13、I wish you.<b>
君のお母さんは真っ青になっていた。
どうやら俺が傷物の君を突き返しにきたのだと思ったらしい。どうか見捨てないでやって欲しいと懇願されたよ。
いや、だからといって身勝手な母親だとは、どうか思わないであげて欲しい。
彼女が君をこうして早くに結婚させたのは、こんな日が来ることを危惧したせいなんじゃないかと俺は思う。
将来、好きな人と家庭を持とうとしたとき、このことが明らかになれば苦しむのはセリ自身だ。
もしかしたら破談になるかもしれない。その前に、人の良い君は『こんな自分では駄目だ』と身を引くに違いない。
だから、その日が来る前に、君に幸せな結婚をして欲しかったんじゃないかな。
俺の思い過ごしだろうか。良いほうに考えすぎてる? そうかもしれないね。
俺はもともと、君が大嫌いな男だったわけだしね。
でも、彼女が君を心から心配していたのは事実だ。
あの日の記憶を取り戻したのですかと尋ねられたよ。苦しんでいませんか、とも。
もちろん、そんなことはないと否定しておいたから安心して。
それに、俺は君がどんな状態であろうと愛する気持ちにかわりはないし、このことも一生伏せておきますと約束した。
……守れなかったけれど。
ともあれ――。
この一件以来、真人と肖衛は完全に、俺に頭が上がらなくなった。
自分たちが奪いかけた命を俺が救ったわけだから当然といえば当然かもしれない。
だが、正直なところ、鬱陶しかった。何かにつけて俺のために動こうとする彼らが、酷く愚かに見えたものだった。
何故俺に媚びへつらうんだ。お前らが本当に頭を下げなければならないのはあの『せいなちゃん』のほうにだろう。尽くすべきなのは彼女に対してだろう。
幾度もそう言って諭したよ。無駄だったけれど。
ふたりとも、日々まさに俺を崇め奉らんばかりで――ああ、そんな話を董胡から聞いた?
そう。となると、回りの人間から見ても彼らの態度はあからさまだったってことになるよね。
で――。
それから四年後だったかな。
俺達の両親が切り盛りしていた町工場が、経営悪化の末に倒産したのは。
小雨ばかりがだらだらと居座る、湿気った梅雨の日のことだった。
それまで頻繁に動いていた機械の音がぴたりとやんで、人の出入りもなくなって、中身はあるのに抜け殻のような工場は、電気をつけたって妙に薄暗かった。
無情なほど顕著だよね、ああいうのは。
埃っていうのは二日もあれば積もるし、廃墟ってのは一週間もあれば簡単に出来上がるんだってことを、俺はこのとき初めて知った。
一番ショックを受けていたのは、父さんでなく兄貴だったっけ。
無理もない。兄貴は工場を再建するために必死で経営の勉強をしてきて、ようやく代替わりをしよう、というところだったのだから。
しばらくは茫然としていて、何も手につかない様子だったな。
俺は正直、どうとも思わなかったけれど。薄情な話、家族や実家にさほど執着はなかったし、思い入れもなかったからだ。
あのときまでは。
そう、あのとき――同じ年の暮れのこと。
警察から連絡を貰った俺は、我が耳を疑った。
弟さんが――夏肖さんが運転する車が海に転落し――意識不明で――ご両親はともに行方が知れず――。
何もかもが理解不能だった。
三人が事故に遭ったとかいう話以前に、自分が肖衛として扱われていることが。
坂口夏肖は俺だ。そうだろう。意識不明のはずがない。
しかし、駆けつけた病院でベッドの上に見た彼もまた、俺と同じ坂口夏肖の姿をしていた。
金の髪に、ゴシックテイストの服、アクセサリー。そのうえ、枕元にはしっかりと俺の名が掲げられている。
医師曰く運ばれてきた彼には当初意識があって、自ら夏肖の名をかたったとのこと。携帯していたという免許証も渡されたよ。俺のものだった。
混乱しないはずがなかった。
坂口夏肖は俺だ。おまえは肖衛だ。そうだろう。
返答はなかった。あいつは否定も肯定もしてはくれなかった。
いや、あいつだけじゃない。だれもが、それを、認めてくれなくなった。
皮肉なことに俺は――。
目障りだった二分の一を失うと同時に、本当の自分をもなくしたのだった。
***
「それから、ずっと肖衛さんとして生きてきたの?」
そこまでの話を聞き終えたセリは、泣くのを我慢しているような表情で、まばたきを繰り返しながら俺に問う。
なんていじらしい子だろう。
すぐにでも組み伏せて、もう一度めちゃくちゃにしてやりたいと思ったけれど、まだ話の途中ということもありぐっと堪えた。
「……つらかった、よね、夏肖……」
肖衛の名に『さん』をつけ、俺の名からはそれをとってくれる心遣いが、何より嬉しいと思う。
やはり――彼女を選んだことに間違いはなかったと俺は確信する。
「ありがとう、君は本当に優しいね」
「そんなこと……ねえ、誰も、本当に誰も、見破る人はいなかったの?」
「うん、と言いたいところだけど、ひとりだけ」
「ひとり?」
「そう。君もよく知ってるだろ。和久井加恋」
彼女の目が驚きに見開かれる。けれどそれも一瞬のことで、数秒後には先程よりずっと悲しそうな表情に変わった。
そんなに思わせぶりな態度をしないでほしい。なるべく、期待しないようにしているのに。
本当ならあのCMの裏側――共演しなければ俺が夏肖であることを仲間に暴露してやると脅されていたこと――も話したかったけれど、やめることにした。
加恋はまがいなりにも昔の女だ。セリに余計な気をまわされたくはない。
「……肖衛のふりをしはじめたころ、せめて董胡たちには打ち明けようと思ったりもしたんだよね」
わざとらしいかなと思いつつも、俺は話題を翻す。
「でも、一度言いそびれたらずるずると、時間が経てば立つほど言いにくくなって」
そうこうしている間に、今度はもう、バレたらまずいという強迫観念に囚われるようになって。
「あとは必死だったな。兄貴のふりをするために、あいつが大学時代に使っていたテキストとか引っ張り出して、片っ端から丸暗記して」
「テキスト? それってもしかして書庫にあるやつ?」
「うん、そう。あれ? 見せたっけ」
「こないだ柳さんを案内したとき、ちらっと見ちゃったの。ラインマーカーで綺麗に色分けされた上から、鉛筆でごちゃごちゃに書き込みがしてあったんだ、けど」
もしかしてそれって夏肖が? と問われて俺は頷いた。
「兄貴と違って俺はそんなに几帳面でもないからね」
あのときはとにかく詰め込まなければと思っていたから余計に、後のことなど考えられなかったのだ。
「そうやって三年間は――実質的には二年間くらいかな、勉強に費やしたよ。俺はあの頃が一生で一番勉強したと思う」
「そっか」
セリは「えらいえらい」と言って笑顔で俺の頭を撫でてくれる。
こんなこと、母親にだってされたことはない。褒められるのはいつだって、兄貴の専売特許だったし。
目を閉じてじっとしていると、その手はスッと輪郭をなぞるようにおりていって、心臓の上あたりでゆっくり止まった。
誘われているような気がする。
気のせいだろうけど。
「頑張ったね。大変だったでしょ?」
「それほどでも……といいたいところだけど、それが限界だったとも言えるかな。俺は――諦めきれなかったからね。音楽を」
「夏肖……」
「うたいたかったんだ。どんな姿であろうと、どんな苦労をしようと、俺は歌わずにはいられなかった」
――シヴィールが、俺の全てだった。
あとは、彼女の知っている通りだ。俺は影武者のふりをして、自分の夢を追った。
しかし同時に俺は兄貴の人生をも生きねばならなかった。それゆえ、兄貴の夢をないがしろにするわけにはいかなかった。
当然、正体がバレないように、という保身のためでもあったのだが――そこで始めたのが事務所の経営だった。
しかし二兎を追うのは思ったよりずっと大変で、俺は日に日に困憊していった。
こんなことならもう、全てを投げ出してしまおう。そのほうがずっと楽な人生を送れる。
何度もそう思ったのに、踏ん切りはつかなかった。
自分自身に対する未練など、いっそ捨ててしまえたら。常にその悩みが、夢と同居していた。
徐々に思い詰めていった。限界は、近いように思えた。
その頃――俺はセリに出会ったのだ。
お疲れさま、と言われたあのとき、どれだけ救われたことか。
大勢の人がただ流れていく雑踏のなか、まっすぐ自分だけを見つめてくれた人がいたことに――
どれだけ震えたか、君は知らないだろう。
「……ねえ夏肖、ひとつだけ聞きたいの」
突然、彼女が上半身を起こし、俺を覗き込んだ。
豊満なバストが丸見えだけどいいの?とは、確信犯で黙っておく。
「なに?」
「私と籍を入れられないっていったこと。あれって……私と結婚したくないからじゃなくて、夏肖と肖衛さんが入れ替わってるせいだって思ってもいいの」
どうして君はそうやって、いちいち気のあるふりをして俺を惑わせるのだろう。
細い腰に腕を回し、自分のほうへと抱き寄せる。有無を言わせずそのまま組み伏せて、首筋にキスをした。
好きだ。このまま食いちぎってしまいたいほど――好きだ。
「ああ。……ただ、君を誰にも渡したくなかったんだ」
坂口肖衛として、俺は彼女と出会った。見合いの話も、兄貴の名前のままで進めた。
あいつが目覚めない限り、俺は一生この名で生きていく。だからこのまま結婚したってかまわないと思っていた。
最初は。
けれど市役所でいざそれを提出しようとして――迷った。
兄貴の妻として、彼女の名が刻まれるなんて堪え難かった。他のものは許せても、彼女のこととなると許せなかった。
俺だけのものになってもらいたかった。だから。
「籍を入れていないことも、その理由も、本当は初日に打ち明けようと思ってたんだけどね」
頬へのキスをくすぐったそうに受けながら、彼女は笑う。
「ごめん、それ、私のせいだね。逃げ回ってたもんね」
「いや。問題はそのあとだよ。間もなく、俺は君の足に傷跡を見つけてしまったから」
「……シヴィールの皆が来た日?」
「うん。こんな残酷な現実はないと思ったよ。同時に、自分の身勝手さが巡り巡って戻ってきた気がした」
あのときのショックは、言葉では到底言い表せない。
この子はあのとき、兄貴が見殺しにしかけた子だ――。
いや、違う。俺が兄貴を身代わりになどしたせいで、命を落としかけた子だ。
俺のエゴが、こんなに大きな傷痕をこの子に残したのだ。
そのうえ今の自分は肖衛の――彼女を見捨てた男として生きている。
ああそうか。兄貴。
これはおまえの復讐なのか。いつもおまえを虐げてきた俺に対する、報復だったんだな。
一度その思考に掴まってしまったら、もう、抜け出せなかった。
打ち明けられるはずもなかった。自分だけ楽になろうだなんて、あってはならない気がした。
いつか彼女がその時のことを正確に知る日がきたらそれは、審判が下る日なのだと思った。
すると、セリは気を取り直すように短く息を吐き、俺の頬を両手で包み込んだ。
「あのね夏肖、私、ちょっと引っかかってることがあるんだけど」
そうして眉をひそめ、不思議そうな顔でじっと見上げてくる。小鳥のようなつぶらな瞳がかわいい。
たまらなくなってキスを落とそうとすると、その場にぐっと留められてしまった。
「ストップ。話が先」
「手短に言って。俺もう、そろそろ我慢の限界」
「我慢なんて最初からしてないでしょ。とりあえず降りて」
「……このままでも話はできるだろ」
駄目でもともとと思いながら言ったのに、しかたないなあ、と彼女は意外にもすんなり許してくれる。
だから俺は、彼女を体の下に閉じ込めたまま、その話を聞くことになった。
「十三年前のことなんだけど、肖衛さん、真人を殴ったって言ってたよね。それって本当?」
「うん。真人にも殴られた痕があったし、誇張した話でもないと思うよ」
「……ちょっと違和感があるんだよねえ」
何が。首を傾げた俺を見上げて、だって、とセリは唇を尖らせる。
「人のいい肖衛さんが誰かを殴るなんて――そこまでして守った私を見捨てて逃げるなんて、ピンと来ない」
言われてみて初めて気付いた。確かにその通りだ。
まず、殴る以前に人を呼ぶとか通報するとか、慎重なあいつにはもっと他の手段だって選べたはずだ。
じゃあ何故――。
「だからね、思うの。肖衛さんが真人を殴ったのは、私を助けるためなんかじゃなかったんじゃないかなって」
「え?」
「彼はきっとね、」
口角をきゅっと上げた彼女は、不思議と凛々しかった。
「夏肖の夢をまもりたかったんだよ」
「俺、の……」
「うん。だって真人はシヴィールにとって大切なギター奏者だったわけでしょ。警察沙汰になったら、バンド存続の危機じゃない」
なんだって?
全身の力がふっと抜けたような気がした。両腕がかすかに震えている。
兄貴があの日、本当にまもりたかったのは少女じゃなくて――俺?
「そんな、まさか」
「うん、私の想像だけど。でも、肖衛さんは監督にだって『弟を見捨てないで』って頭を下げるような人なんだよ。あると思うなあ」
それにね、と言ってセリは目を細める。
「私も同じだから」
「同じ?」
「弟と妹の夢を叶えてあげたくて、結婚を決意したようなものだもん、私。上の子って、生まれつきそういう思考なのかもね。半分くらいは、親の視点っていうか」
俺は目を泳がせて、力なく彼女の胸に頭を乗せた。何をどう理解していいのか、わからなかった。
兄貴が、俺のために。俺のために、真人を殴って。
「うそだ……」
「真実はお兄さんに直接聞かないとわからないよ。だけど、私の解釈はこうなの。お兄さんは夏肖の夢をまもろうとした。その罪を被って、あなたは私に許しを乞うた」
ほそい指先が俺の髪をそっとすく。
「これって結構いい兄弟だと思っちゃう私はやっぱり甘い?」
柔らかい腕に、ぎゅっと閉じ込められたら鼻の奥がツンとした。いい兄弟。俺と、兄貴が。
「そ……んなこと、……セリは、優しいだけだ」
「本当に? 本心からそう思ってる?」
「思ってるよ」
「なら、この判断も甘いって思わないでよね」
え?
思わず頭をもたげると、額に優しく押し当てられる唇。そして。
「私は――」
笑顔で、彼女は、断言した。
「私は、坂口肖衛の行為の一切をゆるします」
坂口夏肖の行動に免じて、と。
***
もう一度抱いてしまおうと思っていたのに、彼女が聖母のように見えたらどうにもだめだった。
俺が好きになったのは、どうやらとんでもなく大きな器の女の子だったらしい。
俺は彼女の狭い胸の中で情けなくもひとしきり泣いて、泣きつかれた頃いつの間にか眠りに落ちて、目覚めたときには朝だった。
それから久々に、彼女の沸かした風呂に入った。
スイッチを押すだけなのに、セリが準備してくれたと思うと湯の肌触りも違う気がするから不思議だ。
「夏肖ー、卵はオムレツ? スクランブル? めだまやき?」
洗面所を出る俺を待ち構えていたかのように、フライパンをかまえた彼女が廊下の先にのぞく。こんなにホッとする光景は他にない。
タオルで頭を拭いながら、キッチンまで直行した。
「甘いたまごやきがいい」
「……あのね、主食パンだよ。合わないよ」
「それでも。セリの焼いた甘いたまごやきが食べたいんだ」
「もー、わがままなんだから。――ていうか、そうだ夏肖、パスタとたまごやき、どっちが好きなのかはっきりして」
「うん? なに、突然」
「和久井加恋。あのひと、テレビでナツの好きな食べ物はパスタですって言ってた。どっちがほんと?」
卵をカンッ、とボウルの端で割りつつ、唇を尖らせるセリがかわいい。どうしてこんなにかわいいんだ。
「たまごやきだよ」
言って、エプロン姿の彼女を背中から抱き締める。
「ほんとに?」
「うん。だって加恋はパスタしか茹でられなかったんだ」
「ええ? それだけ?」
「それだけ。それに、加恋のパスタと比べるならセリの手料理は全部勝ってる。全戦全勝だよ」
「……調子良すぎ」
手際良くたまごをかくはんする華奢な手を止めて、キスをひとつ奪う。
このままここで滅茶苦茶にしてしまおうか、なんて不埒な考えが浮かんだとき、タイミング悪く玄関のチャイムが鳴った。
「あ、お、お客さんだっ」
慌てた様子でセリはキッチンを出て行く。せっかくいいところだったのに。
俺はすっかりリラックスした状態で、のろりと彼女のあとを追った。訪問販売なら断ってやろう、くらいの気持ちだった。
しかし廊下の先にその人の姿を見たとき――自然と背筋が伸びた。
「坂口さん、早朝から失礼します」
お父さん、とセリが曖昧な滑舌で零す。事実、そこにはボストンバッグを抱えた彼女の父親が立っていた。
普段の作業着とは違い、何故だかスーツをきちっと身に付けている。よく見れば、白髪も黒く染め直してある。やけに仰々しい。
なんだ?
「い、――いらっしゃるのでしたら迎えに行きましたのに。すみません、こんな格好で」
「いえ、お気になさらず。すぐ済みますから」
頭を下げた俺を制止して、彼は玄関先にボストンバッグを置く。
すると、どすん、というやけに重量のある音が響いたら、かすかに嫌な予感がした。
「その節は本当にお世話になりました。おかげで工場も持ち直しまして、このたび、特許ものの技術をひとつ、大手企業に買い取ってもらえることになりました」
言いながら、彼が一気に開いたファスナーの向こう側には――
「あのときいただいた二千万円です。利子も付けて返却しに参りました」
大量の札束が見えたのか、セリは口元を覆って声にならない声をあげた。
「これで、わたしたちに娘を返して頂きたい」