16、Stay with you.(c)*
すると、握りしめた袋の中でからっ、と氷が動いた。
それらはすっかり角が消え、使い込んだ消しゴムみたいな形をしている。
溶かしたのは夏肖? それとも私?
わからない。わからないくらい、体が熱い。
「……本当に……?」
夏肖は魂の抜けたような声で問う。信じられないといった体だ。
父が彼を追い返すときに言った台詞を思い出し、弁明しようかとも思ったけれど、
「本当だよ」
それだけを言って、体を屈めた。そうしてゆっくり、自分の唇を彼の唇に押し当てた。
いつか彼から教わった、重ねるだけのキス。連ねるように、ちゅっ、ちゅ、と二度差し出す。
すると三度目、近づけた唇はこちらから触れるまでもなく強引に奪われていた。
同時に荒々しく抱き寄せられ、はずみで手から氷のうが滑り落ちる。
それが床の上を叩く音は聞こえたけれど、状態を確かめる余裕はもう、なかった。
「……っ、ん、ふ……」
噛み合わせていた歯をあっけなく割られ、侵入を許したらあとは、応えるだけで精一杯で。
なのに夏肖は貪るようなキスを、何度も何度も繰り返し私に与えた。
わずかに錆っぽい味。それは甘さに掻き消されて、途中からわからなくなる。
ううん、考えられなくなった、のだと思う。
「ン、ッ……!」
胸も呼吸も苦しくて。
無我夢中で息継ぎを試みたけれど、それすら許さないとでも言いたげに顎を固定され、キスで塞がれ続けた。
傷口近くの唇が、他よりずっとあつくてクラクラする。
角度を変えられるたび、瞼の裏には閃光が散っていた。
ようやく深い呼吸を許されたとき、顔の横にあったのはしっかりした胸板。
ああ、腕のなかに閉じ込められているのだ、と気付くや否や、
「……そうだね。結婚、しようか」
そんな声が、降ってきた。
「今度こそ、貸し借りナシのフェアな関係でね」
待ちわびた答えに、鼻の奥がツンとする。
「うん。……無理矢理もナシだよ」
「そこは――セリが拒否しなければいいだけの話だろ」
「は、反省しない人間は成長しないんだからね」
「いいよ、成長しなくて。セリが追いつくまで、俺は永遠に三十八のままでいる。そうしたらいつか、同い年になるよ?」
「断る。いつまでもそのままでいられたら困るもん」
ドキドキが収まらなくて。
「何が? 姿が? ……ああ、性欲のほう? 衰えろって言われても無理だけど」
「――もう夏肖と話すの嫌だ。やっぱ結婚やめる。はなして」
「こちらこそ嫌だよ、君を放すのは、もう」
身をよじった私をぎゅうっと抱き締め直して、彼は少しいたずらっぽく笑う。
そして付け加えた。
「まずは恋人として、兄貴に会ってもらえる?」
致し方なくひとつ頷いた私をソファーに沈め、夏肖はあろうことか手早くブラのホックを外した。
「え!?」拒否する暇もなかった。
挙げ句、それごと服を捲り上げられたら、ふたつの小山がぶるんと姿を現して――。
「ちょっ、夏肖!?」
「騒がないほうがいいと思うよ。鍵、開いてるし」
「ん、や、っ」
逃げ出そうとしたけれど、肩をぐっと押さえつけられてはかなわない。
途端に体を硬くした私を見、彼は愉快そうに笑って下胸に歯を立てた。何度も、繰り返し、頬張るように。
全身が、みるみるうちに痺れてくる。拒否する力を、奪われていく。
「も、噛んじゃだめ、ぇ……っ」
「可愛い声。我慢出来ないなら、キスで塞いでいてあげようか」
身悶える私をよそに、夏肖は憎いほど余裕の表情だ。そうして私の唇をペロリと舌先で舐めると「あ、でも」思いついたように言った。
「そうするとセリのこと、口で苛められなくなるなあ」
「……っ、こら、手ぇ……っ」
「ん? 指じゃだめ? ならやっぱり口でするしかないよねえ」
「そ、ういう意味じゃ……な……っやあっ」
「悦んでるくせに。ほらじっとして、でないと準備なしで押し込まれることになるよ?」
「……ば、かぁっ、ばか夏肖っ――」
なんて罵りながらも結局最後まで許してしまったことは――語るまでもないかな、と思う。
うん。
***
その日、仕事を終えてから私達が病院へ向かうと、眠る肖衛さんの側には美鈴さんの姿があった。
事務所にいないと思ったら、こっちにいたのか。
「どうして黙ってたのよっ……」
彼女は目をまっ赤にして右手を振り上げて――でも、夏肖の口元の傷に気付いてか、それを振り下ろすには至らなかった。
「ごめん」
夏肖はそれだけを言って頭を下げる。一緒になって頭を下げたのは、妻としてやっていく覚悟を示したかったから、だ。
すると少しの間のあと長い息を吐いて、美鈴さんは「まあいいわ」ふてくされた声で言う。
「夏肖くん、ちょっと買い物に付き合いなさい」
「いや、でも俺は兄貴に」
「その兄貴の好みを一番熟知してるのはあなたでしょ。つべこべ言わずに来なさい。服とか果物とか、入り用なのよ」
何故だか、焦ったような口調。
「ならセリも」
「芹生ちゃんは肖衛くんについていてあげて」
「えっ!?」
驚きの声をあげたときすでに、夏肖は美鈴さんのハンドバッグを持たされていた。
そうして、半ば引き摺られるような格好で病室から出て行ってしまったのだった。
なんだったんだ。あっけにとられつつも、丸椅子に腰を下ろす。
目の前に横たわるのは、見送ったはずの人とまるきり同じ容姿の男性で、思わず見蕩れてしまった。
少し冷たい印象の目元、すっと伸びた鼻筋、幅の広い唇――。
蝋人形みたい。こんなにそっくりなら、董胡が見破れなくても当然だよ。
と。
「芹生さん、ですね」
やはり夏肖と同じ声を発して、その人は瞼を、持ち上げたのだった。
「あなたに、話があります」