4、Look before you leap.(a)
主婦って、慌ただしいなと思う今日この頃。
新米の私も例に漏れず、まず、起き抜けから肖衛を送り出すまでの一時間なんてまさに戦いだったりする。
コーヒーメーカーをセットし、ドリップをしている間に、朝食とお弁当の準備を同時進行でこなすのだ。
お弁当は、三週間前に残り物を詰めてあげたら好評だったから、以来欠かさず作っている。
しかしこれは義理といえるのかどうか、非常に難しいライン。だって、毎日笑顔で空っぽのお弁当箱を差し出される喜びったらない。
つまりお弁当作りは、結婚後初めて私が自力で見つけたささやかな楽しみだった。
で――。
この日も平常通り肖衛を見送った私は、リビングの窓を拭きながら徐々に色濃くなりゆく庭木を眺めていた。
早いもので、季節はもう春と言うより初夏に近い。
実家にいた時は、こんなふうに季節を感じる余裕なんてなかったように思う。となると、あの頃のほうがよっぽど忙しかったってことになるのかな。
そんなことを考えていたら、エプロンのポケットで、携帯電話が鳴った。
『もしもしセリ、お願いがあるんだ』
肖衛だ。というより、今は仕事場にいるわけだからナツか。
とにかく彼の口調はいつもより早口で、少し焦っている様子だった。
「どうしたの? わすれもの?」
『ううん、実は、初穂が悪い病を再発してね』
「びょ、病気!?」
『そう。“面倒臭い病”っていう。つまり遅刻中なんだ』
「あ、ああ……」
インディーズ時代も、初穂は遅刻の常習犯だったっけ。まだあの癖、抜けてなかったんだな。
『セリにこんなことを頼むなんて筋違いだし、本当に申し訳ないんだけど、……迎えに行ってもらえないかな』
「私が?」
『うん。マネージャーも今、車で向かってるんだけど、運の悪いことに事故渋滞にハマっちゃって。このままじゃ収録に間に合わないんだよ』
お願いできないかな、と懇願する肖衛に私はやっぱりノーとは言えず、雑巾をその場に置くと、慌ただしく家を出たのだった。
***
プッシュ回数、約三十回。
隣の部屋と比べチャイムのボタンがやけに薄汚れている理由を私はようやく悟って、ついでに肖衛の心労をもわずかばかり理解したのだった。
確かに病的だ。ここまでやっても出て来ないなんて。
高校時代より愛用のトートバッグをまさぐり、取り出したるは最終兵器。
これは例の練習部屋から拝借してきた、初穂のマンションの合鍵だ。こんなときのために、メンバー全員が持っているのだという。苦労してるなあ、みんな。
そうして室内への侵入を果たした私は、ベッドの上に眠り姫をみつけた。
「……まさか本当に寝てるとは思わなかった」
長い上に綺麗にカールしたまつげは天然物だろうけれど見事すぎてフェイクかと疑ってしまう。そのうえ、手触りの良さそうな銀髪には寝癖ひとつない。
初穂は自宅にいてもやはり初穂らしい。
プライベートにナツの姿を引き摺らない肖衛を思うと、なんだか不思議だ。
「初穂さーん、収録始まっちゃいますよ。起きて下さい」
呼びかけてみても、反応はない。痺れを切らしてその肩を揺すると、ようやく反応が返ってきた。
「……んー……、サヨ? ナオ?……アイカ?」
一体何人女がいるのだろう。
「あの、私、芹生です。ナツの家内の」
肖衛の、とはあえて言わなかった。
「ああ……なんだってここに」
「仕事ですよ。ナツに頼まれて、起こしに来ました」
「うぇ。最悪……」
彼は女性さながらの容姿を惜しげもなく歪ませて、さらに布団を深く被る。こりゃ重症だ。
初穂―― 本名・鷺阪初穂の自宅マンションは、坂口邸から五百メートルほど離れた街中にあった。
寝室を探すのにあちこちのドアを開けさせて頂いたのだけれど、マンションの間取りは2DKだった。
一人暮らしの男性には充分な広さだと思う。でも、部屋の中には足の踏み場といったものがまるでない。
だらしないのは時間だけじゃなくて、女も含めた生活全般だったわけか、と私は大いに納得した。
しかし――。
初穂はマンション暮らしなのに、どうして肖衛はあんなに豪華な一軒家を持っているのだろう。
嫁いだ当初から綺麗だったし、家族と一緒に住んでいた可能性は低いと思う。
綺麗……ううん、生活感がないというのかもしれない。
となると、肖衛の家族はどんな人達で、今どこで何をしているのだろう。
そして肖衛は、何故未だにそれを私に話してくれないのだろう……。
いや、そんなことを考えるより今はこの人を出勤させるのが優先か。
「初穂さーん。起きて下さい。もう充分寝たでしょ」
念のため‘さん’付けで呼んだ。ご機嫌を損ねないためだ。
そんな配慮を足蹴にする勢いで、怠惰な生き物は文句を垂れる。
「おまえに俺の睡眠の何が分かるんだよ。量より質だぜ、寝るっつう行為はよ」
言っていることとやっていることが違う気がする。
どう突っ込んだら良いものかわからず黙っていると、己の間違いに気付いたのか、彼は布団からにゅっと顔を出した。
「昨日の睡眠は質が悪かった。よって量で補う」
「……それ、今晩から実践するとかじゃ駄目ですかね」
「だめ。鮮度が落ちる。品質管理には鮮度が肝心だもんよ」
半分寝てるんだろうな、これ。
「あのですね、じゃあ仕事は」
どうする気なんですか。
言いかけると、それを遮るようにして初穂は気怠そうに左手を振り、
「いいよそんなもん」
と鉛を含んだような声色で言った。
「は?」
空耳かと思った。
だがしかし、彼はご丁寧にも念を押すように「そんなもんいい」と繰り返してくれる。
無意識のうちに、左の頬が引き攣った。当然だ。
それは私にとって地雷にも匹敵する言葉だったのだから。
―― せっかく頂いた仕事に対して、そんなもん、だ?
どんな言い草だ。うちの父なんて土下座をして安い仕事をかき集めて働いて、ようやくひと月に一袋、五キロの米が買えたってのに。
という本音を口に出さなかったのは、私の些細なプライドゆえだ。
私は確かに貧乏だったけれど、それで他人に見下されたくはない。
特に、彼のような―― 仕事のありがたみがわからないような人間には。
怒りに任せて布団を両手でわしづかみにする。と、中の人は驚いたのか、体をびくっと震わせた。
かまわず、力任せに引っ張ってそれを取り上げ、廊下のほうへと投げ捨てる。
無言のうちの実力行使だった。
ベッドの上にぽつり残された初穂の、まんまるになったマナコを私はきっと生涯忘れない。
「お、おまえ、おふくろかよっ」
「もう何とでも」
こうして無血開城に成功した私は、踵を返してキッチンへと向かった。
道々、脱ぎ捨てられたままの衣服を拾い集めながら。
***
「女ってさあ、そういうの、これみよがしにやりたがるよな」
上半身裸にジーンズのみといういかにも中途半端な格好で、初穂はキッチンに顔を覗かせる。
こっちだってやりたくてやってるわけじゃないよ。と言い返す労力も惜しいから、私は黙々と手を動かす。
茶碗もコップも山積みだったし、箸に至っては洗い桶の中から十膳出て来た。
この惨状から察するに、その“女”とやらの出入りはここ最近ないとみた。
「アタシ料理得意なのー、ご飯作ってあげるー、とか言ってさあ」
初穂はわざとらしい裏声で言った。
「山ほど食い物買い込んで来てさ、挙げ句、半分以上使わずに残して帰りやがる。それ、始末するこっちの身にもなれっつうんだよな」
「で、着替え終わったんですか」
「うん、まだ」
返答と同時に、背後の電子レンジからピーッと高い音が響く。
「なにあっためてんの」
「カトウのごはんです。未開封のやつがそこにあったから」
「ふうん。食うの? 腹減ってるならラーメンでもとろうか」
ラーメンって。
能天気にもほどがある。結構です、と即答した。
「これ、食べるのは初穂さんですよ。早く支度して下さい」
「俺? なんで」
「空腹のまま演奏なんてできないでしょ」
現在、遅刻で十二分に迷惑をかけているのだ。
これでさらに、実力以下の演奏なんてされようものなら、肖衛が……いや、みんなが困るだろうから。
温まった“おいしいごはん”を取り出し、それを塩でむすんでいると、初穂は肩越しに私の手元を覗き込んできた。
「へえ、器用」
「慣れてるだけです」
具になりそうなものはなかったから、塩だけのおにぎり。
できるだけやさしく、なるべく大きく見えるように、ふんわり握る。
数ヶ月前までは、これが何よりのごちそうだったのだ。
「はい、食べて。で、しっかり収録して来て下さいね」
差し出すと、彼はシャツのボタンをとめながら、それを私の手からぱくり、直接食べた。
手首を撫でる、銀色の前髪にどきりとしてしまった。
伏せられたまつげは私のものよりずっと長くて、むしろ、未知のつけまつげを彷彿とさせるほどだ。
今更ながら、彼が現役の芸能人であることに気付かされて、焦った。しかも、密室にふたりきりという漫画みたいな状況なのだ。大事だ。
咄嗟に手を引くと、
「うまい。すげぇ」
初穂はぱっと表情を明るくして、親指の腹で下唇の米粒を拭った。
「久々に食った。ほんもののおにぎり」
アルバムのジャケットにも、雑誌の記事にも載っていない、無垢で人懐っこい子犬のような目をしていた。
こんな顔するんだ。初めて見た――と、私はちょっとだけ得した気分になる。
すると乙女の胸の高鳴りをよそに、彼は「どうしても行かなきゃダメ?」と大人らしからぬごねかたをした。
「あたりまえじゃないですか。どうしてそんなに嫌がるんです」
言って、食べかけのおにぎりを押し付けるように手渡す。私の苦労をなんだと思っているのか。
「嫌っつうか……俺さ、正直、自分の代わりってゴロゴロいると思うんだよね」
「また、そういう言い訳を」
「言い訳じゃねえよ。本心だよ。ほら、俺さぁ」
そうして残りのおにぎりを一口で頬張って、少し咀嚼してから再び言葉を繋げた。
「顔ばっかり見られるじゃん。モデルのほうが向いてるとか言われるしさ。結局、どんだけ努力したところで――」
誰も俺の演奏なんて気にしてねえんだよ、と零す声は不本意そう、というより淋しそうだった。
初穂の外見は、シヴィールの中ではナツと双璧と言える。
他のメンバーも美形ではあるのだけれど、ふたりの容姿は飛び抜けて整っているのだ。
それ、てっきりプラスの要素だと思ってたのに、悩みの種になっていたなんて意外だった。
「……はい、もういっこ」
新たな塩むすびを差し出しながら、私は片手で彼の頭をちょいちょい、撫でてあげた。
これは、弟妹たちがぐずったときのあやし方だ。こっそりパンの耳を食べさせてやったりもしたっけ。懐かしいな。
人間、食べている時はなぜだか素直になるものだ。
「食べたら行きましょう、収録」
「……まだ言うか」
「はい。素人の私には難しい音楽の話ってわかりませんけど――」
あと、美しさ故の悩みも理解できないけれど。
「わくわくしながらテレビをつけて、シヴィールのメンバーがひとりでも欠けてたら絶対がっかりしますもん。ファンとして」
初穂はぐっと答えに詰まって、それをごまかすようにおにぎりを齧った。
「ナツも、代わりを連れて来いとは言いませんでしたよ。だから私がこうして、わざわざここに来てるんでしょ」
シンクの中の、泡だらけのコップを水ですすぐ。
そうしてそこに水を一杯汲むと、タオルで底を拭ってから彼に差し出した。
「働かざるもの食うべからず、ですよ。食べたんだから働きましょ?」
しかしそのコップは彼に受け取られる事無く、私の手の中で大きく揺れて水音を立てた。
気付けば視界は闇に覆われている。何が起きたのか、一瞬、わからなかった。
「……ヤバい。惚れた」
そんな声が右耳のすぐ上から聞こえて、硬直するとともにようやく悟った。
そう、私は初穂の腕の中にいたのだ。
「ちょ、は、初」
収録が。じゃなくて突然、一体、何を――。
身をよじって抜け出そうとするも、コップの水がこぼれそうで大胆には動けない。
と、こちらの状況を察してか、彼は両腕にますますの力を込めた。
「ナツが芹生を選んだ理由、分かった気がする」
さりげなく名前で呼ばれて、私の心臓は縮み上がる。まずい。まずいまずいまずい。
「そ、それ絶対に誤解ですからっ」だから放して。
「あいつ、合コンに誘っても一度も来ねえし、てっきり女に興味がないんじゃねえかと思ってたんだ。でも、こんな子がいたら」
そりゃ他の女に興味もなくなるよ、と初穂は私のつむじに唇を押し付ける。
肖衛のものとはまた違う感触に、背筋が淡く緩んだ。