#An extra entertainment. Ⅲ(b)
甲高い声を上げて垂直に三センチほど飛んだ彼女は、着地と共に素早く下腹を覆い隠す。
そう、本当に隠すべきところより、ちょっと上を。
「ちょっ、やっ、バカ夏肖っ」
「うん、馬鹿でいいよ。だからその手、退けて」
「嫌ー!」
「セリ、お願いだから。……ねえ、そろそろ許して貰えないかな」
強引に腕を掴んでそこから引き剥がす。現れたのは縦に数センチの傷跡。
未生がこの世に誕生した証だ。
跪いてそれに唇を押し当てると、セリは身をよじって抵抗した。
「や……っ、見、ないでぇ」
セリが未生を出産したのはシヴィールのツアー中で、俺が地方に行っているときだった。
自然分娩の予定だったのに、突然の破水で帝王切開を余儀なくされたそうだ。付き添いをした桂木さんが教えてくれた。
俺が駆けつけたときすでにセリは未生を抱いていた。要するに全てが済んだあとだったというわけだ。
――“ごめん”
大事なときに側にいられなかったことが申し訳なくて、無意識のうちに詫びていた。
呵責と感動がないまぜになって溢れてきて、涙が止まらなかった。
しかしそれ以来、彼女は明るい場所で俺に肌を見せることを厭うようになった。
どうやら、謝られた理由をその傷跡に見いだしてしまったらしい……と、最近になって美鈴さんが教えてくれた。母親同士、そんな話が出たのだとか。
つまりこれを目にすれば、俺が気に病むと思っているのだ、セリは。
どこまで優しいんだろう。もっと責めてくれていいのに。
だって、籍を入れる気もないのに彼女を孕ませようとしたのは、確実に自分に縛り付けておくための理由を作りたかったからだ。
卑怯な手を使ってでも、セリを、一生側に置いておきたかったんだ。こんなの身勝手すぎるだろ?
「きれいだよ。世界一きれいな傷跡だ」
体を屈めて、懺悔をするように再びそこにキスをした。
「っや、嘘」
「嘘じゃない。こんなに誇らしいもの、他にない」
「でも、こんな、痛々しいし……っ、やめ……!」
「やめない。やっと確認出来たんだ。本当は最初から、毎日こうしたかった」
だって。
「だってこれは、君が命をかけて俺を愛してくれた証拠じゃないか」
少し、舌を出して傷跡を辿った。目立たないといえば目立たないのだが、それでも本人には気になるところだろう。
若いのに、ごめんね。
するとセリは俺の頭をぐいと退け、真っ赤に上気した顔で「ちがうもん」と言った。
「か、勝手に過去形にしないでよ。あの時だけじゃないもん。今だってそうだもん。それに、これから、ち、誓おうっていうのに……!」
何を、と問うのは意地悪すぎるかな。
そのまま抱き寄せて、ひとしきりキスをした。メイクが崩れない程度に、というのがちょっともどかしかったけれど。
「愛してるよ、セリ」
「……それは神様の前で言おうよ、今日のところは」
「明日からは言い放題って意味にとってもいいのかな、それ」
「今更なこときかないでよ。昨日だって一昨日だって怒濤のように言ってたくせに! 言い過ぎて説得力がなくなっても知らないからっ」
「それは困るなあ」
***
式場は、一見してフランスの片田舎といった感じで、チャペルを取り囲むように独立型の披露宴会場が四棟ならんでいる。
何故ここを選んだのかといえば、さほど乗り気でなかったセリが気に入ってくれたから、というのが一番の理由だ。
しかし、隠れた理由がもうひとつ。
「よぉ、新郎新婦さんよ」
「俺は新郎だよ。新婦と一括りの単語だと思ってるなら間違いだからね、初穂」
彼だ。
このとんちんかんな男が披露宴の途中で席を立ち、帰りに他の会場に迷い込んで迷惑をかけないよう、配慮したわけだ。
つまり初穂の行動こそが本日の懸案事項その3、なのだった。
義父、叶、初穂。
全員がセリへの執着心を持っている。それも、並々ならぬレベルの。
俺としては、今日を境にそれを鎮めたいのだけれど――。
「あのさ、この扉が開いたら教会式のスタートなんだから、もう席についてもらえないかな」
「ハッ、やだね。ここで貴様の足を止めてやる」
来ると思ったんだ。俺はチャペルのドアを前にしてうなだれる。
誓いの言葉の途中で、ちょっと待ったぁ!とか言うパターンでなかっただけマシと考えるべきか。
「誓いの言葉なんて言わせないからな!」
「……これから行われること、一応は把握してるんだね。意外だよ」
「この俺を見くびるなよ。おまえはこの扉の向こうのバンジーロードを越え、芹生を親父さんから受け取ったり受け取らなかったりするんだろ」
「飛ばないよ。縁起でもないこと言わないでよ」
「んで、あれだ、外人っぽいヤツによ、“アナタハ神ヲシンジマスカ”とか聞かれるんだ」
「だったらびっくりだよ」
斜め前、介添え役の男の子の肩がぶるぶる震えている。ああ、何故俺はこんなところで初穂と掛け合い漫才をしているんだ。
「どうしてもこの先へ行こうっていうなら、俺の屍を抱えていけ!」
「……越えていったら駄目かな」
「ゆるさん。貴様の腕など俺の重さで明日筋肉痛になればいい!」
もうだめだ。俺は念のためポケットに入れておいた携帯電話に手をかける。
かくなる上は警備員を呼ばせていただくしかない。
すると、想定外の事態がおこった。
初穂の背後のドアが突然大きく開かれたのだ。そうしてそこから――
「なんてね、本物はこっちだよ初穂」
兄貴が姿を現したのだ。俺と、同じ姿の。
本気で目を剥いた。いつの間にそんなものを用意したんだ。髪型までそっくりじゃないか。
「なにっ、謀ったな夏肖……!」
「ふふふ。君の行動など最初からお見通しなのだよ。これ以上の分身の術が見たくなければ降参するがいい」
いや、むしろ兄貴、いつの間にこんなに馴染んだんだ、初穂と。
「クソッ、諦めるしか……諦めるしか道はないのか……っ、ああ、俺の芹生……!」
「愛とは儚いものよふははは」
完全に染まっているじゃないか。
以前から素直な性格で、垣根のない人付き合いをするタイプだったが、それが仇となったのか。
苦笑する一方、彼がいるからこそ今のクアイエットゾーンがあるわけで、俺は感謝の気持ちでいっぱいになる。
実は、数年前まで俺がグダグダやっていた事務所は、兄貴が社長を引き継ぎ、以降、驚異的な発展を見せている。
頭をすげ替えるだけでこうも成長するものかと、一同驚嘆したものだ。
兄貴には本当に頭が上がらない。なぜこんな身勝手な弟に、ここまで尽くしてくれるのだろう。
――いや。
そういえば、両親の葬儀のあとに言っていたっけ。
『夏にあやかる、で夏肖。君は輝く人間なんだ。そして僕は、夏肖を衛る、で肖衛。……昔、父と母からそう聞いたことがあるよ』
律儀なヤツだ。だが、嫌いじゃない。
「こちらへ来たまえ初穂くん。今後の地球の平和について話し合おうじゃないか」
方向性はちょっと間違えてしまったようだが。
見れば、介添人の震えが一段と増している。
むしろ彼こそが、明日筋肉痛に苛まれる被害者なのだろうなと俺は頭の片隅で思った。
***
そんなことがあって、つまり教会式は兄貴のおかげで無事に幕を開けたのだった。
打ち合わせ通り、俺はバージンロードの先にいる神父のもとまで歩いていく。
席は向かって右側が小此木家、つまりセリの家族、親戚、そして友人。左側が我が坂口家の親戚と友人だ。
とはいえ、友人に関してはどちらがどちらという線を引くのが難しかったため、男性は左、女性は右に座ってもらった。だから、美鈴さんの位置は右側だ。
祭壇を前に立ち止まり、振り返る。チャペル内の照明が一段と暗くなる。そして、厳かなパイプオルガンの音が鳴り響き――。
先程、俺が入ってきたドアが静かに開いた。
いよいよ新婦と父親の入場だ。
しかし主役に先駆けて、姿を見せたのはふたつの小さな影だった。
マネージャーと美鈴さんの愛娘である理緒ちゃんと、天使のような我が娘・未生だ。
ふたりには新婦の前を行き花を撒くというフラワーガールをお願いしたのだ。
俺は密かに『写真を取り損ねるなよ』と柳に目配せ。もし失敗したら、次のツアーで使うドラムスティックをジャイアントポッキーに変えてやることになっているから彼も必死だ。
しかし……早いもので、理緒ちゃんは今年で小学二年生。
性格は母親にそっくりできびきびしているし、面倒見もいい。事務所ではいつも未生の世話を焼いてくれる小さなお姉さんだ。
セリはそんなふたりの背を、ベール越しに微笑ましく見ている。母親の顔、とでも言おうか。
「……夏肖くん」
すぐ目の前まで来ると、義父はセリの手を握りしめたまま俺の顔をキッと睨んだ。
ここで娘の手を新郎に渡す、というのが父親の役割なのだが……。
「やりたくないんだがどうしたらいい」
「い、今ここでそうおっしゃられましても」
「やりたくないものはやりたくない。Uターンしてもいいだろうか」
「ゆ、Uターンからの、さらなるUターンがセットでしたらば……」
最悪の事態だ。俺は笑顔を貼付けたまま冷や汗を垂れ流す。言う気がしたんだ、これ。
「借金のために娘を嫁がせようだなんて、本当に馬鹿なことをした」
「あの、ざ、懺悔は懺悔室でお願いします」
「探したが見つからなかった。ああ、あのときのことは反省している。二度としない。神に誓う。だから娘を返してくれ!」
「み、みんな見てますから、おとうさ……」
「わたしは君のお父さんではないっ」
既視感を覚える会話だ。微妙に噛み合っていないところがまたカオスだ。
言い争いに気付いたのか、会場係及び招待客の皆様が騒ぎはじめる。ああ、どうしたらいいだろう。
こんなときの対処をお願いしておいた兄貴はさっきの騒動で奥へ行ってしまったし……。
実は新曲プロモの撮影中です、とか言い訳としては座布団マイナス三枚のレベルだし。
するとそこまで黙っていたセリが父親に向かってボソリと一言、放った。
「嫌いになるからね」
威力は絶大だった。義父は両目をぎゅっと閉じ、震えながらセリの手をこちらへと差し出してくる。
会場内も、納得したように静かになった。助かった。だが、なんだろうこの哀愁は。
「ありがとうございます。ご安心下さい、必ず幸せにしますから」
ドレス姿の彼女を脇に引き寄せつつ俺は――。
義父に自分の将来を重ねてしまって、どうにも同情を禁じえなかった。
娘って残酷ですね、お義父さん。わかります。ハネムーンから帰ったら日本酒でも持って伺いますので。ええ。