15、Stay with you.(b)
すると、
「ごめんなさいね、芹生」
そんな呼びかけがドアの向こうから聞こえた。母だ。
上の弟は学校へ、父は妹を幼稚園に送り届けながら工場へと向かったので、今、家には私達三人しかない。
だから、きゃっきゃっと無邪気にはしゃいでいるのは末弟に違いなかった。きっと、母は赤ん坊をあやしながらそこにいるのだ。
私は咄嗟にラジカセのボリュームを落とす。
「あの人を許してね」
答えられるわけがなかった。
「こうするしかなかったの。あの人を、この世に引き止めておくには、こうするしか」
下唇を噛んで、詰りたい気持ちを抑え込む。卑怯だ。命を言い訳にするなんて。
しかし。
「だけど、これで何もかもが元通りになるわ。きっと」
無意識のうちに、私は眉根を寄せていた。
「――お母さん、それ、本気で言ってるの」
何事もなかった頃のように戻れるとでも? この状態で? 私をこうして閉じ込めておいて、元通り?
「何もかも違うじゃない。状況も、雰囲気も」
どうして気付かないの。夕べの、あの異様な空気に。
同じところなんてなにひとつない。私の気持ちだって、あの頃とは別物なのに。
なんでそんなこと、平然といえるの。
「そうかしら」
「そうだよ!」
あまりにも身勝手な言動に、私はこれまで感じていないと自分に思い込ませていた思いを――噴出させずにはいられなかった。
我慢ならなかった。
「お母さんにとって私って何なの? 便利な小間使い? わがままを聞けなかったなんて言ってたけど、言いたくても言えなかった私の気持ち、考えたことある!?」
「……芹生」
「ずっとこうだったよね。お母さんはお父さんのことばっかり考えて、お父さんが子供好きだからって後先考えずに兄弟増やして、挙げ句私を犠牲にしたくせに、」
今度は戻って来い、だなんて。
吐き出しきれない感情をぶつけようと、私は腕を振り上げてドアに迫る。
けれど、弟が泣くだろうな、と思ったら出来なかった。
意気地なしな、私。こんなだから、ずっと、本音を分かってもらえなかったんだ。
「……出して。肖衛に逢わせてよ……」
「だめよ。あの人に、それだけは駄目だって言われているの」
あの人――か。母にとって父は、いつまでも『男』なのだろう。
そう気付いたら、瞬間、私の中でカチッとスイッチが入った。覚悟の、スイッチが。
「これが私の、最初で最後のわがままだとしても?」
ぴた、と末弟のはしゃぐ声が止まった。それはそのまま、母の動揺をあらわしているにちがいない。
この人にとっての父は、子供達の父親、じゃあない。唯一で絶対の男だ。
ならば私と彼女は今、お互いに大切な男を想う、女同士でしかない。
「出して。出来ないなら、窓から行く」
「無茶よ。ねえ芹生、お願い、お父さんのことを考えて」
「それはお母さんの――あなたの仕事でしょ」
ドアに背を向けて、窓から下を見下ろす。高い、けど、シーツを何枚か結べば、届かないこともない。
父のことが気にならないといえば嘘になる。
だけど、彼を救うのはもう、わたしの領分じゃない。本当はずっと、そうだったはずなんだ。
そう割り切るべきだったんだ。
割り切ることが、きっと、……新しい家族を持つってことなんだ。
「私、行くね」
押し入れから新しいシーツを引っ張り出して、はさみを中央に入れた。ビーッ、と存外大きな音を立ててそれは真っ二つになる。
母は何かを言ったあと、弟を抱えたまま玄関を出て行ったようだった。恐らく、父を呼びに行ったのだ。
工場はここから徒歩で五分程度の場所にある。急がなければ。
繋ぎ合わせたそれを窓の下に垂らしたら、私は覚えのある人影を眼下に見たのだった。
「お――奥様!」
「柳さん!」
***
もしものときは受け止めます、という柳さんの言葉を信じて、私は繋ぎ合わせたシーツを伝い地に降りた。
事務所のワゴン車に乗り込んでから、頭を下げる。
「ありがとうございました。助かりました」
父も母もまだ戻ってきていない。本当に助かった。
「でも、どうしてここに」
「社長からうかがいまして。やけに塞ぎ込んでいるので、何があったのかと尋ねたら、奥様がご実家に戻られたと」
しかしまさか監禁されていたとは、と柳さんは苦笑う。そりゃ、まあ、普通は想像しないだろうな。私も一緒になって苦笑い。
車は大通りから有料道路へと進む。このまま事務所へ向かうのだろう。
念のため、追いかけてくる車がないか確認しつつ、ちらと柳さんの横顔をうかがう。
良かったのかな、こんなことして。いや、私が実家を逃げ出したことじゃあなくて――柳さんのほうが、だ。
柳さんはお義姉さんのことを引き摺っていたはずだ。夫につくす妻、を敬遠していたはずだ。
私をそのポジションに戻すようなこと、して大丈夫だったんだろうか。
少し迷ったけれど、「あの」私は遠慮がちに切り出した。
「良かったんですか、私のこと、連れ戻しちゃって」
言いたいことは、すぐに伝わったみたいだった。柳さんはちょっと淋しそうな顔をして、ハンドルを握り直す。
「……あなたを見ていると、第三の選択肢が見えるのですよ」
どういう意味? 尋ねた私を、彼は横目で見る。
眼鏡のフレームの脇から見える一重まぶたがセクシーで、思わずどきっとしてしまった。
普段はナツの陰に隠れて目立たないけれど、柳さんだって立派な美形だ。女性とすれ違ったら、十人に八人は振り返るだろうな、というくらい。
「今でも、後悔はしていますよ。彼女を、連れて逃げなかったことは」
「なら、どうして」
「夏あたりからでしょうか。私は……そのことに疑問を持つようになりまして」
ひと呼吸、置いて。
「自分がすべきことは、切歯しながら第三者でいることでも、彼女を連れて逃げることでもなかったのでは、と」
柳さんの口角がすこし上がったけれど、私は笑えなかった。まだ、真意がわからなかったからだ。
察してか、彼は続ける。
「あのとき、私は、彼女の一番の味方であるべきだったのかもしれません」
「味方……?」
「はい。彼女の望むことを手助けできる男であればよかった。それだけで、未来は変わったかもしれなかった」
そう気付かせてくれたのはあなたです、と柳さんは言って私の手を取る。
「今回こそは間違いません。私は、あなたの望みを叶えるためだけに側に居続けます」
引っ込める間もなく甲にキスをされて、私はますますどんな表情をしたら良いのかわからなくなった。
このひと、本当に、なんていうか、下僕体質だ――。
「もしものときには力になります。ですから、たまの接触はお許し下さいね」
***
こうして無事事務所に辿り着いた私は、エレベーターを待つのももどかしくて、外階段を駆け上った。
一秒でも早く、夏肖に逢いたかった。逢って、気持ちを伝えたかった。
事務室の前を素通りして、社長室のドアを勢い良く開く。そのまま、彼の胸に飛び込むつもりで。
「かし……じゃなくて肖衛っ」
そう念のため言い直したにもかかわらず、「夏肖、てめェっ……!」その名が聞こえてきて――。
えっ。
ドアを開いた格好のまま、私は目を見開く。
そこには、社長椅子に腰掛けた夏肖と、彼へ殴り掛かろうとしている董胡がいた。
「やめて!」
ぎょっとはしたけれど、慌てて駆け寄って、ふたりの間に割り込む。
董胡の拳から、夏肖をまもるように腕を広げたのは、無意識のうちだった。
何があったの。董胡がこんなに怒るなんて。ううん、そのまえに『夏肖』って――。
そう尋ねようとしたけれど、冷たい目で睨まれて、凍り付いてしまった。
いつも親切で穏やかな彼には、不似合いなほどの威圧感がまとわりついている。
「退いてくれ、芹生ちゃん」
「……や、やだっ」
首を左右に振る。恐怖感はあったけれど、もはや引けない状況だった。
慮ってか、背中側から伸びてきた腕が私を斜めに後退させる。
「セリ、少し、退いていて」
夏肖がそう言うや否や、董胡は振りかぶっていた拳を勢い良く彼の頬に振り下ろした。
どっ、という地響きとともに夏肖の体は床へと叩き付けられる。目を、背ける暇もなかった。
「夏肖っ!」
駆け寄って、その頭を抱き起こしたときには、私の手は震えていた。どうしてこんなことに。
しかし殴られた当の夏肖より、董胡のほうがよほど泣き出しそうな顔をしている。
「……芹生ちゃんも、そいつが夏肖だと知っていて――黙ってたんだな」
「え」
「本物の肖衛が目覚めさえしなければ、このまま騙し続けるつもりだったんだろ、なあ?」
――まさか。
私はやっとそこで悟った。最悪の事態がおきてしまったのだ、ということを。
目、覚ましたんだ、肖衛さん。それでつまり、こっちの肖衛が夏肖だと――。
でも、いつ? いや。
柳さんがそれらしいことを言っていなかったことを考えると、この数時間以内に、と考えて間違いないだろう。
「ダチだと思ってたのは俺だけだったんだな。……それも、今日までか」
彼はそんな言葉を最後に、踵を返し社長室を出て行く。今日まで,ってまさか、これっきり?
私は夏肖をかえりみる。引き止める様子はない。
それどころか、完全に、観念の臍を固めてしまっているようにみえた。
こんなの絶対に駄目。駄目に決まってる。
「董胡……!」
たまらなくなって、私はひとり董胡を追った。
廊下の途中ですれ違った柳さんは不思議そうな顔で「奥様?」しかし、かまっている暇はなかった。
「待って、董胡!」
バイクにまたがった彼の、前方を塞ぐようにして立つ。このまま行かせてなるものか。
「ねえ、あ――あの、肖衛さん、目を覚ましたんだね?」
「……ああ。第一声で、夏肖は大丈夫か、とぬかしやがったよ」
董胡がヘルメットをかぶろうとしたから、咄嗟にそれをつかんで阻止する。
「待って。え、えっと、もっと詳しく聞かせて? ほら、事務所に戻ってコーヒーでも飲みながら――」
「それで冷静になれっていうなら無駄だぜ。俺はすでに冷静だ。あいつにはもう、付き合いきれない」
「でも、だけど、それならシヴィールは」
「ギターならふたりいるだろ。俺がいなくても困らねェよ」
「駄目だよ! シヴィールには、絶対、董胡がいなきゃ」
「真人の時もそんな話になったんだがな、何とかなっただろ。同じことだ」
こっちも覚悟を決めてしまっているみたいだ。
私は目を泳がせるけれど、そこに的確な言葉を見いだすことはできなかった。
どうしよう……。
どうして私、こんなときに気のきいたことがいえないんだろう。
すると、ヘルメットを掴んでいた私の手に、董胡が触れた。上からぎゅっと、包み込むみたいに。
「……君は、もう、あいつのことが好きか。その気持ちは、撤回出来ないか?」
そのうえ、真剣な目で見下ろされては、硬直するしかなくなる。
は……?
「と、とうご?」
「二十年来の友人に嘘をつくようなヤツだぞ、夏肖は」
雰囲気がおかしい。こんな空気、これまでにも何度か経験してきた気がする。
掴まれた手を咄嗟に振り払おうとしたけれど、ぐっと引っ張られて、その胸に抱きとめられてしまった。
「芹生ちゃん……」
(何。何、これ――)
でも、かといって、すぐさま平常心を失ってしまうほど、私は自意識過剰ではなかった。
初穂とも同じような状況に陥ったことがあるし、叶には電話越しに告白されたし、そのうえ数分前には柳さんに下僕宣言をされた身なのだ。
このうえ董胡にまで好かれる、とは、到底思えなかった。
「……それで、夏肖から私を取り上げて、董胡は本当に満足なの? 気が、済むの」
なるべく静かに言って、身を引いた。
「そうじゃないでしょ。董胡は、そんな人間じゃないでしょ」
彼が、自棄になっているのだと思ったからだ。
「夏肖がどんな気持ちで正体を隠していたか、わかれとは言わないよ。でも、私は董胡にシヴィールでギターを弾いていて欲しい。ファンのひとりとして、董胡にいて欲しい」
ゆるりと拘束をときながら、董胡は泣き笑いの表情になる。「芹生ちゃん……俺は」
そうして何かを言いかけたとき、「芹生、董胡さん!」事務所の方角から、未知が駆けてきた。
「どうしたんっすか。一体何が」
そこで言葉を途切れさせた彼女は、私達の三メートルほど手前で足を止める。
視線は、私の腕を掴んだままの董胡の手に注がれている。
気付いてか、ぱっと手を引っ込める董胡は、どことなく気まずそうだ。
なんだろう、この空気。
疑問に思っていると、未知は後ろ頭をちょいちょい掻いた後、へらっと場違いに笑って事務所を指差し、言った。
「芹生、あのさ、肖衛さんが口の中、切ってるみたいだから氷持って行ってくれない?」
「え、でも」
董胡が。
「ここはあたしが代わる。だからあんたは旦那のところへ行きな」
背中を押されて、去らざるを得なくなる。背後を気にしつつ外階段を昇り始めたら、かすかに会話が聞こえてきた。
「……お互いに不毛っすよねえ」
「そう、だな。悪い」
「謝らないで下さいよ。あたし今、優越感に浸ってるんですから」
「優越感?」
「そ。好きな人の想い人は親友、ってその心情、世界で一番理解してあげられるの、あたしだと思って。どうですか、こんなのに慰められようっていう気は」
愚かなことに、私が未知の気持ちに――片思いの相手が董胡であることに――気付いたのは、まさしくその時だった。
驚きはしたけれど、意外だとは思わなかった。未知が董胡に夢中であることは、学生時代からずっと知っていたからだ。
むしろ意外だったのは、憧れを恋愛として発展させることに抵抗を覚えない自分、だった。
舞台の上の人間にリアルな恋をするなんて無謀だと、以前の私なら言いきっただろう。
でも今は。
世界の違う人、と勝手に柵を設けているのは案外、ギャラリーのほうなのかもしれない……なんて。
そんなことを考えながら、給湯室でビニール袋に氷を詰めた。
それを手に社長室へ戻ると、ソファーに腰掛けた夏肖を、すでに柳さんが介抱していた。
私の姿を見るなり、気をきかせたのか、さりげなく出て行ってしまったけれど。
「怪我は? 大丈夫?」
ビニール袋ごと、患部に氷をあてがう。夏肖は若干眉間を寄せたものの体を引くでもなく、不安そうな目をしてこちらを見上げた。
「……セリ、どうしてここに」
弱々しい顔だ。歌っているときとは別人みたい。
「えと、柳さんが助けてくれたの。それで、ここまで連れてきてもらったんだけど」
「そう。柳は優秀だね、俺にできなかったことをやってのけるなんて」
「感心してる場合じゃないよ。私、家族のこと、捨ててきたんだから。今度こそ、帰る場所、なくしちゃったんだからね」
「捨ててきた? 説得したわけじゃなくて?」
夏肖はやはり眉根を寄せて、困ったような、渋い表情をする。
落下覚悟で窓から脱出したことはまだ黙っていたほうがよさそうかなあ。私は内心苦笑う。
「うん、そういうことになると思う」
「どうして、そんな」
今まで散々強気の態度で私を翻弄してきたくせに、ここへきてその質問は反則だと思う。
「……責任とってよ」
ぼそりと口の中で零すと、「え?」彼は真顔に近い無表情で疑問そうに小首を傾げた。
「好きになれって言ったの、夏肖だよ」
「セリ? 一体何を」
「責任とって、私と結婚して、夏肖……」
氷を持つ右手はとても冷たいのに、顔面は火を噴きそうだ。一足飛びに何言っちゃってるの、私。
恥ずかしくて逃げ出したい。ああ、でも、ちゃんと、伝えなきゃ。
今、考えていること、全部伝えなきゃ。
「肖衛さんが目を覚ましたならできるでしょ。私のこと、ちゃんと、坂口夏肖の妻にして」
「妻? ってもしかしてセリ、赤ちゃ」
気遣わしそうに腹部に手をあてがわれたから、思わず振り払ってしまった。
「できてないよ!」
できていたとしても、それを理由になんかしない。したくない。
「そうじゃなくて、わ、私はっ」
私はね。
「す……、す、……っ」
ああ、怖い。わかりきっていることなのに、口に出すのが怖い。
どれだけこの言葉を彼が待ちわびていたのか、知っているのに、怖い。
どうしてだろう。
恋は、この一言を渇望させる以上に、怖がらせる気がする。
だからかなあ。
それを乗り越えるこの瞬間の勇気こそ、あなたに捧げたいと思う。
「――好き、なの。夏肖のこと」
ナツよりもずっと。
大嫌いだったあなたのことが、今はただひたすらに恋しいの。