよあの人。私は思わず苦笑う。
でも、口説いたことを隠さないでいてくれたのは、有り難いと思う。あのままでは後ろめたかったから。
上から四つめのボタンが外されていく。はだけた首筋にかかる、彼の髪がくすぐったい。
「でも、断ってくれたんだろ。それは……嬉しかった」
あえて答えなかった。恥ずかしいし、初穂からそこまで聞いたのならもう充分だろうと。
すると、黙っている私を担ぎ上げ、肖衛は少し物足りなそうに言った。
「今日はやけに大人しいね。俺が怒った所為かな」
「そういうわけじゃ」
「なんにせよ、いつものセリらしくないな。そうだ、趣向を変えてみようか」
言って、ベッドに私を沈めながら、彼がしたのは眼鏡とカツラを脱ぐことだった。
途端に、目の前には憧れ続けた男の姿が現れる。
「えッ!?」思わず声が裏返った。
「今日は最初から最後まで、ナツでいてみようかな」
不敵な笑みで見下ろされ、私は両胸を隠しながら後ずさる。冗談でしょ。
憧れの――というより理想の異性に押し倒されて肌を晒せるのは、よほどの自信家かあるいは、相手に見合った肉体を持つ人間だけだ。
確かに以前は、ナツにヴァージンを捧げたいなんて思っていたけれど、あの望みにはどこか現実味がなかった。なかったからこそ願えたのだ。
実際には無理だ。絶対に無理だ。
ナツと違って、ちっともスレンダーなんかじゃないし、童顔だし、幼児体型だし、そのくせ胸だけは発達してるし、くびれてないし、悪いところを挙げたらきりがない。
そりゃ、ナツと肖衛は同一人物だけれど――でも、私の中ではまるきり別なのだ。
ナツは今でも、雲の上の人だ。
「や、待っ」
「どうしたの、急に逃げ腰」
「待って、そ、それだけは勘弁」
「ふうん。ナツより肖衛のほうがいいってこと?」
「そういうことじゃなく!」
「おかしいなあ。いつだったか、ファンレターに書いてあったよ。ナツのことが好きです、大好きですって」
覚えがあるだけに痛かった。
今すぐホグワーツに入学して忘却術を会得したい。そうしてこの人の脳みそを真っ白にしてやりたい。
「ほら、言いなよ。ナツ本人だよ。大好きなんだろ」
「違っ……」
「ちがうの?」
「そ、そうじゃな」
「じゃあ好きなんだ」
「そ、――」
ああもう、どうにでもなれだ。肖衛のことはさておき、ナツを好きなのは事実だし。
「……うだけどっ、も、もう、やめぇっ」
「ふふ、可愛い。やっぱりセリはそうでなくちゃ」
満足そうに舌なめずりをした彼を、最後の力を振り絞って睨みつける。
逆効果だということはもちろん承知していたけれど、そうでもしなければ気が済まなかった。
やっぱりさっき、喧嘩ついでに殴っておけば良かった。畜生。
***
そんなことがあって、私は翌朝、彼の腕の中で目覚めた。例えでもなんでもない。実際、だきまくらのように羽交い締めにされていたのだ。
寝息を立てているのが肖衛ではなくナツだと気付いた瞬間、飛び退きそうになった。
そうしなかったのは、枕元にある時計が目に入ったからだ。七時三十分。お弁当を作るにも朝食の用意をするのにも、もう間に合わない。
で、つい脱力してしまったのだった。せっかくハンバーグ、作っておいたのにな。
それにしても、彼はサラリーマンのように毎朝規則正しく起きだしては、同じ時間に出かけていくから不思議だ。
芸能人って生活が不規則なイメージがあったのだけれど、案外みんなこうなのだろうか。
「……おはよう、セリ」
「あ、おはよう、起こしちゃった?」
「ううん、そろそろ起きるつもりだった」
彼は寝起きと共にカツラと眼鏡を装着し、いつもの肖衛の姿に戻った。良かった。私は胸を撫で下ろす。
「ごめん、朝食もう間に合わないや。途中で何か、買って食べてくれる?」
「ううん、出かけるのは午後からにする」
「ええ? でも、みんな待ってるんじゃ」
「柳以外はみんな、いつも午後から出てくるから大丈夫だよ。柳にはメールを入れておく」
寝室を出、階段を下りかけていたのに、思わず振り返ってしまった。
「いつも? どうしてふたりだけ」
「うん、ちょっとね」
「ちょっとって……。ねえ肖衛、私に隠してること、あるでしょ」
ちょっとくらい困らせてみようと思って言ったのに、彼は携帯電話を片手で操作しながら「うん、あるよ」と悪びれもなく即答した。
「セリが俺に興味をもってくれたら、その都度教えようかと思ってたんだけど」
いよいよ興味がわいて来た? と尋ねるしたり顔に、悔し紛れで背を向ける。
その都度、ということはつまりひとつではないということか。
「きょ、興味なんてないし。でも、……気になることならいくつかあるよ」
「例えば?」
董胡から聞いた言葉を思い出し、迷ったけれど、小さな声で「家族のこととか」答えた。
そのとき、左手に握っていた携帯電話が震えて、メールの受信を私に告げた。
「そうだなあ。今日、せっかく午前があいたから、行ってみようか」
「行くって」聞き返しながら、それを開く。
「俺の両親のところ」
「えっ」
短く漏らしてしまったのは、肖衛の誘いが唐突だった所為じゃあない。
メール画面に、予想だにしなかった文章が表示された所為だ。
《セイナちゃん、傷のこと、本当に忘れてるの?》
―― “彼”だ。
送信元はフリーメールのアドレスになっている。しかし、どうして私のアドレスを知っているのだろう。まだ、未知とシヴィールの面々にしか伝わっていないはずなのに。
そうして私は、あるひとつの可能性に気付いた。
もしや。
もしや“彼”は、シヴィールの中にいる?




