3、Hide-and-seek.
「はいこれ、夕べ渡すの忘れてたけど、セリに」
「え、いいの」
「俺とお揃いで良かったかな」
良かったかな、も何も事後承諾だし――という文句を呑み込んで素直に頂戴したのは、それが、ずっと欲しいと思っていたものだったからだ。
いや、どんなものを与えられたって、私は文句なんて言えない立場なのだけれど。
久々に手にしたせいか、やけにずっしり重く感じる。軽量化が進む昨今、重いだなんて変な話だ。
ここ数年、使用料が払えずごぶさただったそれは現代の生活必需品、携帯電話とよばれるものだった。
「俺の番号は入れておいたから、いつでもかけておいで」
廊下の先を行く肖衛のカツラにはトサカみたいな寝癖がついていて、歩くたびにぴょんぴょん揺れるのがおかしい。
何故カツラのまま寝るのだろう。寝にくくないのだろうか。謎だ。
「セリの声が聞けたら、仕事の効率もあがると思うし」
「いや、仕事中はきちんと仕事に集中しなよ。みんなに怒られるよ」
「そうかな。じゃあ、メールでも」
「ほ、ほら、朝ご飯できてるよ。ちゃんと食べて出かけてね」
結婚して一週間、私は自然と、彼の身の回りの世話をするようになっていた。
もともと、母に代わってすることが多かったから、炊事洗濯掃除はどれも得意なのだ。
他にすることがなかったから、というのが一番の理由だけれど、後ろめたさもあったと思う。
借金を返済してもらった上に、ただで居候というのもどうかな、と。
「何? 今日の朝ご飯」
「ホットドッグ。肖衛の好きなモカもドリップしたよ」
「それは嬉しいね」
肖衛は猫みたいに細い声を絞り出し、伸びをした。すこぶる眠そうだ。
夕べも一昨日も真夜中まで帰って来なかったから、寝不足が溜まっているのだと思う。
それもそのはず、なにやら新しいアルバム制作のため、毎日スタジオに詰めているのだとか。
浮気じゃないから安心して、と夕べわざわざ董胡さんが言いにきた。律儀なひとだ。
「大丈夫? 睡眠時間、二時間しかなかったよ」
「心配してくれるの? そんなに俺が大事? ますます嬉しいね」
「なっ……ちが、私はただ、えと――そう! ファンとして、シヴィールのアルバムが心配なだけで」
「ふうん。俺は君の為に働いてるんだけどね。昼も夜も」
どうしてそういうことを恥ずかしげもなく言うかな。
思わず顔を背ける。けれど彼は素早くそちらに回り込むと、腕一本で進行方向を塞いでしまった。
巨大な眼鏡の向こうから注がれる視線は冷ややかで、どこか捕食者じみている。
「……朝の挨拶がまだだよ、セリ」
肖衛は狡い。歌を生業にしているからなのか、声の印象をがらりと変える発声の仕方を知っている。
そうしてこちらの虚をついては、やすやすと自由を奪うのだ。
今回も例に漏れず、隙をついて唇を攫われてしまった。
「ン、ちょっ、あいさつならオハヨウで充分でしょ!」
素早く拭って、斜めにキッと睨んでやった。
「ほら、そうやってわざと俺の一番好きな顔をする。セリは本当に被虐的だね」
しまった、逆効果だ。
抱き上げられて、抗う間もなく唇を塞がれてしまう。
こうなると私はまな板の上の鯉と成り果てる。身長差が30センチもある所為だ。
ちなみに肖衛が185センチ、私はそこからマイナス30の、155センチ。
「こういうのダメ、って昨日も言った!」
「そして俺は却下した、と」
「もっ、降ろしてよ、この、サディスト……っ」
「うん、わかった」
「や、押し倒せとは言ってな、あ、」
「……涙ぐまれると、もっと虐げたくなるけどいいの?」
いいわけがない。
リビングのソファーで組み伏せられ、私はうう、と煩悶する。
どうすればいいんだ。怒っても泣いても喜ばれるなんて。
かといって素直に受け入れたって、やめてくれる可能性は低い。むしろ拍車をかけそうなものだし。
思うに肖衛はサドだ。それも、ただのサドじゃない。
物腰の柔らかい、丁寧な、けれど腑が墨色の、変態マニアック加虐性愛者なのだ。
正直、手に余る。
***
一週間のうち、最も巷に人が溢れる日といえば今日、土曜だろう。
この日の都内の繁華街ときたら、砂糖に群がる蟻を彷彿とさせるほどの混雑が必至だ。
そうと分かっていながら渋谷に繰り出す私を、世間では無謀と言う。
加えて庶民の味方マクドナルドを待ち合わせ場所に選んだのは、手痛いミスだった。
「で、どうよ新婚生活。やっぱりさ、脂ののった中年マニアック男は毎晩しつこく迫ってくるわけ?」
「とりあえず現在地を思い出してみようか、未知」
「なんで」
混雑する客席のほぼ中央、親友は飄々とした顔でビッグマックを頬張る。
ああ、小さい子供だっているのに。教育によろしくないよ。
「でもさあ、相手にするなら年上に限るよ。若い男は、たいしてこっちを満足させる技量のないうちから、理不尽な要求をつきつけてくるものだし」
帰ってもいいかなあ。
そう強気に出られないのは、目の前に食べかけのテリヤキバーガーとポテトがあるからだ。
もちろん私のもの。でも、厳密にいえば肖衛のものだ。彼から頂戴したお金で、購入したから。
これ以上負担はかけられないといったのに、無理矢理持たされてしまった。
食材を買うお金とは別に、カードを一枚。
正直、助かってはいる。でも、だからこそ、買ったものを無駄には扱えないのだ。
「まあ黙るなって。あたしの下ネタなんていつものことじゃない」
「おかげで私はいつも恥ずかしい思いばっかりさせられてるよ」
「あっはっ、愉快!」
豪快に高笑いをする彼女を前に、私は苦々しい気持ちでポテトを噛む。
すっかり冷めて塩気が飛んだそれは、お世辞にも美味しいとは言い難かった。
未知――桂木未知は私の、高校一年二学期からの大親友だ。
小悪魔agehaを愛読する彼女は盛りに盛ったヘアスタイルと、お水に片足を突っ込んだ姫系ファッションが特徴で、現在は渋谷のバーに務めている。
性格はこの通りサバサバしていて、人情にも厚いし、付き合いやすい。
気だってそれなりに合っていると思う。けれど、私達の外見は正反対だ。
派手で華やかな未知と、ゴシックじみたものが好きな私は、同じクラス内にいても接点なんてひとつもなかった。
シヴィールのライブで、ばったり出会うまでは。
『あれ、アンタ、小此木じゃん?』
『……ええと、どなたで』
『あのねえっ、あたし、桂木! 同じクラスの』
意外なことに声を掛けてきてくれたのは未知のほうからだった。私はというと、彼女の名前すら記憶していない始末だった。
しかし聞けば、未知はギターの董胡の大ファンとのことで、当然盛り上がってしまった。
『小此木ってどの曲が好み?』
『うーん、どれも好きだけど、あえていうなら“GRAVITY”』
『うお、同じ同じ! あたし、あの曲だけはCDも三枚持ってんだ』
『私も! ナツと握手がしたくて、つい。でも、メジャーになっちゃったら当然、手売りじゃなくなるよね』
『だよねえ。ファンの心は複雑だわよ』
『同じく』
こうして意気投合した私達はその日から大親友になった。
いわば、私達の友情はシヴィールによって結びつけられたものなのだ。
クラスメイト達には不思議そうな目で見られたけれど、かまわなかった。
一緒にライブハウスに通った日々は、私の高校生活で、最も楽しかったときだった。
未知に彼氏が出来た時も、別れた時も、一緒になって喜んだり泣いたりしたっけ。
もちろん、私の実家の事情も、お見合いの顛末も、結婚したことも、知っているのは未知だけだ。
だからこそ、肖衛がイコールでナツだった、と打ち明けられないのは辛い。
肖衛は――ナツは、私との結婚を公にする気はないらしい。
後から聞いた話によると、シヴィールの中でも一番の人気を誇るナツが独身でなくなると、人気が落ちて売り上げが減る可能性がある、それだけは避けたい、のだそうだ。
この間までいちファンだった私には、当然頷ける話だった。
彼らは憧れそのもので、どこか神聖で、不可侵の存在。実際にそうではないとしても、そう思っていたいのがファンの心理というもの。
それに、したくてした結婚ではないのだから、私が自己主張をする理由はない。
ないのだ。ないのだけれど。だけど……モヤモヤする。釈然としない、というか。
私はそのモヤモヤを抱えたまま、未知に新婚生活の様子を話して聞かせた。要所要所は隠しつつ、だけれども。
と。
「おい」
「あ痛ッ」
デコピンでもデコペンでもなく、デコケータイを額にくらって、悶絶する。
文句のひとつでも言ってやろうと顔を上げたら、
「アンタ、ばっかじゃないの」
逆に、返り討ちにあった。
「なにが義理よ。借りがなんだよ。無理矢理ヴァージン奪われたことで、二千万なんてもうチャラみたいなもんじゃん」
「……いや、自分の貞操にそんな価値があるとは……ていうか未知、声でか……」
「なのに、逃げ出すどころか家事までしてる? そんなの絶対おかしいって」
未知はイタリア人顔負けのオーバージェスチャーを繰り出してくる。
「ほ、ほら、でもあの人、毎日遅くまで仕事してくるし」
「そんなの当然じゃん! 今時誰だって必死で働いてるよ」
それはそうなのだけれど。
「人が良すぎるんだよ芹生は。いつだったか、見ず知らずの男と一日デートした挙げ句に強姦されそうになったの誰だっけ」
「お、お願いだから落ち着こう」
「落ち着けるわけないし。あたしが助けに行かなかったら、あんた、命さえ危なかったかもしれないんだよ」
反論はできなかった。彼女の言っていることに間違いはないから。
あれは高校二年生のとき、相手は大学生の、今思えばいかにも軽そうな男だった。
どうしても好きだと。一度でいいからデートがしたいと、そう頭を下げて頼まれたら、断りきれなくて。
危険性を察知した未知が密かに後をつけていてくれなければ、私は彼に好き勝手されていたと思う。
警戒心が薄かったことを、後に反省した出来事だ。
そこまで考えて、ふと思った。
あの時と今、状況的には結構似ているような気がするけれど、あの時ほど嫌じゃないのはどうしてだろう。
考えてもわかりそうになくて、私は無言でウーロン茶を口に含む。すると、
「しばらくウチにくる? 匿うよ、いくらでも」
突然そんなことを言われ、思わず目をしばたたいた。
「え、なに、いきなり」
「もう放っておけない。てっきり家族がなんとかするんじゃないかと思ってたけど、そんなことないみたいだし」
「……未知」
「あたしが言うことじゃないかもしれないけど、芹生の家族、みんなおかしいよ。借金の責任、娘にとらせて平気なんだもん」
平気、ではないと思う。
私を送り出したときの両親ときたら、それはもう悲痛の極みといったふうだった。
しかし――。
彼らの危機感といったら、娘の私同様、認識があまいというのが事実だと思う。
だって、あの状況で兄弟が増えたくらいだし。
「いくら緊急事態とはいえ、好きでもない男と結婚するとか、あたしなら冗談じゃないよ。一生不幸になるんだから」
不幸、か。私は頬杖をついた。
「……そうかな」
そうとも言い切れないんじゃないかな、と言ったら未知は驚くだろうか。
「芹生……?」
いや、驚くどころか呆れられるだろうな。やめよう。
最悪、そう言わされているととられて余計な心配をかけてしまいそうだ。
「ほら食べよ。未知、これから仕事でしょ」
「でも、芹」
「本当にどうしようもなくなったらお邪魔させてもらうよ。ありがと」
有無を言わせず強引にシェイクの容器を握らせる。
未知は納得のいかない顔をしていたものの、数秒後、短く息を吐くとぽつり言った。
「……ふうん」
私はというと、その間も冷めきったポテトをひたすら口に詰めていたのだった。
***
混雑した繁華街を抜け、スーパーで食材を購入して、坂口邸に辿り着いたのは夕焼けが綺麗な十七時過ぎのことだった。
シンクの横に買い物袋を担ぎ上げたら、カウンターの上のペアグラスが目に入った。
FrancFrancの、黒のゴブレットだ。
昨日、携帯電話と一緒に肖衛が買ってきてくれたそれは、袋から出したときのまま、寸分違わぬ様子でふたつ仲良く並んでいる。
……実はこれ、前から目を付けてたんだよね。
話した覚えはないから、肖衛の好みなのだと思う。となると私達は、案外趣味が合っているのかもしれなくて。
いや、当然といえば当然か。
私は、ゴシック系を好むナツに憧れて、こんな趣味になったのだから。
と、ぼけっとしていた私のお尻を叩くように、ポケットの中の携帯電話が震えた。この感覚、久しぶりだ。
確認してみるとそれは未知からのメールで、『困ったらいつでも呼びなよ!』と書かれていた。
(ホント、外見に似合わずイイ奴)
返信しようとして、手を止める。そういえば。
今朝、肖衛が何か言っていたっけ。声が聞きたいとか、メールが欲しいとか、そんな。
躊躇いながらも、ソファーの隅に腰を下ろす。
こんなことまでしてやる義理はない、と未知ならばそう言うに違いない。
だけど生憎これは……義理じゃあない。
思えば、携帯電話を貰った時、私は一番大切なことを忘れていたのだ。
メールの新規作成の画面を立ち上げて、膝を抱える。
こうして私は、十五分かけて、この携帯電話初のメールを――肖衛へのお礼の言葉を――打ったのだった。
《お仕事、お疲れさまです。毎日ありがとう》
何度もやり直して、どうにか出来上がった短い文章は、改めて読み返してみるとなんだか照れくさい。
やっぱりやめようかな……。
いや、形はどうあれ感謝の言葉なんだからもうこれでいいじゃない。そう言い聞かせて、親指にぐっと力を込める。
けれどそれが電磁波へと姿を変えた途端、後悔がどっと押し寄せて来た。
ちょっと待て。私、重要なことを忘れてない?
彼が遅かれ早かれ、必ずここに帰ってくるということを。
ど――どんな顔で出迎えたらいいんだ。恥ずかしすぎる。やっぱりやめればよかった。
ソファーに顔から倒れ込み、クッションを握りつぶしながら悶絶する。
(よく考えたら、家族以外の男の人にメールを送るの、初めてだ……)
と、突然がらがらがしゃんと何かをひっくり返したような音がして、直後、例の練習室のドアが全開になった。
「セリっ」
斜めに飛び退いて体を硬くした私は、我ながら猫顔負けの軽やかな身のこなしだったと思う。
しかし、悲鳴を上げる余裕はというと、全くなかった。
何故なら、そこに立っていたのが肖衛、その人だったから。
「な、っな……」
なんでいるのそこに。
「……っ、し、しごっ」
仕事はどうした。
「今日は早く終わったからお昼前に帰って来たんだ。そしたらセリ、出かけてるみたいだし、新曲でも書こうかなと」
「じゃっ、じゃあ、ずっとそこに」
「うん。ごめんね、セリが帰宅したのはわかったんだけど、キリのいいところまでやっちゃおうと思って」
そんな馬鹿な。
溢れ出す冷や汗をそのままに硬直していると、肖衛は喜色満面で歩み寄ってきた。
思わずもう五センチ後ずさった私は、ソファーの端のアームレストに乗ってしまった。
「……嬉しいよ、セリ」
毛足の長いラグに膝をついた彼は、そう言って両腕を伸ばす。
丸まって小さくなっていた私は、当然のようにその中へホールインワン。
と同時に、分厚い眼鏡の向こうに泣き出しそうな瞳を見つけたら、心臓が一瞬止まった。
「初めて逢った時みたいだ。こんなに嬉しい言葉、他にない」
耳元にあたる声は掠れていて、ナツの歌声とはまるで別物だ。
肖衛の声だ――と、思った。混じり気のない、彼そのものの声なのだと。
そんなことを思って、思った途端に、体中の血液が顔に集まってくるのを感じた。
「う、……う」
「どうした? お腹いたい?」
「うわああん!」
気付けば、私は叫びながら肖衛を突き飛ばしていた。
いや、実際には突き飛ばしたのではなく、彼の胸に頭突きを見舞った、というのが正しい。
だって、手には力が入らなかったから。まるで、麻酔を打った時みたいに。
私はリードの切れた犬のごとく、一目散に逃げた。リビングから廊下へ、廊下から階段へ。そして三階へは、一気に駆け上がった。
しかし運動が何より苦手な私は、寝室へ辿り着いたとき命からがらといった体だった。
「も、ヤだ……」
異常な熱を持った顔面を布団に押し付け、消炎を図る。
けれど瞼の裏には先程の光景が蘇ってくるばかりで、平静はかえって遠ざかった。
(おちつけ私)
あれはお礼メールであって、恥ずかしいことなんかじゃない。あたりまえの礼儀なんだよ。
そんなふうにメールの言い訳ばかりを考えて自分を納得させようとしていた私は、動悸の本当の意味を深く考えようとはせず。
ついでに、肖衛には順番が逆だとか不器用だとか思っていたくせに、本当に不器用なのは自分のほうだということには、気付く由もなかったのだ。