10、What shall I do?(b)
三日後、初穂から受け入れる準備が整ったとの連絡を受け、私は未知に全てを打ち明けた。
「それで本当に後悔しないんだな」
手元のカレースプーンにうつり込んだ逆さまの自分に視線を落として、うん、と私は頷く。
ぎりぎりまで黙っていたのは、はやいうちにその疑問を投げかけられたらせっかくの決意がにぶってしまうと思ったからだ。
明日には初穂が迎えにくる。だからこの一晩で、私は頭の中を整理しなければならない。
肖衛を追い出して、初穂でいっぱいにしなければならない――のに。
「やけに即答じゃん。カンペ読んでるみたいだ」
「本心だよ。私は大丈夫なの」
「なら駄目ってことだな」
未知は片目を細めて、眼光鋭く私を斜にみる。
「あんたは大丈夫っていうときほど大丈夫じゃないんだよ。肖衛さんのこと、本当はまだ好きなんだろ」
相変わらず痛いところを突いてくれる。
出来ることなら、これにて一件落着と拍子木を鳴らして去りたかったけれど、そうは問屋がおろさなかったか。
ああ、未知が問屋なら目利きで評判を呼ぶに違いないよ。
「……そりゃ、好きにはなりかけてたよ。でも、だめだよ。だめだったんだよ」
「何がだよ」
「いくら好きになっても、肖衛は私と結婚する気はないんだよ。それだけの気持ちなんだよ」
「どうして紙切れ一枚の覚悟で気持ちを量るんだよ。あの人はそれでもちゃんと、アンタのこと想ってたじゃん」
紙切れ一枚ね。初穂みたいなことを言うなあと思う。
確かに戸籍なんて、入っていようがいなかろうが、普段は気にならないものなのだろう。
少なくとも私は、四ヶ月間も肖衛の嘘を見破れなかったくらいだから、日常生活を送るぶんには支障などなかったのだ。
でもそれは、二人の関係が良好であれば、という前提ありきの話。
「想ってたら何をしてもいい、なんてことないでしょ」
本当に私の心に引っかかっていたのは加恋とのことだったのだけれど、幼稚すぎて言えなかった。
「肖衛はめちゃくちゃだよ。うまくやっていけるわけがないよ。いつだって自分の意志ばっかり通して、私の感情なんて全部無視で――」
「全部? ちがうだろ。少なくとも主婦としてのアンタを、肖衛さんは最大限評価してた。そうだろ」
それは――そうかもしれないけど。
「そんなこともわかんなくなっちゃったのかよ。めちゃくちゃなのは今の芹生じゃないかよ……」
ぞんざいな仕草でスプーンを皿の中に放り出す未知は、憤っているようにも泣き出しそうにも見える。
「このままじゃ、誰も幸せになんかなれない。あんたも肖衛さんも、初穂さんもだ。思い返してみなよ。肖衛さんが結婚を承諾しないのには何か理由があるって言ったのは芹生、あんただよ」
しかしその目は、真摯に私を想う目だった。
「それを知らずに終わりにしたら、きっと後悔する。逆に言えば、そこをはっきりさせてからさよならしたって遅くはない。だろ?」
いつもこうだ。
学生の頃からずっと、私の間違いを正してくれるのは、家族でも先生でもなく、友人である彼女だった。
息を呑む私の前に未知はミラーボールのような携帯電話を差し出し、置いた。
「もう一度、ちゃんと肖衛さんと話して。これはあたしからの頼みだ。宿代がわりに、聞き届けて欲しい」
なんて私を熟知した言い方だろう。目頭がじわっと熱くなる。
でも、いまさらどうしたらいいっていうの。
咄嗟に俯くと、「ったく」テーブル越しに伸びてきた手が後頭部をそっと撫でてくれた。
乱暴だけど優しい手、好きだ。
「……このままじゃあたし、いつまでたっても自分の恋に本腰入れられないじゃん、どうしてくれんの」
突然の爆弾発言に驚いてしまう。
「こ、恋? 未知、好きな人できたの?」
「まあね。絶賛片思い中ってやつよ」
「え、誰、柳さん?」
「おまえ、本当に鈍感だよなあ。ってほら、あたしのことはいいから、早く肖衛さんと話しなよ」
照れたように笑う彼女を見て、私は不思議と、なんとなく、すこしだけ、複雑な気分になったりもするのだった。
未知が男だったら迷わず好きになるのに。そうしたらきっと、私達は世界一仲睦まじい夫婦になれるのに。
本気で惜しいよ。
その後、少しの歓談を経て、私は迷いながらも自分の携帯電話を取り出した。
どうしたらいいのかはわからない。でも、親友の親切には報いなければと思った。
しかし、ディスプレイを覗き込んだ途端、そこに表示されていた不在着信の数に私は肝を冷やすことになる。
“音声着信:叶 56件”
二桁なんて初めて目にしたから二度見してしまった。
それも、十数件ならまだしも五十件超えだなんて尋常じゃない。
かけ直す前にまずは、と未知にそれを見せようとしたまさに次の瞬間、記録を塗り替えるべく五十七件目の着信があった。
すぐさま受話ボタンを押して「もしもし!」叫ぶと、その声を押し戻す迫力で『芹ちゃんっ!?』名前を呼ばれ、思わず背筋が伸びる。
「は、はいっ」
反射的に敬語が出てしまった私を見、未知は何事かと眉をひそめた。
『今どこ!? みっちゃんち?』
「そ、そうだけど――」
答えつつも、ミッチャンって未知のことでいいんだよね、と少々心配になる。
「一体どうしたの、何かあったの?」
『どうしたもこうしたもないよっ、初穂の家に行ったらやけに片付いてるから、引っ越しするのかって聞いたんだ。そうしたら芹ちゃんが一緒に住むって――どうなってるんだよっ』
まさかの事態だった。
いつか皆にも話さなければとは思っていたけれど、まさかこんなに早くバレてしまうなんて。
「あ、あのね叶、これにはちょっとした事情があって」
『そんなの知らないよ。知りたくもない。だってこないだは芹ちゃん、ナツのことを信じてるって言ってたじゃないか!』
叶の声は張り上げすぎているせいかところどころ裏返っていて、それが彼の必死さをより際立たせている。
『あれは嘘だったの? だからそんなに簡単にナツを捨てちゃうの』
「そうじゃない。嘘なんかじゃなかったよ」
『ふうん、過去形なんだ』
唇を開きかけたものの空振りのまま閉じたのは、何を言っても言い訳にしかならないとわかったからだ。
『……どうして初穂なんだよ……』
か細い呟きはどこか悲痛で、私はいよいよ返す言葉がなくなってしまう。
すると叶は少しの間の後に『僕はね』口を開いた。
『僕は、芹ちゃんだからナツの側にいて欲しいと思ったんだ。他の誰でもなく、芹ちゃんだから』
「叶……」
『僕は、僕は――』
そうして、思い切った口調で言った。
『ナツの隣にいる芹ちゃんのことが好きだったのに!』
えっ。
叶が、私を?
しかし直後、受話器の向こうから『あー!こんなところにいたのかよ。もう、いい加減おまえ帰れっつうの』暢気な初穂の声が聞こえてきて、私は思わず耳を澄ませた。
『芹生が使うはずの部屋なんだぞ。汚すなよな』
『断るっ、ふたりの同棲断固反対! 今日から僕がここに住む!』
『はあー!? おまっ、冗談じゃねえっ、出てけよ』
『絶対いやだーっ!』
どうやら叶はまだ初穂のマンションにいるらしい。
割り込むタイミングを掴めずにいると、『もしもし、芹生か!?』その初穂に突然呼びかけられて、焦ってしまった。
「え、あ、うんっ、初穂?」
辛うじて問い返すと、『おう』受話器の向こうで照れ笑いをした雰囲気がした。私は笑えなかった。
未知も、私から視線を逸らし俯いている。
『ごめんなー、まったくこいつ突然やってきて部屋中ぐちゃぐちゃにしやがってよ。あ、でも明日までに片すから心配すんな。ほら、いつもの散らかりようからすればまだましだからさ』
あはは、と笑う初穂の声が胸に刺さる。
急激に申し訳なさが込み上げてきて、咄嗟に言葉を返すことができなかった。
それでも初穂は『どうした? 腹でも減ったのか、何か食いに行くか?』なんて私を気遣ってくれる。
たまらなくて、自分に腹が立った。
――なにやってるの、私。
「……ごめん」
言葉は、考えるより先に唇からこぼれていた。
「ごめん、……初穂……」
『芹生?』
「ごめんなさい、私、やっぱり」
彼は底なしにいい人だ。だからこそ、耐えきれなかった。
「やっぱり、だめ、……」
なんて狡い女なのだろう。こんな自分に、肖衛を責める資格なんてあるはずもない。
すると数秒後、
『認めない』
返された返事にいつものおどけた調子は一切なかった。
『前回言ったよな、俺、次はないって。もう一歩も譲らねぇ。誰にも渡さねぇ。おまえは俺のものだ』
そこまで、初穂の側で騒いでいた叶の声がぴたりとやんだ。
と直後、受話器からは風が過ぎるような雑音と、遠くにクラクション、そしてバタリとドアを閉める音が連続して聞こえて。
『今から迎えに行く。そこで待ってろ』
「えっ、ちょ、ちょっと待っ……」
『待たない。本当なら待ってやろうと思ってたけど、やめる。無理矢理だってかまうもんかよ。今夜中におまえを俺のものにする』
間もなくエンジン音がしたことで私は彼の本気を感じ取り、青ざめる。
『迷いがあるなら俺が断ち切ってやる』
電話はそこでぷっつりと切れた。慌ててかけ直したけれど、留守番電話センターに転送されるばかりで、初穂には繋がらなかった。
話を聞いた未知はすぐさま自分の財布を私に握らせ、行きな、と言った。
「ここはあたしに任せて、芹生は肖衛さんのところに行きな!」
「で、でも」
「いいからはやく!」
考えている暇はなかった。
私は部屋着にエプロンをつけたままの格好で、桂木家を飛び出したのだった。