7、If the shoe fits, wear it. (a)
許せるか、なんて問われても――。
(どうやって許したらいいんだ)
あれから二時間、私は頭を抱えたまま桂木家のソファーで悶えていた。それ以上、どうにも身動きが取れなかった。
肖衛はとっくに自宅へひきかえしたし、未知は現在夕食の準備にとりかかっている。だから動いていないのは私だけだ。
今晩はというと、このまま桂木家離れの客間を宿として提供してもらうことになっている。
つまりひとまず肖衛とは、明日まで顔を合わせなくて済むのだ。しかし、それで気が楽になったかといえばそんなことはなかった。
だって、まず、事態が呑み込めない。
見殺しにしたとか言われても、ドラマか漫画の中の台詞みたいでピンと来ないのは、私の記憶が現実と違って美しすぎるせいだろう。
かといって、正しい記憶を取り戻したいかと言うと……このままのほうが断然いいに決まっている。
何日もここにご厄介になっているのは心苦しいから、早くなんとかしなきゃとは思うけれど――。
これまでいろんな出来事をなあなあにしてやり過ごしてきた私には、許す、がどんなことなのか、皆目見当もつかなかった。
美鈴さんに『甘い』って言われた理由、今になってやっと、身にしみてわかった気がする。
「芹生、メシ食える?」
トレーを片手に襖を開けたのは未知だった。
慌てて駆け寄って、それを受け取る。形の良いオムライスは、彼女の得意料理だ。
学生時代にも何度かごちそうしてもらったっけ。懐かしいな。
「ありがと、これ好き」
「そう? 一口でもいいから食えるだけ食いな。人間、体が資本だからね」
「うん! 大丈夫、お腹は減ってるもん」
無理して明るく振る舞ったのは未知にこれ以上心配をかけさせたくないからだけれど、事実、お腹は減っていた。
「いただきまーす」
ソファーとテーブルの間に腰を下ろし、スプーンをかまえる。いざ食べようとすると、未知がこちらに向かって深々と頭を下げた。
「さっきは出しゃばっちゃってごめん。つい、かっとなっちゃって」
ああ。私は半ば我に返ったような気持ちで、ううん、とかぶりを振った。
「うれしかったよ。やっぱり未知は頼もしいなって感心しちゃったくらい」
しかし「いや、でもさ――」親友の表情は依然として暗い。この部屋に入って来たときから、ずっと同じで。
「あたしも配慮が足らなかったよ。肖衛さんがあれだけ話したがらない理由、もっと深く考えるべきだったっつうか。あんなの……芹生にとっては聞かないほうが良かったよな」
「そんなことない!」
慌ててスプーンを持った手を、顔の前で振った。
「聞けて良かったよ。本心からそう思う」
生々しい記憶がないからか、特に嫌悪感とかは湧いていない。だから後悔もしていない。
そこは不幸中の幸いだったと思う。当然、複雑な心境ではあるけれど。
「あのまま肖衛に口をつぐまれてたら、私、いつかは疑心暗鬼になってあの家、飛び出してただろうし」
「そうかあ? 芹生のことだから“まあいいや”って適当なところで忘れてた可能性は大きいぞ」
「……痛いところを。まあいつもならね、そうだったかもしれない。だけど、今回は駄目だった気がするんだ」
「なんで」
疑問そうな顔で、うなじの後れ毛を指でくるくる弄ぶ未知は、同性の私から見てもドキッとするくらいセクシーだ。
私はオムライスの隅にスプーンを入れて、薄焼き卵を割った。鮮やかなチキンライスが、そこから顔を覗かせる。
「……特別だから」
ケチャップ味のごはんを咀嚼しながら思う。彼はちゃんと夕飯を食べただろうか、と。
変なの。私、こんなときなのに肖衛の食事の心配なんてしている。
「そっか。そうだよな。どうでもいい奴なら気にならないことでも、それが特別な相手となるとどうにも駄目だったりするよなあ」
未知は空中に焦点を結び、頬杖をついた。ぼんやりした顔。誰か、想う人でもいるのだろうか。
前の彼氏と別れてからもう二ヶ月は経っているから、好きな人くらいいてもおかしくはないけれど。
と、未知が私の脳天を、猫でも可愛がるかのようにぐしゃぐしゃと撫でたから、咄嗟に身を引いてしまった。なんだ、突然。
「お姉さんは嬉しいよ。アンタがちゃんと旦那に恋してくれて。憧れの相手と、相思相愛になってくれて」
自分の手柄ではなかろうに、やけに誇らしげな表情をしている。
「お、お姉さんじゃないでしょ。同い年のくせに」
「もうさ、それでいいじゃん。好きだから全部許す、って言っちゃえばいいじゃん。それで万事解決だよ。愛は世界を救うよ」
「……、そんな大げさな」
「さめた目をしたって無駄無駄。そりゃ立派な愛ってヤツよ。ああ、ロマンチックだわねえ。あなたのためならどんな障害だって乗り越えられます、ってか」
「ちょ、昼ドラみたいな持ち上げ方やめようよ。それは、まあ、」
そうだけど。恋ですけど。
私はむうっと唇をとがらせて視線をオムライスに落とした。照れ隠しだ、というのはどこか認めたくない気もする。
そうしてそれを無心になってかき込んだ後、スプーンを持つ手を止め、ふたたび彼女の目を見返した。
「ねえ、本当にそう思う?」
「いや、アンタ、自分の恋心くらい自分で自信持ってもらわないと」
「そうじゃなくて」
そこじゃなくて、だ。
「私が肖衛を簡単に許すって言って、それで本当に万事解決だと思うの」
尋ねた途端、親友の顔から笑顔が消えた。やっぱり気付いていたのか。
私はスプーンを置いてテーブルに肘をついた。
「……思ってないでしょ。未知もわかってるでしょ。肖衛はまだ何か隠してる。だって、どう考えたっておかしいもん」
そう、おかしいのだ。
彼は私と籍を入れていなかった。
その事実を隠していたのは、私が『十三年前の女の子だと気付いたから』だと言っていた。
それもまた若干妙な話ではあるのだけれど、細かいことには目をつむり、仮にここまではいいとしよう。
なら――そもそも結婚する気がなかったのは何故?
「肖衛が私の太ももの傷を知ったのは、結婚二日目のシヴィールメンバーとの顔合わせのときだよ。市役所に行ったのは卒業式の日だから、それより前になるわけで」
したがって。
「肖衛があんなにかたくなに籍を入れたがらない理由は、十三年前の出来事とは無関係ってことになるよね」
鈍感な私でも流石に気付くよ。
隠していた理由はそれかもしれないけれど、籍を入れずにいた理由は、それではありえないのだと。
だって市役所に行った時、肖衛は太股の傷を知らなかったのだから。
ゆえに私は、肖衛が結婚の妨げになる重大な何かを隠している――と思うに至ったと。
気付いちゃったか。そう未知は言って残念そうに背を丸めた。
「愛し合う二人にとって、それは些細なことだと思ったんだけどなあ」
「あのね。気付いてたなら言おうよ」
余計なことはべらべらと喋りまくるくせに、肝心な話になるとだんまりを決め込むなんてどれだけタチが悪いの。
「全然些細なことじゃないし、私はいやだよ。許すと言ったところでやっぱり籍は入れられませんって事態になったら」
それこそ、どうでもいい相手ではないのだから、困る。
「愛さえあればそこはなんとかなるかと」
「ならないし。なるようなら最初からこんな事態には陥ってないし」
「……まあな。悪い、前回勘繰りすぎたから今回は自粛しようと思ったんだ」
「そっか。でも、気付いたことがあったら何でも言ってくれると助かる」
「了解。以後そうする」
私達はそれきり無言で、残りのオムライスを一気に平らげたのだった。
恐らく――。
肖衛が本当に隠したかったのは『十三年前の出来事』じゃあない。それも一部ではあるのだろうけど、全部ではない気がする。
そういうパーツを繋げた先に見えてくる、大きな形のほうなのだ。
あれだけ人を煙に巻くのが得意な彼が、誤摩化すことなく今回の話をしてくれたことも引っかかる。
肖衛は、一体何を隠しているというのだろう。
***
その夜、前回のように長話をしなかったのは、未知が翌日に早朝からの仕事を控えていたためだ。
どうやら何かの撮影があるらしく、事務所を経由して現場の立ち会いに向かうらしい。
PVかと思い「監督もくるの?」と尋ねたらそうではないと言う。
「あれ、聞いてないか? ナツ、携帯電話のCMキャラクターに採用されたんだよ」
そこで初めて知った。肖衛がCMに出演するという話を。
意外だった。だってシヴィールがこれまで大掛かりなプロモーションを行ったのは一度くらい――例のチョコレートのタイアップくらい――のものだったし、音楽活動以外の露出なんてほとんどしてこなかったからだ。
「肖衛さんなら演技くらいお手のものなんじゃない? なんたって身代わりでナツを演じられるくらいなんだから」
未知はそう言ったけれど、私の中の違和感は拭われなかった。
その後、借りた辞書を私が開いたのは、布団に入ってからのこと。
ひいた言葉はもちろん『許す』だ。
そこには“ゆるめる”だとか“みとめる”だとか書かれていたけれど、なかなかピンと来るものには行き当たらなかった。
ようやくこれだ、と思ったのは半分ほど読み進めたころで“罪・咎を免ずること”という記述を目にしたときだった。
しかし『免ずる』だなんて日常会話ではなかなか耳にしない、やけに仰々しい言葉だ。響きだけで言ったら『許す』より難しい気がする。
それで、続けて『免ずる』も引いた。しかしそこに書かれていたのは――“許すこと”だった。
ふりだしに、戻ってしまった。
私は辞書を閉じると同時に枕に突っ伏し、溜めていた息を吐き出した。
(どうりで太刀打ち出来ないはずだよ)
学者の先生が考えてもこうなのだから、高卒の自分に歯が立つとは思えない。
美鈴さんに相談してみようか。元弁護士なら、的確なアドバイスをくれるかもしれないし。いや。
外に答えを探したって無駄か。
どこに何て書いてあろうと、誰が何を言おうと、結論を出すのは私自身なのだし。
彼をどう『許す』か。
もしくは『許さない』か。
私は少し落胆して、また、悩むしかなかった。
***
「じゃ、あたしは出かけるけど芹生は居たいだけここに居ていいからね」
翌朝、カフェオレとトーストだけの軽い朝食をとると、未知はそう言って慌ただしく家を出た。
玄関先で見送るのも図々しい気がして、私は彼女の愛車まで見送りについて行く。
「ありがと。私に出来ることがあったら未知も気軽に言ってよね」
「おう。とりあえず洗濯はしてくれるな。巨乳のアンタに下着は見られたくない」
「サイズ知ってるけど。というか未知、私より痩せててスタイルいいのに」
「そこは問題じゃない。あたしのちっぽけなプライドをどうか察してくれ」
「……わかった」
「あ、お父さんにもお母さんにもアンタが居ることは言ってあるから。くれぐれも遠慮とかすんなよ!」
そう言い残すと、彼女は閉まる窓の向こうで手を振りつつ敷地から出て行った。
最近購入したというピンク色の軽自動車はシートカバーがアニマル柄のフェイクファー仕様で、ルームミラーからは運転の妨げになるんじゃないかってくらいキラキラしたものが大量に下がっている。
アンテナに大きな紫色のリボンがついていたのには流石に驚いたけれど、未知らしいなあと笑ってしまった。笑ってしまってから、笑えている自分に安堵した。
親友ってやっぱりいいな。一緒に居るだけで、支えられている感じがする。
車が角を曲がりきるまで見送ると、私は居間に戻って飲み残しの冷めたカフェオレに口を付けた。
(さてどうしたもんかな)
人のいい未知に甘えてばかりもいられないし、早く結論を出すためには、やっぱりまず肖衛との別居を解消すべきか。
「ん?」
そこで気付いた。テーブルの上に置き去りにされた、ラインストーンだらけの携帯電話に。もちろん未知のものだ。
慌ててそれをつかみ、大通りまで駆けた。しかしすでに、未知の車は影も形もなかった。
どうしよう。息を切らしながら、迷う。追いかけようか、それとも家に置いておこうか。
今日は事務所を経由して撮影の現場に行くと言っていた。いつもの事務仕事ならまだしも、今回ばかりは携帯電話がないと不便だろう。
(よし、届けに行こう)
私は体を百八十度回転させ、もと来た道を駆け戻った。
しかし電車で届けるのでは間に合わない。なにしろあそこは急行も準急も快速も通り過ぎてしまう駅なのだ。さらにそこから事務所までの移動を考えると、どうしたってタクシーのほうが手っ取り早いし確実だと思う。
肖衛から預かったままの生活費に手を付けるのは気が引けるけれど――。
(お仕事のためだし、緊急事態だから仕方ないよね)
桂木家の離れに戻り、簡単に着替えて財布をつかむと、私は三たび玄関を飛び出した。
昨日、市役所へ行くために財布に入れ、結局使わなかった予備の五千円札が、役に立ちそうだった。
 




